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AIで書いた小説  作者: 斉藤一


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(恋愛)硝子細工のダリア 一話目

 その日、真野紗季(まの さき)は、自分の部屋のクローゼットの前で一時間以上も立ち尽くしていた。

 床には、ハンガーから外された服がいくつも層をなしている。ネイビーのシフォンブラウス、ベージュのテーパードパンツ、グレーのミモレ丈スカート。どれも紗季が「オフィスカジュアル」という免罪符のもとに集めてきた、無難で、目立たず、機能的な服ばかりだ。二十六歳という年齢にふさわしい、清潔感はあるけれど主張のない衣服。それがこれまでの彼女の制服だった。

 しかし、来週の金曜日だけは、それでは駄目だった。


「……これじゃ、ただの『仕事ができる同僚』のままだよね」


 紗季は小さくため息をつき、ベッドに腰掛けた。スマートフォンの画面を点灯させると、そこには社内チャットの通知が残っている。


『真野さん、来週の金曜、展示会の後に少し時間ある? 開発部の連中と離れて、二人で新しくできたバルにでも行かないか。真野さんの意見、じっくり聞きたくてさ』


 送り主は、営業部のエースであり、紗季が二年前から密かに想いを寄せている先輩、藤堂彰(とうどう あきら)。

 藤堂は仕事ができて、誰に対しても気さくで、そして何より大人の色気がある男性だった。これまではプロジェクトの打ち上げや、大勢での飲み会でしか話す機会がなかった。その彼から、初めて「二人きり」の誘いを受けたのだ。

 これは、ただの業務ミーティングの延長かもしれない。けれど、紗季にとっては人生最大のチャンスだった。

 これまでの「地味で真面目な真野さん」から脱却し、一人の魅力的な女性として藤堂の目に映りたい。その一念が、彼女を突き動かしていた。


 翌日、紗季は意を決して、普段なら絶対に足を踏み入れない表参道のセレクトショップを訪れた。

 ガラス張りの洗練された空間、お香のような洗練された香水の匂い、そしてスタイル抜群の店員たち。それだけで気後れしそうになりながらも、紗季は「特別な日に着る服」を探した。


「何かお探しですか?」


 声をかけてきたのは、洗練されたボブヘアの女性店員だった。紗季は緊張で喉を鳴らしながら、なんとか声を絞り出した。


「あの……普段はあまり着ないんですけど、ちょっと気になる男性と食事に行くことになって。その、綺麗だなって思ってもらえるような服を……」


 店員はプロらしい、包み込むような微笑みを浮かべた。


「素敵ですね。お手伝いさせてください。お客様は肌が白くていらっしゃるから、淡い色よりも、思い切って深みのある色が映えますよ」


 店員が提案してきたのは、これまで紗季が選んだことのない系統の服だった。

 深いバーガンディ(ワインレッド)の、とろみのあるシルクブラウス。デコルテが緩やかなVネックに開いていて、鎖骨が綺麗に見えるデザインだ。ボトムスには、ハイウエストのタイトスカート。黒に近いチャコールグレーで、歩くたびに裾のスリットからかすかに足が覗く。

 試着室の鏡の中で、紗季は目を見張った。


「これが……私?」


 いつも髪を後ろで一つに結び、ノーファンデーションに近いメイクで過ごしている自分が、まるで別人のように見えた。ブラウスの生地が肌を滑る感覚が、心地よい緊張感を与える。


「すごくお似合いです! 線の細さが強調されて、上品な色気が出ますね」


 店員のお世辞混じりの言葉も、その時の紗季には確信へと変わった。

 彼女はさらに、その服に合わせるためのハイヒール、細いゴールドのネックレス、そして普段は使わない、ほんのり赤みの強いリップスティックまで買い揃えた。一連の買い物で、今月の給料の半分近くが飛んでいったが、後悔はなかった。これで藤堂の視線を釘付けにできるなら、安いものだと思えた。


 金曜日、秋の風が少し冷たい午後。

 ビッグサイトで開催された合同展示会の会場は、人熱と熱気で満ちていた。

 紗季は朝から、慣れない七センチのハイヒールに足の痛みを堪えながら、自社のブースに立っていた。

 いつもなら会社のロゴ入りポロシャツを着るところだが、今日は「午後から他社ブースの視察と、外部との会食がある」という名目で、購入した勝負服を纏っていた。髪もハーフアップにして緩く巻き、メイクも時間をかけて仕上げてある。


「真野さん、今日なんか雰囲気違うね。すごく綺麗だ」


 同僚の女子社員から褒められ、紗季は胸をなでおろした。浮いているわけではない。ちゃんと「綺麗」になれている。

 時折、他社の男性社員や来場者からの視線が、自分のデコルテや足元に注がれるのを感じた。恥ずかしさはあったが、それ以上に「女としての自信」が満たされていく感覚があった。


「お疲れ、真野さん」


 午後三時、展示会のピークが一段落した頃、ブースに藤堂が現れた。

 紗季は心臓が跳ねるのを感じながら、精一杯の笑顔を向けた。


「藤堂さん、お疲れ様です」


 藤堂は紗季の姿を見ると、一瞬だけ目を見開いた。


「あれ、真野さん。今日、なんかすごいね。これからデート?」


「えっ……あ、いえ、その。今日の夜、藤堂さんとお食事の約束をしていたので……少し、ちゃんとした格好をしようかなって」


 紗季は頬を赤らめながら、上目遣いで言った。これ以上ないアピールだった。

 しかし、藤堂は「ははは」と快活に笑い、紗季の肩をぽんと叩いた。


「そっか、気合い入れてくれてありがとう! でも俺、そんなに堅苦しい店に行くつもりじゃなかったから、ちょっと恐縮しちゃうな。じゃあ、五時にロビーで待ち合わせね」


 そう言って、藤堂は別のブースへと歩いていってしまった。

 紗季は、胸に小さな冷たい塊が落ちるのを感じた。


(……恐縮しちゃう、か。綺麗だね、って言ってほしかったな……)


 彼の反応は、予想していたものとは少し違っていた。ただの「後輩が気合いを入れてきた」ことに対する、大人の余裕ある対応。そこに、男が女を見るような熱はなかった。

 落胆しながら、紗季は書類を整理するために、ブースの裏手にある休憩スペースへ向かった。

 歩くたびに、ハイヒールがコツコツと音を立てる。その時、後ろから声をかけられた。


「あの、真野さん……ですよね」


 振り返ると、そこに立っていたのは、同じ開発部の同期、長谷川純(はせがわ じゅん)だった。

 長谷川は、紗季とは別のプロジェクトを担当しているエンジニアだ。普段はいつも度の強い眼鏡をかけ、ヨレたチェックのシャツにリュックサックを背負っているような、典型的な「理系男子」だった。仕事は丁寧で確実だが、口数が少なく、社内でもあまり目立たない存在だ。

 だが、今日の長谷川は様子が違っていた。

 眼鏡がコンタクトレンズに変わっており、髪もワックスで整えられている。服装も、ネイビーの仕立ての良いジャケットに、細身のスラックス。


「長谷川くん? どうしたの、その格好。一瞬分からなかった」


 紗季が驚いて言うと、長谷川は耳まで真っ赤にして、視線を泳がせた。


「あ、いや……今日の展示会、僕も他社の技術セミナーに出席することになってて。一応、会社の顔として外に出るから、まともな格好をしろって上司に言われて……」


「そうなんだ。すごく似合ってるよ。かっこいいじゃない」


 紗季は何気なく、お世辞のつもりで言った。自分自身が今日、服を選んで変わる楽しさを知ったばかりだったから、彼の変化を純粋に肯定したかったのだ。

 しかし、長谷川はその言葉を聞いた瞬間、凍りついたように動きを止めた。

 そして、じっと紗季の姿を見つめた。その視線は、これまでの「大人しい同期」のものではなかった。熱を帯びた、ひどく濃密な視線が、紗季のバーガンディのブラウス、露出した鎖骨、そしてタイトスカートのシルエットをなぞる。


「真野さんこそ……」


 長谷川の声が、少し掠れていた。


「今日、信じられないくらい綺麗です。その服、真野さんの肌の色にすごく合ってる。……僕、さっきブースで見かけたとき、息が止まるかと思いました」


「え……?」


 あまりに直接的で、熱烈な言葉に、紗季は戸惑った。

 いつもは「あ、うん、よろしく」くらいしか言わない長谷川が、こんな風に感情を露わにして褒めてくるなんて、想像もしていなかった。


「あ、ありがとう。ちょっと気合い入れすぎちゃったかな」


 紗季が苦笑いしながら一歩引くと、長谷川はさらに一歩、距離を詰めてきた。


「そんなことないです。本当に……本当に素敵です。あの、今日の夜、もしよかったら……」


「あ、ごめんね! 長谷川くん。私、この後藤堂さんと約束があって」


 紗季は慌てて、遮るように言った。これ以上、彼を勘違いさせたくなかった。


「藤堂さんと……?」


 長谷川の顔から、一瞬で血の気が引いた。しかし、すぐにその目は異様な光を宿した。


「……そうですか。営業部の。……分かりました。でも、展示会はまだありますから。また、社内で」


 長谷川は小さく一礼して去っていった。

 その去り際、彼の視線が最後にもう一度、紗季の足元に落ちた。それは、何かを値踏みするような、あるいは深く執着するような、奇妙な重さを持っていた。

 紗季は腕に鳥肌が立つのを感じ、自分の身体を抱きしめるようにして、ブラウスの襟元を少し抑えた。


 午後五時半。新橋近くの、隠れ家風のイタリアンバル。

 藤堂が連れてきてくれた店は、確かにおしゃれだったが、彼が言う通り「カジュアル」な雰囲気だった。周りの客は仕事帰りのサラリーマンやOLで、みんなワイワイとビールやサワーを飲んでいる。

 その中で、紗季のバーガンディのシルクブラウスとタイトスカートは、少し浮いていた。


「いやあ、真野さん。本当に今日の格好、気合入ってるね。なんか俺、場違いな店に連れてきちゃったみたいで申し訳ないよ」


 藤堂はメニューを見ながら、苦笑い交じりに言った。


「そんなことないです! 私、このお店の雰囲気、すごく好きです」


 紗季は懸命にフォローしたが、藤堂の視線は彼女の服ではなく、メニューやスマホの画面へと頻繁に向いていた。

 会話の内容も、ほとんどが仕事のことだった。今期の営業戦略、開発部への要望、次のプロジェクトの見通し。


「真野さんはさ、本当に視野が広くて助かるよ。開発の連中って、自分の技術にこだわりすぎて顧客のニーズを見ない奴が多いだろ? でも真野さんはちゃんと市場を見てくれる。これからも俺のサポート、頼むな」


 藤堂は笑顔でグラスを傾ける。

 それは、信頼する「ビジネスパートナー」に向ける最高の笑顔だった。

 けれど、紗季が欲しかったのはそれではない。彼女が今日、痛みに耐えてハイヒールを履き、デコルテを露出させたのは、彼に「一人の女」として意識されたかったからだ。

 藤堂は紗季の胸元に一度も目を留めることなく、ただ彼女の「有能な頭脳」だけを消費していた。


「……はい。頑張ります」


 紗季はワインを口に含んだ。せっかくの高級な味が、どこか砂のように無味乾燥に感じられた。

 その時、紗季のバッグの中でスマートフォンが微震した。

 そっと画面を見ると、LINEの通知が入っている。相手は、長谷川純だった。

 普段、業務連絡以外で連絡などしてこない彼からのメッセージ。


『真野さん、今、藤堂さんとご飯食べてるんだよね。楽しんでる?』


 紗季は一瞬、心臓が冷たくなるのを感じた。

 なぜ、今このタイミングでそんな連絡が来るのだろう。


『うん、仕事の話をしてるよ。どうしたの?』


 当たり障りのない返信を送る。すると、一分もしないうちに返ってきた。


『そっか。仕事の話なんだね。藤堂さん、真野さんの今日の綺麗さに気づいてないのかな。もったいないな。僕なら、そんな格好の真野さんを目の前にしたら、仕事の話なんて絶対にできないのに。今、どこにいるの?』


 ゾク、と背筋に冷たいものが走った。


「僕なら、仕事の話なんて絶対にできない」


 その言葉の裏にある、生々しい独占欲と性的なニュアンスが、テキストを通じて生々しく伝わってきた。さらに「今、どこにいるの?」という問いかけ。


「真野さん? どうしたの、顔色悪いよ。ワイン、口に合わなかった?」


 藤堂が心配そうに覗き込んできた。


「あ、いえ! なんでもないです。ちょっと、同期から業務の確認の連絡が来ちゃって……」


「なんだ、金曜の夜なのに大変だな。ほら、温かいパスタでも食べなよ」


 藤堂は優しく料理を取り分けてくれる。その優しさは、あくまで「優しい先輩」の域を出ない。

 目の前にいる大好きな人は、自分を全く女として見てくれない。

 画面の向こうにいる、意図していない男性は、自分を過剰なほどに女として見て、追ってきている。

 この歪な構造に、紗季は強い眩暈を覚えた。

 結局、藤堂とのディナーは二時間ほどで終了した。

 駅の改札前で、「じゃあ、月曜にまた会社でな。今日は付き合ってくれてありがとう」と、爽やかに手を振って去っていく藤堂の背中を見送りながら、紗季はプラットホームのベンチに座り込んだ。

 足が猛烈に痛む。ヒールを脱ぎ捨ててしまいたかった。

 スマホを見ると、長谷川から再びメッセージが入っていた。


『もう終わった? 迎えに行こうか? 真野さんの家の方、最近物騒だから心配だし』


 紗季は恐怖に近い感情を抱きながら、急いで返信した。


『大丈夫、もう電車に乗ったから。心配ありがとう。おやすみなさい』


 スマートフォンの画面を消し、バッグの奥底に押し込む。

 お気に入りのブラウスの袖をきつく握りしめながら、紗季は心の中で呟いた。


(私は……藤堂さんのために、この服を着たのに。どうしてこうなっちゃうの……)


 月曜日。会社に出社した紗季は、いつもの「地味な真野さん」に戻っていた。

 髪は後ろで結び、服はグレーのカーディガンに黒のプレーンなパンツ。メイクも最小限。

 金曜日のあの華やかな自分は、まるで一夜の幻だったかのように。

 しかし、現実は幻では終わらなかった。


「真野さん、おはよう」


 給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から声がした。長谷川だった。

 今日の彼は、いつものヨレたチェックシャツに戻っていた。けれど、紗季を見る目は、金曜日のあの熱を帯びたままだった。


「あ、長谷川くん。おはよう」


 紗季が距離を置いて挨拶すると、長谷川は一歩近づき、声を潜めた。


「金曜日……楽しかった?」


「え? ああ、うん。藤堂先輩にはいろいろ仕事のアドバイスをもらえて、すごく勉強になったよ」


 あえて「仕事の話」を強調する。

 しかし、長谷川は小さく鼻で笑った。


「藤堂さんって、見る目がないんだね。あんなに綺麗な真野さんを前にして、仕事の話だけなんて。僕だったら……」


 長谷川は一歩、さらに近づく。給湯室の狭い空間で、彼の体温が伝わってくるようで息が詰まる。


「僕だったら、真野さんを誰にも見せたくないって思う。あのバーガンディのブラウス、本当にエロ……いや、綺麗だった。今でも、目を閉じると浮かぶんだ。真野さんの鎖骨とか、タイトスカートから見えた足とか」


「長谷川くん、やめて」


 紗季ははっきりと拒絶の声を上げた。不快感と恐怖が限界に達していた。


「そういうこと言われるの、セクハラだよ。私たちは同期だし、仕事の仲間でしょ? そんな風に見られるのは困る」


 長谷川は目を見開いた。驚いたような、傷ついたような顔をした。


「セクハラ……? 僕は、ただ真野さんの美しさを素直に褒めてるだけなのに。だって、真野さんだって、誰かに見てほしくてあの格好をしてきたんでしょ? 男を意識して、あんなにデコルテを開けて、タイトスカートを履いて……。それを『綺麗だ』って言って何が悪いの?」


「それは……!」


 藤堂に見てほしかった、とは言えなかった。


「とにかく、もうそういう話はしないで。失礼します」


 紗季は長谷川を押し退けるようにして、給湯室を飛び出した。

 心臓が激しく鐘を打っていた。

 長谷川の言葉は、最悪の形で芯を捉えていた。確かに自分は「男(藤堂)を意識して」あの服を着た。それは事実だ。けれど、それを意図していない、好意を持てない男性から言語化され、性的な目線で消費されることが、これほどまでに悍ましく、恐ろしいことだとは知らなかった。

 自席に戻っても、仕事に集中できなかった。

 パソコンの画面を見つめながらも、背後に長谷川の視線を感じるような気がして、何度も振り返ってしまう。


 その日の午後、さらに追い打ちをかけるような出来事があった。

 社内の共有サーバーにある、先日の展示会の写真フォルダをチェックしていた時のことだ。

 記録用に広報が撮影した写真の中に、自社ブースの様子が写っていた。

 何枚かめくっていくと、紗季が写っている写真があった。

 それは、紗季が斜め後ろを向いて、書類を整理している姿だった。タイトスカートによって強調された腰のラインと、スリットから覗くふくらはぎが、不自然なほど中央に収まっている。

 撮影者の名前を見ると――『記録担当:開発部 長谷川純』となっていた。


(これ……仕事の写真じゃない……)


 広報の公式な記録写真に紛れて、長谷川が私的に撮影したとしか思えない、紗季の身体のパーツを強調した写真が数枚、アップロードされていたのだ。

 紗季は指先が小刻みに震えるのを止められなかった。

 彼は、私の「おしゃれ」を、自分への誘惑か何かだと勘違いしている。

 私が藤堂のために差し出した果実を、横から無理やり奪い取って、貪ろうとしている。

 その時、デスクの電話が鳴った。内線だった。

 恐る恐る受話器を取る。


「はい、真野です……」


『真野さん、藤堂だけど。今、ちょっといい?』


 大好きな人の声。それだけで、張り詰めていた糸が少し緩みそうになった。


「あ、藤堂さん。はい、大丈夫です」


『さっきの展示会の件で、営業資料の数字を少し修正したくてさ。今日の夕方、会議室Bで打ち合わせできるかな。二人で』


「二人で」という言葉に、かつての紗季なら歓喜しただろう。けれど、今の彼女の脳裏には、長谷川の影がべったりと張り付いていた。


「……はい。分かりました。四時に会議室Bですね。伺います」


 午後四時、会議室B。

 紗季は資料を抱えて部屋に入った。藤堂はすでに座っており、パソコンを開いていた。


「おう、真野さん。座って」


 藤堂はいつも通り爽やかだった。

 紗季は彼の向かいに座り、資料を広げた。今日の彼女は、首元までしっかりとボタンの詰まった、地味なオックスフォードシャツを着ていた。髪もきっちりとひっつめ、メイクもほとんどしていない。

 藤堂は資料を指差しながら、修正点を指示していく。

 仕事の話はスムーズに進んだ。藤堂の指示は的確で、紗季もそれに応える。

 けれど、紗季の心はここに半分もなかった。


(藤堂さん……どうして今の私には、何も言ってくれないの?)


 金曜日の華やかな私にも、今日の地味な私にも、彼の態度は一ミリも変わらない。

 彼は私という「記号」と仕事をしているだけで、私の外見にも、その裏にある感情にも、全く興味がないのだ。


「――よし、こんなところかな。ありがとう、真野さん。いつも助かるよ」


 藤堂がパソコンを閉じた。打ち合わせは三十分ほどで終わった。


「あの、藤堂さん」

 紗季は思わず、声をかけていた。ここで引いたら、もう二度と彼との距離は縮まらないかもしれない、という焦燥感があった。


「ん? どうした?」


「その……金曜日のことなんですけど」


「金曜日? ああ、バルに行ったやつね。楽しかったな。また行きましょう」


「あの時……私、いつもと違う格好をしてたの、気づいてくれましたよね?」


 藤堂は一瞬、きょとんとした顔をした。それから、少し困ったように笑った。


「ああ、うん。すごく綺麗だったよ。でもさ、真野さん。俺、社内の女の子をそういう目で見るの、あんまりしないようにしてるんだよね。特に真野さんみたいに仕事ができる優秀な後輩は、変に変に意識しちゃうと仕事がやりづらくなるだろ? だから、あの時もあえて深く突っ込まなかったんだ。悪かったな、せっかくおしゃれしてきたのに、無粋な対応しちゃって」


 藤堂の言葉は、誠実だった。

 紳士的で、大人の配慮に満ちていた。

 けれどそれは、紗季にとっては「絶対に踏み越えられない一線」を引かれたことと同義だった。

 彼は職場の平穏と、自分の立場を守るために、紗季の好意(おしゃれ)をあえて「スルー」したのだ。


「……そう、ですか。いえ、私のほうこそ、場違いな格好をしてしまって、すみませんでした」


 紗季は引きつった笑顔を浮かべるのが精一杯だった。


「いやいや、本当に似合ってたよ! じゃあ、俺、次のアポあるから」


 藤堂は爽やかに笑って、会議室を出て行った。

 一人残された会議室で、紗季は机に突っ伏した。

 涙は出なかった。ただ、虚しさと、圧倒的な敗北感だけが残った。

 好きな人のためにした努力は、その人の「大人の配慮」によって綺麗にシャットアウトされた。


 その時、会議室のドアが静かに開いた。

 藤堂が戻ってきたのかと思って、紗季は急いで顔を上げた。

 しかし、そこに立っていたのは長谷川だった。

 長谷川はドアを閉めると、カチャリと鍵をかけた。


「長谷川くん……!? 何してるの、鍵なんてかけて」


 紗季は立ち上がり、椅子を後ろに引いた。

 長谷川はゆっくりと紗季に近づいてきた。その目は、完全に据わっていた。


「見てたよ。藤堂さんと二人で会議室に入るの」


「な、何言ってるの……ただの仕事の打ち合わせだよ」


「嘘だ」


 長谷川の声が一段と低くなる。


「藤堂さんは、君のことなんて見てない。さっき出て行ったときの顔を見た。いつも通りのビジネススマイル。君がどんなに彼を想って、どんなに可愛い格好をしても、あの男は君を見ない。……でも、僕は違う」


 長谷川は紗季の目の前まで来ると、彼女の机に両手を突いた。紗季を閉じ込めるように。


「僕は、君がどんな服を着てても、どんな髪型をしてても、全部見てる。金曜日のあのブラウスも、今日のその地味なシャツも、君の体のラインがどうなってるか、僕には全部わかる。真野さん、あんな男のことは諦めなよ。君を本当に『女』として愛して、求めてるのは、僕だ」


 長谷川の手が、紗季の肩に伸びてきた。


「やめて!!」


 紗季は全力で長谷川の手を振り払った。


「触らないで! 気持ち悪い!!」


「気持ち悪い……?」


 長谷川の顔が、屈辱と怒りで歪んだ。


「なんでそんなこと言うの? 君だって、男に求めてほしくて、あんなエロい格好をして会社に来たんだろ!? 藤堂なら良くて、僕なら気持ち悪いっていうのは、おかしいじゃないか! 君が撒いた種だろ! 僕をあんなに興奮させておいて、今更被害者ぶるなよ!」


 長谷川の言葉は、狂気に満ちていた。

 彼は、紗季のおしゃれを「自分に対する性的シグナル」として脳内で変換し、それを拒絶されることを「裏切り」だと感じていたのだ。


「違う……私は、あなたのためにあんな格好をしたんじゃない! 私は……!」


「誰のためだって同じだよ! 現に、君のあの姿を見て、一番価値を感じたのは僕だ! 僕の愛を受け入れろよ!」


 長谷川が再び、掴みかかろうと手を伸ばした。

 その時、会議室のドアノブが激しくガチャガチャと回った。鍵がかかっているため、ドアは開かない。


「おい、中、誰かいるのか? 鍵がかかってるぞ」


 外から聞こえたのは、総務部の社員の声だった。

 長谷川はハッと我に返り、一歩後ろに下がった。その顔に、一瞬で「いつもの大人しい長谷川」の怯えが戻った。

 紗季はその隙を見逃さず、長谷川を突き飛ばして鍵を開け、ドアをこじ開けた。


「あ、真野さん? どうしたの、顔真っ青だけど……」


 総務の社員の声を無視して、紗季は廊下を全力で走った。

 自分のデスクに戻り、バッグをひったくるように持つと、そのまま「体調不良」と言い残して会社を飛び出した。


 自宅に逃げ帰った紗季は、玄関で崩れ落ちた。

 身体が震えて止まらない。涙が、今になってボロボロと溢れてきた。


(どうして……どうしてこんなことになっちゃったの……)


 ただ、好きな人に可愛いって思われたかっただけなのに。

 少しでも、彼との距離を縮めたかっただけなのに。

 クローゼットを開けると、あの金曜日に着たバーガンディのシルクブラウスとタイトスカートが、ハンガーに掛かっている。

 それは、彼女の「恋心」の象徴のはずだった。

 けれど今、その服を見ると、長谷川のあの、身体を舐め回すような視線と言葉がフラッシュバックする。


「君があんな格好をして男を誘惑したんだ」

「僕をあんなに興奮させておいて」


 あの服は、長谷川の歪んだ欲望を惹きつけるための「撒き餌」にされてしまったのだ。

 もう二度と、あの服を着ることはできない。それどころか、おしゃれをすること自体が、恐怖へと変わってしまった。

 スマートフォンの画面が、何度も明滅する。

 長谷川からのLINE、そして着信。


『真野さん、さっきはごめん。感情的になった』

『でも、僕の気持ちは本当なんだ』

『既読にならないけど、家に着いた?』

『今、君の家の近くの駅にいるよ』


「ひっ……!」


 紗季は悲鳴を上げ、スマートフォンの電源を完全に切った。

 恐怖が部屋の空気を支配していく。彼は家まで来るかもしれない。私の日常は、あのクローゼットの革命を起こした日から、完全に壊れてしまった。

 翌日、紗季は会社を欠勤した。

 そして、信頼できる人事部の女性先輩に、すべてを打ち明けた。長谷川からのメッセージの履歴、展示会の写真、そして会議室での出来事。

 会社側の対応は早かった。

 長谷川の行為は明確なストーカー行為およびセクシャルハラスメントと認定され、彼は自宅待機処分となり、その後、地方の支社への転勤、あるいは諭旨解雇の処分が下されることになった。

 写真フォルダからも、紗季の不適切な写真はすべて削除された。

 物理的な危機は、去った。

 長谷川は二度と、本社の紗季の前に現れることはない。

 けれど、紗季の心に負った傷は、簡単には癒えなかった。


 一ヶ月後。

 紗季は変わらず、本社で働いていた。

 髪は短くショートカットにし、服は完全にモノトーンの、最も地味なリクルートスーツに近いものばかりを着るようになっていた。メイクも一切しない。


「真野さん、なんか最近、すっかり落ち着いちゃったね」


 同僚たちの言葉も、今の紗季には「安全の証」として心地よかった。

 目立たないこと。女を消すこと。それが、彼女が手に入れた新しい防衛策だった。

 ある日の夕方、社内のエレベーターで、偶然藤堂と二人きりになった。


「あ、真野さん。体調、もう大丈夫?」


 藤堂がいつもの、爽やかな笑顔で声をかけてきた。


「はい、藤堂さん。ご心配をおかけしました。もうすっかり元気です」


 紗季は淡々と答えた。

 藤堂は紗季のショートカットと、地味なグレーのスーツに目をやった。


「そっか。……なんかさ、真野さん、雰囲気変わったよね。前の、展示会の時の華やかな格好もすごく似合ってたけど、今のカチッとした真野さんも、いかにも『仕事ができる』って感じでかっこいいよ」


 藤堂は、純粋な褒め言葉のつもりで言っていた。

 けれど、紗季の胸には、もう何の感情も湧かなかった。


(ああ、この人は本当に、何も分かっていないんだな)


 彼が求めているのは、どこまでも「都合の良い、無害で有能な駒」なのだ。

 あの日、彼のために流した涙も、彼のために擦りむいた足の痛みも、彼のために買った高いリップスティックも。すべては、この人の前では最初から存在しないも同然だった。


「ありがとうございます。私には、この格好が一番落ち着くんです」


 紗季は真っ直ぐに藤堂の目を見て、微笑んだ。そこにはもう、かつてのような熱も、上目遣いの躊躇いもなかった。

 エレベーターが1階に着き、ドアが開く。


「じゃあ、お疲れ様」


「お疲れ様です、藤堂さん」


 藤堂が先に降りていく。その背中を見送りながら、紗季は小さく息を吐いた。

 恋は、終わった。

 長谷川という怪物を呼び寄せてしまったあの恋は、藤堂の無関心という冷気によって、完全に凍りつき、砕け散った。

 会社を出ると、秋の夜風が紗季の短い髪を揺らした。

 彼女は、表参道のあのセレクトショップの紙袋を、今朝、ゴミ捨て場に置いてきたことを思い出した。中には、あのバーガンディのブラウスが入っていた。

 私は、誰かのために綺麗になる必要なんてなかったんだ。

 誰かの視線を気にして、自分の形を変える必要なんてなかった。

 紗季は、ポケットの中で、新しく買い直した「色を持たない、ただの保湿用リップクリーム」を握りしめた。

 これからは、自分のために生きよう。地味でも、誰の目にも留まらなくても、自分が安全で、自分の足でしっかりと立てる服を着て。

 夜の街に踏み出す紗季の足元は、新しく新調した、歩きやすいフラットシューズだった。

 コツコツという高い音はもうしない。けれど、その足取りは、あの金曜日よりもずっと、力強く地面を捉えていた。

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