五話目
豊洲中央タワーの屋上ヘリポート。
激しかった暴風雨は嘘のように和らぎ、引きちぎられた雲の隙間から、どこまでも透明な秋の青空が顔を覗かせていた。東の空から差し込む朝日は、まだ濁流に没している湾岸の街々を、残酷なほど美しい黄金色に染め上げていく。
「……ヘリが、来るわね」
湊の背中で、凪が眩しそうに目を細めながら呟いた。
「ああ。どうやら俺たちの勝ちみたいだ、凪」
湊はヘリポートの強固なフェンスに身体を預け、大きく息を吐き出した。
彼の全身はすでに限界を迎えていた。右肩の裂傷は凪の即席包帯のおかげで血が止まっていたが、ズキズキとした鈍痛が波のように押し寄せている。外部バッテリーを直結した際に焼き焦げた右手の指先は感覚が麻痺し、作業ズボンは泥と海水でカチカチに固まっていた。それでも、彼の胸を満たしているのは、かつてないほどの達成感と心地よい疲労感だった。
バタバタバタバタバタ!!!
上空でホバリングを開始したのは、災害派遣要請を受けた自衛隊の大型救難ヘリコプター『UH-60J』だった。機体から放たれた強力なダウンウォッシュ(下向きの気流)が、湊たちの衣服を激しく揺らし、周囲に溜まっていた雨水をきらきらと四方に飛散させる。
ヘリのハッチが開き、オレンジ色の無線服を着た救難員がロープで次々と屋上へ降下してきた。
「生存者二名確認! 怪我をされているようですが、意識ははっきりしています!」
拡声器を通した救難員の力強い声が響く。
救難員の一人が湊たちに駆け寄り、その凄惨な衣服の汚れと、湊の右肩の血痕を見て目を見開いた。
「大丈夫ですか! よくここまで……。すぐに担架を降ろします!」
「俺は歩けます。それより、先にこの子を」
湊は背中の凪をゆっくりと下ろし、救難員の腕へと委ねようとした。
だが、凪は離れる間際、湊のボロボロになった作業服の袖を、細い指先でぎゅっと握りしめて離さなかった。
「湊……」
「大丈夫だ。すぐ隣にいるよ。ヘリの中は暖かいはずだから、乗り込もう」
湊が優しく微笑むと、凪は小さく頷き、自衛隊員が手際よく広げた専用の救助用シートに体を収めた。
湊もまた、隊員に肩を支えられながらリフトのハーネスを装着される。
地面から足が離れた瞬間、湊は初めて、自分が「地上百数十メートルの空」ではなく、「生き延びた世界」へと引き上げられていることを実感した。
ヘリのキャビンに運び込まれ、厚手の毛布を肩からかけられたとき、凪はすぐに湊の隣の席に座り、彼の無事な左手を両手で包み込むように握ってきた。
「手の傷、すぐにお医者さんに診てもらおうね。私のせいで、こんな……」
凪の瞳に、再び涙が潤み始める。
「気にするなって。これくらい、一週間も職人の特製軟膏を塗っておけば元通りさ。それより凪、君のノートパソコンは?」
「ちゃんと自衛隊の人が回収してくれたわ。ゼウスのデータも、榊理事が遺した隠蔽工作のログも、全部この中に入ってる」
凪はキャビンの床に置かれたバックパックを見つめ、少しだけ表情を硬くした。
「これから、大変なことになるわ。この豊洲グランドキャニオンが、どれほど杜撰な計画で建てられたか、世界中に知れ渡ることになる。総博の残党は私を黙らせようとするかもしれないけれど……」
「その時は、また俺を呼びなよ」
湊は左手で凪の手をぽんぽんと叩いた。
「どこにいたって、どんな高いビルの壁だって、命綱一本で君のところまで駆けつけてやるからさ。俺たちはバディだろ?」
凪は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、この旅の中で一番、年齢相応の少女らしい、悪戯っぽい笑顔を咲かせた。
「ええ。世界一頼りになる、現場主義のバカなバディね」
ヘリが大きく旋回し、沈みゆく豊洲グランドキャニオンのビル群を眼下に見下ろしながら、本土の安全な救護区域へと向かって上昇を始めた。
震災から、半年が経過した。
東京湾岸部の復興は、遅々として進んでいなかった。液状化と津波によって壊滅的な打撃を受けた『豊洲グランドキャニオン』エリアは、現在も立ち入り禁止区域に指定され、傾いた超高層ビル群が、かつてのバベルの塔の如く静かに潮風に晒されている。
だが、社会の仕組みは大きく動き出していた。
如月凪が提出した内部データと、榊が共同溝に遺した隠蔽資料は、メディアを通じて世界中に暴露された。大手建設企業と開発総博による構造計算の改ざん、予算削減のための強度偽装は国会でも大きな問題となり、関係者の多くが逮捕、更迭された。
「人災」の責任を認めさせた立役者である天才プログラマー・如月凪の名は、一躍時の人となった。しかし、彼女自身はメディアの狂乱から距離を置き、静かなリハビリテーションセンターで日々を過ごしていた。
「——よっと。相変わらず、ここは見晴らしが良いな」
ある土曜日の午後、南向きの明るいテラスに、作業服姿の湊が現れた。
彼の右肩の傷は完全に癒え、焼けた指先も新しい皮膚に覆われて、工具を握るプロの手に戻っていた。ただ、その手には今、頑丈なバールではなく、小さな工具箱と、一本の青いカーネーションの花が握られていた。
「遅いわよ、湊。約束の時間から十五分も過ぎてる」
テラスの車椅子の上の凪が、わざとらしく腕時計をトントンと叩きながら振り返った。
彼女の髪は以前よりも少し短く整えられ、顔色もすっかり健康的になっていた。その膝の上には、あの時と同じノートパソコンが広げられている。
「わりぃわりぃ。下の下町エリアで、ちょっとビルの外壁タイルの浮きを点検しててさ。職人のサガってやつで、見過ごせなかったんだよ」
湊は苦笑しながら、青い花を凪のデスクの脇に置いた。
「これ、途中の花屋で見つけてさ。君のイメージに合うかなって」
「……青いカーネーション? 花言葉、知ってて買ったの?」
凪が少し頬を赤らめながら尋ねる。
「いや、知らん。現場の人間は直感重視だからな。綺麗だったからだ」
「本当にバカね。……でも、ありがとう。嬉しいわ」
凪は花に触れ、愛おしそうに目を細めた。
「それで? 今日の『定期メンテナンス』の依頼、覚えてるでしょうね?」
「もちろん。車椅子のフレームの歪みチェックだろ。あの地下共同溝の激闘で、かなりガタがきてたからな」
湊は工具箱を開け、手慣れた手つきで車椅子のブレーキやキャスターのボルトを締め直し始めた。
カチャ、カチャ……。
心地よい金属音がテラスに響く。半年前の暗闇の中、死の恐怖と戦いながら聞いたあの音とは違い、今は穏やかな日常のBGMだった。
「ねえ、湊」
凪がノートパソコンの画面を見つめたまま、静かに声をかけた。
「私、新しい都市管理AIの開発チームに誘われてるの。今度は国が主導する、本当の防災特化型システム。ゼウスの失敗を繰り返さないための、新しいプログラム」
「へえ、すごいじゃん。また天才プログラマーの復活だな」
「でもね、条件を出したの」
凪はパソコンの画面を湊の方へと向けた。
画面には、新しいプロジェクトの概要書と、その下部にある「外部専門顧問」の欄が映し出されていた。そこには、太字でこう書かれていた。
【現場構造・安全対策顧問:不破 湊】
「……おいおい、これって俺の名前じゃないか?」
湊が手を止め、目を見開く。
「そうよ」
凪は得意げに胸を張った。
「いくらAIのコードが完璧でも、それを現場で扱う人間や、実際の建物の歪みを肌で感じるプロの視点がなきゃ、また同じ『人災』が起きるわ。机の上の理論だけじゃ、人は救えない。それを私に教えてくれたのは、あなたでしょう?」
湊はしばらく画面を見つめていたが、やがて呆れたように笑った。
「現場顧問ねぇ。俺、スーツ着て会議室に座るの、一番苦手なんだけどな」
「スーツなんて着なくていいわよ。いつもの汚い作業着で、会議室のテーブルをバールで叩きながら『現場を舐めるな!』って怒鳴ってくれればいいわ」
「はは、そいつは俺の得意分野だ」
湊は最後のボルトをきつく締め上げ、工具箱を閉じた。
「よし、車椅子の点検終了。規定値内、異常なしだ」
「ありがとう、湊」
凪は車椅子を少し動かし、湊の隣に並んだ。
テラスの向こうには、青い東京湾と、遠くで再開発が進む新しい東京の街並みが広がっている。かつて崩壊したあの街で、二人の命綱が互いを繋ぎ止めたからこそ、今、この景色がある。
「なぁ、凪。新しいシステムの名前はもう決めたのか?」
湊が尋ねる。
凪は新しい青空を見上げ、湊の手をそっと握りしめた。
「ええ。もう決めてあるわ。……名前は『リンク』。人と人、現場とシステムを、決して切れない強い絆で結ぶための名前よ」
二人のサバイバーの物語は、ここで一区切りを迎える。しかし、彼らが紡いだ新しい未来へのリンクは、これから先も決して途切れることなく、新しい街の礎となっていくはずだ。




