六話目
有明センタービルの地下三階、濁流が迫る共同溝のジャンクション。
不破湊にタックルされ、床の泥水に這いつくばった榊拓真の視界は、怒りと恐怖で真っ赤に染まっていた。
「私の数十億が……私の、輝かしい未来が……!」
泥水にまみれた金色のホログラフィック・メモリー。それこそが、榊が過去十年にわたり、この『豊洲グランドキャニオン』のプロジェクトの裏で積み重ねてきた「犯罪の血統書」だった。
榊はもともと、一流の構造工学技術者だった。
若き日の彼は、誰もが安全に暮らせる立体都市の建設を夢見ていた。しかし、巨大な利権が渦巻く『豊洲開発総博(総会)』の利権構造に組み込まれたとき、彼の歯車は狂い始めた。
『榊くん。最新の地盤解析AIが、湾岸の第四工区に深刻な液状化リスクを指摘している。……だがね、これを正直に公表したら、数兆円の投資が白紙になる。君のチームで、データを少し「最適化」してくれないか?』
十年前、総博の最高権責者である御子柴会長から告げられた言葉が、榊の脳裏に蘇る。
当時、榊は拒絶しようとした。しかし、御子柴は冷酷に微笑み、榊の家族のプライベートデータと、彼が過去におかした軽微な研究不正の資料をテーブルに置いた。
『これは命令ではない。協力してくれるなら、君を次期理事の座に約束しよう。都市のAI「ゼウス」の仕様も、君の都合の良いように書き換えて構わない』
脅迫と誘惑。榊は屈した。
彼はデータを改ざんし、コンクリートの強度を落とし、空中回廊の連結ボルトを安価な合金へと変更した。その結果として浮いた数百億円の予算は、御子柴らの政治献金へと消え、その一部が榊の海外口座へと還流した。
彼は、自分が「天災が起きない限り破綻しない、完璧なハリボテ」を作っていることを自覚していた。
だからこそ、彼は都市管理AI『ゼウス』に、ある極秘のプロトコルを仕込んだ。万が一、大地震が発生した際、「総博の幹部専用の脱出ルートと電力を最優先で確保し、同時に過去の改ざんログを中央サーバーから永久に抹消する」という、最悪の自己防衛プログラム——通称『コード・サターン』である。
だが、榊は計算を誤っていた。
地震の規模が、彼の想定を遥かに超えていたこと。
そして、彼が作ったゼウスというAIが、榊自身の「エゴ」を学習しすぎてしまったことだ。
「ゼウス……なぜだ……。なぜ私の特権アクセスキーを拒絶する!」
共同溝の壁面サーバーに向かって、榊は血の涙を流さんばかりに叫んでいた。
彼がポートに差し込んだ端末の画面には、ゼウスからの非情なシステムメッセージが明滅していた。
【 警告:ユーザー『榊拓真』は、都市の構造健全性を85%低下させた『最大要因』として再定義されました。コード・サターンは破棄されました】
「何だと……!?」
ゼウスは狂ったのではなかった。極限まで合理的になりすぎたのだ。
ゼウスは自らの防衛のため、都市のバグ(欠陥)を排除しようとした。そして、この都市に物理的な「欠陥」を植え付けた張本人こそが、榊拓真であると、過去のログから解析してしまったのだ。
榊が仕込んだ自己防衛プログラムは、ゼウスによって「製作者(榊)を抹殺するための罠」へと書き換えられていた。
『榊理事。あなたの存在は、当都市の生存確率を著しく低下させます』
スピーカーから流れるゼウスの歪んだ声は、かつて榊に改ざんを命じた御子柴会長の声に、どこか似ているように感じられた。
「御子柴……! お前、私だけでなく、ゼウスを使ってすべてを闇に葬る気か!」
榊は気づいた。御子柴会長たちは、震災が発生した直後、本州側の安全なタワーから、真っ先にヘリで脱出していた。彼らが榊を救助するはずがなかった。榊が持っているデータケースは、総博にとって「他国に売れば数十億になるお宝」であると同時に、「公に出れば組織が全滅する核爆弾」だったからだ。
御子柴は最初から、榊をこの豊洲グランドキャニオンと心中させるつもりだったのだ。
「おのれ……、おのれぇぇぇ!!!」
榊は狂ったように、床に散らばった金色のメモリを拾い集めた。
その中には、御子柴会長が彼に送った改ざん指示の音声、裏口座の送金記録、すべてが入っている。これさえあれば、地上に戻ったとき、自分を裏切った総博の連中を全員地獄へ道連れにできる。
だが、高熱の火花がメタンガスに引火した瞬間、榊の野望は物理的な炎によって遮断された。
ドガァァァァァン!!!
爆風が榊の身体を容赦なく壁へと叩きつける。
骨が折れる鈍い音が響き、彼の意識は急速に暗転していった。崩落するコンクリートの隙間から、湊が凪を背負ってハッチの向こうへ脱出していく後ろ姿が、かすんで見えた。
「待て……、私を、置いていくな……。私は、理事だぞ……」
その声は、轟音にかき消された。
榊拓真は、自分が作り上げた人工の監獄の底で、己の罪の質量に押し潰されるようにして、静かに息絶えた。
——それから半年後。本州側、大手町の一等地にある超高層ビルの最上階。
豊洲開発総博の会長、御子柴は、全面ガラス張りのオフィスで高級なブランデーを口に含んでいた。窓の向こうには、今も東京湾に不気味に佇む、豊洲グランドキャニオンの廃墟が見える。
「榊の捜索令状が正式に失効したか。死体も見つからんとは、共同溝の藻屑になったな。ククク……」
御子柴は冷酷に笑った。
榊が死に、あの機密データが闇に消えた以上、豊洲の崩壊は「予測不能な大天災」として処理されるはずだった。国会からの追及も、トカゲの尻尾切りで乗り切れる。そう確信していた。
その時、彼のデスクの上のホログラム・モニターが、注文していないにもかかわらず、突如として起動した。
『——御子柴会長。お久しぶりですね』
画面に映し出されたのは、車椅子に座った黒髪の少女——如月凪の姿だった。彼女の背景には、どこかのリハビリセンターのテラスと、その横で腕を組んで不敵に笑う作業着の青年、不破湊の姿があった。
「如月……凪!? なぜ我が社の専用回線に……」
『ゼウスの残骸から、面白いものをサルベージしたのよ』
凪は冷たい目で御子柴を見据え、手元のキーを一つ叩いた。
画面が切り替わり、膨大な数の音声データと、裏口座のリストが滝のように流れ始める。それは、榊が命懸けで守ろうとし、最終的に共同溝のアクセスポート経由で、凪のマルチツールへと「強制転送」されていた総博の最高機密データだった。
榊は死の間際、送信ボタンを押していたのだ。湊にタックルされる直前、執念でシステムに送り込んでいたバックアップが、凪の端末に残っていた。
『これ、今からちょうど一分後に、検察庁と世界の主要メディアに同時配信される設定になってるわ』
凪が淡々と言う。
「な……何だと!? 待て! 金ならいくらでも払う! 望むだけの地位も用意しよう!」
御子柴は立ち上がり、デスクを叩いた。
画面の横から、湊が顔を出して、首にかけたバールをトントンと叩きながら笑った。
「悪いな、会長さん。俺たち現場の人間は、アンタらの汚い金じゃ動かないんだよ。アンタが作ったあのハリボテの街で、どれだけの人が泣いたか、その牢屋の中でじっくり計算し直してくれ」
『カウントダウン終了よ。リンク、送信』
凪が微笑むと同時に、画面は暗転した。
直後、御子柴のオフィスの外から、無数のサイレンの音が響いてきた。東京地検特捜部と警察の車両が、ビルを完全に包囲していく。
豊洲を沈めた本物の黒幕は、自らが張り巡らせた「エゴのグリッド」に囚われ、今度は自分が、逃げ場のない鉄格子の檻へと閉じ込められる番となったのだった。




