二話目
長谷川純が本社から姿を消して、三ヶ月が経った。
季節は完全に冬へと移り変わり、街を行く人々は厚手のコートに身を包んでいる。
真野紗季の日常は、驚くほど平穏だった。
長谷川は諭旨解雇に近い形で地方の小さな関連会社へ出向となり、二度と本社の人間と接触しないよう人事部から厳重に警告されたという。彼からの執拗なLINEも、着信も、あの日を境に完全に途絶えていた。
「真野さん、この前の仕様書の修正、完璧だったよ。ありがとう」
「いえ、お役に立てて良かったです」
紗季は、新調した黒のノーカラージャケットの袖を軽く整えながら、淡々と微笑んだ。
今の彼女のワードローブは、モノトーンとネイビー、グレーだけで構成されている。髪は耳のラインできれいに切り揃えられたショートボブ。メイクは眉を整え、無色のリップクリームを塗るだけ。
それは「男を寄せ付けないための鎧」であり、同時に「誰の期待にも応えないための意思」でもあった。
社内での紗季の評価は、皮肉なことに以前よりも上がっていた。
「真野さんは最近、本当に隙がないというか、プロフェッショナルに徹しているよね」
同僚たちのそんな言葉を、紗季は静かに受け止めていた。女性であることを捨てたつもりはなかったが、職場において「女」という属性が引き起こすノイズの恐ろしさを、彼女は身をもって知ってしまったのだ。
あのバーガンディのブラウスをゴミ捨て場に投げ込んだ朝、紗季の心の一部も一緒に死んだのかもしれなかった。
だが、それで良かった。傷つくことも、怯えることもない今の静寂が、何よりも愛おしかった。
そんなある日の午後、開発部のフロアに意外な人物が姿を現した。
営業部の藤堂彰だった。
「真野さん、ちょっといいかな」
手元にいくつかの書類を持った藤堂が、紗季のデスクの横に立った。
いつも通りの爽やかな笑顔。けれど、その瞳の奥には、どこか落ち着かないような、戸惑いの色が混じっているのを紗季は見逃さなかった。
「はい、藤堂さん。どうされましたか?」
紗季は椅子を半回転させ、ビジネスライクな声で応じた。かつてのように、彼が近づくだけで心臓が跳ね上がるような感覚は、もう微塵も残っていなかった。
「実は、来期から始まる大型プロジェクトの件なんだけど……営業と開発の橋渡し役として、真野さんにメインで入ってほしいって、上層部から推薦があってさ。それで、俺が全体の統括をすることになったから、また……その、二人で組んで動くことが多くなりそうなんだ」
藤堂は、手元の資料を紗季のデスクに置きながら、少しだけ声を低くした。
「また、真野さんと一緒に仕事ができるのは心強いよ」
「ありがとうございます。私でよければ、精一杯サポートさせていただきます」
紗季の返答は淀みなかった。
藤堂は、そんな彼女の態度に、わずかに眉をひそめた。
「……真野さん、本当に雰囲気、変わったよね」
藤堂がぽつりと言った。
「え?」
「いや、ショートカットもすごく似合ってるし、今のカチッとした仕事人間って感じもかっこいいんだけど……なんていうか、少し遠くに行っちゃったみたいで。寂しいって言うと、先輩風吹かせすぎかな」
藤堂は冗談めかして笑おうとしたが、その笑顔はどこか引きつっていた。
彼は、気づいていたのだ。
あの日、会議室で「社内の女の子をそういう目で見ないようにしている」と言って紗季の好意を拒絶した。それは彼なりの保身であり、大人の配慮だったはずだ。しかし、その結果、紗季から自分に向かう「熱」が完全に消滅したことを、彼はこの数ヶ月でじわじわと実感していた。
人間は身勝手な生き物だ。
向けられている好意が重いと感じて遠ざけたはずなのに、それが完全に失われ、一介の「有能な同僚」として完全に線を引かれた瞬間、今度は猛烈な喪失感に襲われる。
藤堂の視線が、紗季の首元に注がれる。
そこには、あの金曜日に見せていたような、艶やかな鎖骨も、細いゴールドのネックレスもない。ボタンが一番上まできっちりと留められた、無機質な白いシャツがあるだけだった。
「私は何も変わっていませんよ、藤堂さん。以前よりも、仕事に集中できるようになっただけです」
紗季は真っ直ぐに藤堂の目を見て言った。その瞳には、彼を責める色も、引き止めたいという未練もなかった。ただの、澄んだ硝子のような拒絶。
「そっか……。うん、頼りにしてるよ。じゃあ、またスケジュール共有するから」
藤堂はそれ以上踏み込むことができず、どこか背中を丸めるようにして去っていった。
去りゆく彼の背中を見つめながら、紗季は小さく息を吐いた。
かつてあれほど焦がれた男性の背中が、今は驚くほど小さく、平凡に見えた。
その日の夜、紗季はプロジェクトの資料を整理するため、少し遅くまで会社に残っていた。
フロアの明かりがいくつか消され、静まり返ったオフィス。キーボードを叩く音だけが響く。
時計の針が午後八時を回った頃、紗季のスマートフォンのバイブレーションが机の上で小さく震えた。
ビクッと、紗季の肩が跳ねる。
長谷川の一件以来、彼女は通知の音に対して過敏になっていた。
恐る恐る画面を見ると、表示されたのは社内チャットの通知だった。送り主は、人事部の先輩、阿部からだった。あの日、紗季の相談に乗り、長谷川の処分に尽力してくれた女性だ。
『真野さん、まだ会社にいる? ちょっと、耳に入れておいた方がいいことがあって。今、通話できる?』
紗季は急いで受話器を耳に当て、阿部に電話をかけた。
「阿部さん、お疲れ様です。真野です。どうしたんですか?」
受話器の向こうの阿部は、少し言いにくそうな、重いトーンで話し始めた。
『真野さん、驚かないで聞いてね。……長谷川くんのことなんだけど』
その名前を聞いた瞬間、紗季の指先がすっと冷たくなった。
「長谷川くんが……何か?」
『実はね、彼、出向先の地方支社でもかなり荒れていたみたいで。業務に身が入らず、周囲ともトラブルを起こして、先週、自己都合っていう形で退職したの。それは会社としても想定内だったんだけど……』
阿部は一度言葉を区切り、声をさらに潜めた。
『彼の私物パソコンや、社宅の引き払いの立ち合いをした担当者から連絡があってね。彼の部屋から、真野さんの写真が大量に見つかったらしいの。それも、あの日、共有サーバーから削除されたはずの、展示会の時の写真……それだけじゃなくて、君が普段出社するときや、退社して駅に向かう後ろ姿の写真まで、何枚もあったって』
「え……」
紗季の頭の中が、真っ白になった。
処分が下され、彼は遠くへ行ったはずだった。しかし、彼の執着は、物理的な距離など関係なく、あの暗い部屋の中で増殖し続けていたのだ。
『会社としては、もう退職した人間だから強制力を持った対応はできないんだけど、念のため警察にはストーカーの相談実績として資料を提出したわ。真野さん、彼、もう会社に縛られる理由がなくなったから、何をするか分からない。最近、変な視線を感じたり、不審な連絡が来たりしてない?』
「いえ……最近は、何も……」
紗季の声が震えた。
平穏だと思っていた日常の足元に、実はまだ深い泥沼が広がっていたような、凄まじい悪寒が彼女を襲った。
『とにかく、しばらくは一人で遅く出歩かないこと。家に着いたらすぐに鍵をかけて、戸締まりを徹底してね。何かあったらすぐに警察に連絡するのよ』
「はい……ありがとうございます、阿部さん」
通話を終え、紗季はスマートフォンをデスクに置いた。
フロアの窓ガラスに、自分の姿が映っている。髪を切り、服を地味にし、女を消したはずだった。それなのに、あの男の脳内では、私は今もあの「バーガンディのドレスを着て、自分を誘惑した女」のまま固定されているのだ。
おしゃれをしたという「過去の事実」は、どれだけ外見を変えても消し去ることはできない。
紗季は急いでパソコンをシャットダウンし、バッグを掴んだ。
一刻も早く、この静まり返ったオフィスから、そして誰もいない夜の街から、自分の部屋という安全なシェルターへ逃げ帰りたかった。
夜の街は、昼間の華やかさが嘘のように冷え切っていた。
駅からの帰り道、紗季はフードを深く被り、早足で歩いた。歩くたびに、フラットシューズがアスファルトを静かに叩く。ヒールの音を響かせないのは、自分の位置を誰かに知らせないための防衛でもあった。
街灯の少ない住宅街の路地に入る。
自分の足音以外の音が、後ろから聞こえるような気がして、紗季は何度も振り返った。けれど、そこには冬の夜風に揺れる電線の影があるだけだった。
(大丈夫……考えすぎ。彼はもう遠くにいるし、会社も辞めたんだから、わざわざ東京に戻ってくるはずがない……)
自分にそう言い聞かせながら、アパートの敷地へ入る。
階段を上り、二階の自分の部屋の前へ辿り着いたとき、紗季は激しい動悸を覚えながらバッグから鍵を取り出した。
鍵穴に鍵を差し込み、回そうとした、その時だった。
「……真野さん」
背後の階段の踊り場、暗がりの影から、聞き覚えのある声がした。
紗季は全身の血が凍りつくのを感じた。
ゆっくりと振り返ると、そこに男が立っていた。
ヨレたジャンパーを羽織り、髪は伸び放題でボサボサになり、目の周りには深い隈が浮き出ている。かつての「大人しい同期の長谷川」の面影はどこにもなく、ただ執念だけを燃料に動いているような、異様な雰囲気を纏った長谷川純がそこにいた。
「長谷川……くん……」
紗季の声は、恐怖で掠れて音にならなかった。
長谷川は、一歩、また一歩と、狭い通路を紗季に向かって歩いてくる。
「会社、辞めさせられたよ。君が、人事にあんなこと言ったから。僕はただ、君を愛してただけなのに。君があんなに綺麗な姿を見せてくれたから、僕は応えようとしただけなのに……どうして、僕を悪者にするの?」
彼の声は低く、ひどく平坦だった。感情が高ぶっているのではなく、完全に「自分の正義」を確信している者の口調だった。
「来ないで……!」
紗季は背中をドアに打ち付けながら、必死にスマートフォンをポケットから取り出そうとした。しかし、寒さと恐怖で指が震え、ボタンがうまく押せない。
「髪、切ったんだね」
長谷川は紗季のショートボブを見つめ、歪んだ笑みを浮かべた。
「服も、そんな地味なスーツ着てさ。……藤堂に振られたから? あの男に無視されたから、そんな格好をしてるの? かわいそうに。でも、僕は知ってるよ。君の本当の姿を。あの金曜日、僕の目を奪った、あの最高にエロくて、綺麗な真野さんを。あの姿は、僕だけのものだ。他の誰にも見せたくない」
長谷川が懐から、何かを取り出した。
街灯の光を浴びて、それが鈍く光る。――それは、小さなハサミだった。
「その髪も、その地味な服も、君には似合わない。僕が、君をあの日の姿に戻してあげる。僕と一緒に来よう、真野さん。僕なら、君を世界で一番、女として扱ってあげられるから」
「嫌……嫌ぁあ!!」
紗季は悲鳴を上げ、スマートフォンの防犯ブザーのスイッチを必死に引っ張った。
けたたましい電子音が、静かな住宅街に鳴り響く。
「チッ……!」
長谷川の顔が初めて焦りに歪んだ。彼はハサミを構え、紗季を掴もうと一歩踏み込んできた。
紗季は目を瞑り、身を縮めた。
その時、階段を激しく駆け上がる足音が響いた。
「おい! 何してるんだ!」
鋭い怒声とともに、一人の男性が通路に飛び込んできた。
長谷川がハッとして振り返る。そこにいたのは、息を荒くした藤堂彰だった。
「藤堂……さん……?」
紗季は目を見開いた。なぜ彼がここにいるのか分からなかった。藤堂は今日、紗季の様子が明らかに おかしかったこと、そして彼女が定時を過ぎて怯えたように帰宅したことが気になり、心配になって後を追ってきたのだ。
「お前、長谷川か……! 何をしてる、離れろ!」
藤堂が長谷川に掴みかかろうとする。
長谷川は藤堂の姿を見ると、激しい嫌悪と屈辱の表情を浮かべた。
「藤堂……! お前、真野さんを捨てたくせに、何しにきた! 真野さんを見てるのは、僕だ! 僕だけだ!」
長谷川はハサミを藤堂に向けて突き出した。
「危ない!」
紗季が叫ぶ。
藤堂は一瞬怯んだが、営業で鍛えた体格の差を活かし、長谷川の手首を強く掴んで壁に押し当てた。
「やめろ! 警察はもう呼んである! どけ!」
「ウソだ……ウソだぁあ!」
長谷川は狂ったように暴れたが、住宅街のあちこちの窓が開き、防犯ブザーの音を聞きつけた住民たちが外に出てくる気配がすると、ついに力が抜けたようにへたり込んだ。
遠くから、ウーウーというサイレンの音が近づいてくる。
長谷川はその場に座り込み、ハサミを床に落とした。そして、長い前髪の隙間から、凍りついたような目で紗季を見つめながら、ボソリと呟いた。
「真野さん……君が、あの服を着たのが、すべての始まりだったんだよ……」
その言葉は、呪いのように夜の空気に消えていった。
警察が到着し、長谷川は現行犯で逮捕された。
紗季と藤堂は、参考人として近くの警察署へ同行を求められ、事情聴取を終えた頃には、東の空が白み始めていた。
警察署のロビーで、二人は並んでパイプ椅子に座っていた。
長時間の緊張から解放され、紗季の身体は小さく震えていた。そんな彼女の肩に、藤堂がそっと自分の厚手のコートをかけた。
「……ありがとう、ございます」
紗季はコートの温もりに包まれながら、小さく頭を下げた。
「いや、無事で本当に良かった。俺がもっと早く、長谷川の異常性に気づいていれば……真野さんにこんな怖い思いをさせずに済んだのに。本当にすまない」
藤堂は両手で顔を覆い、深くため息をついた。その声には、いつもの大人の余裕はなく、心からの後悔が滲んでいた。
紗季は、肩にかかった藤堂のコートを見つめた。
かつてなら、彼のコートに包まれるだけで、胸がはち切れそうになるほど嬉しかっただろう。けれど今、彼女の心にあるのは、ただの「助けてもらったことへの感謝」だけだった。
「藤堂さん」
「ん?」
「助けていただいたことは、本当に感謝しています。でも……長谷川くんが言ったこと、私、少しだけ分かってしまうんです」
「え……?」
藤堂が顔を上げ、怪訝そうな顔をした。
「私が、あの日、自分の身の丈に合わないおしゃれをして、男の人に見てほしいっていう欲望を振りまいたから……それが、あんな怪物を引き寄せてしまったんだって。……もし、私がいつも通り、地味で、目立たない真野さんのままでいたら、誰も傷つかずに済んだのかもしれません」
紗季の言葉は、自虐的で、深い諦念に満ちていた。
藤堂は、そんな彼女を真っ直ぐに見つめ、強く首を振った。
「違うよ、真野さん。それは絶対に違う」
「……え?」
「真野さんが綺麗になろうとしたことは、何も悪くない。誰かを好きになって、その人のために努力することの、どこが間違ってるんだ? ……悪かったのは、それを見て、自分の都合のいいように解釈して、君を傷つけようとした長谷川だ。そして……」
藤堂は言葉を詰まらせ、悲しげに目を伏せた。
「君のその命懸けの思いに、気づいていながら、自分の立場や職場の平穏のために『見なかったこと』にした、俺の卑怯さだ」
藤堂の言葉に、紗季は目を見開いた。
「藤堂さん、気づいて……」
「気づいてたよ。あの日、君がどれだけ綺麗だったか。どれだけ俺のために、その服を選んで、緊張してバルに来てくれたか。……分かってたんだ。でも、俺は怖かった。社内で噂になるのも、君との関係が変わって仕事がやりづらくなるのも嫌だった。だから、君の好意を『仕事のパートナー』という言葉で綺麗に包装して、突き返したんだ。……真野さんを追いつ詰めたのは、長谷川だけじゃない。俺の無関心と保身も、君を傷つけたんだ」
藤堂の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
彼は初めて、自分の「大人の配慮」という名の欺瞞を、紗季の前で剥き出しにした。
紗季は、その涙を静かに見つめていた。
(ああ……この人は、ちゃんと気づいてくれていたんだ)
その事実を知った瞬間、紗季の胸の奥で、長年凝り固まっていた冷たい塊が、音を立てて融けていくのが分かった。
私の努力は、私の恋心は、無意味ではなかった。彼はちゃんと受け取って、その上で、彼なりの理由で拒絶していたのだ。
長谷川という恐怖の影に隠れて見えなくなっていた、純粋な「失恋の痛み」が、今ようやく、紗季の元に正しく返ってきた。
「ありがとうございます、藤堂さん。そう言ってくれて、救われました」
紗季は、本当に久しぶりに、心からの笑みを浮かべた。
それは、藤堂を魅了するための笑顔ではなく、過去の自分を許し、受け入れるための笑顔だった。
「でも、もう大丈夫です。私は、藤堂さんのことも、長谷川くんのことも、ちゃんと乗り越えられますから」
藤堂は、その笑顔を見て、自分が本当に大切なものを失ったことを悟った。
目の前にいる女性は、もう自分の言葉一つで一喜一憂した後輩ではない。傷を引き受け、自らの足で立ち上がった、一人の強い大人の女性だった。
春が、巡ってきた。
真野紗季は、あの事件の後、しばらくの有給休暇を経て、再び本社へ復帰した。
社内での彼女の佇まいは、以前とはまた少し変わっていた。
「真野さん、おはよう。そのブラウス、すごく素敵だね」
同僚の女性社員が声をかける。
「ありがとう。新しく買ったの」
紗季は嬉しそうに微笑んだ。
今日の彼女が着ているのは、淡いミントグリーンの、柔らかなコットンブラウスだった。
髪はショートボブのままだが、毛先が軽やかに跳ねるようにスタイリングされている。耳元には、小さなパールのピアスが揺れていた。メイクも、ナチュラルだが、生き生きとした血色が宿るように仕上げられている。
あの事件の後、紗季は「女を消す」という極端な防衛をやめた。
他人の目を恐れて地味な服に閉じこもることは、結局、長谷川の呪いに支配され続けていることと同じだと気づいたからだ。
今の彼女のおしゃれは、藤堂のためでも、誰か見知らぬ男を誘惑するためでもない。「今日の自分が、一番心地よく、自分を好きでいられるため」の衣服。
誰の視線も基準にしない、彼女自身の色彩だった。
フロアの向こうから、資料を持った藤堂が歩いてくるのが見えた。
藤堂は紗季のミントグリーンの姿を見ると、一瞬だけ足を止め、それから、どこか切なげな、けれど敬意を込めた笑顔を向けた。
「真野さん、おはよう。来週のミーティングの資料、共有しておいたよ」
「おはようございます、藤堂さん。確認しておきますね」
紗季は、完璧にフラットな、心地よい同僚としての笑顔を返した。
そこには何のトゲもなく、何の執着もない。二人の関係は、最も理想的な「ビジネスパートナー」として、ここに完成していた。
会社を出ると、穏やかな春の陽光が街を包み込んでいた。
紗季は、新しく新調した、歩きやすくて、ほんの少しだけヒールのあるローファーで、軽やかにアスファルトを歩いた。
かつて、好きな人のために選んだバーガンディのダリアは、硝子のように脆く、粉々に砕け散ってしまった。
けれど、その破片を拾い集め、自らの手で編み直した今の彼女の心は、どんな風が吹いても、もう決して折れることはない。
紗季は前を向き、新しい季節の真ん中へと、力強く一歩を踏み出した。




