四話目
共同溝の爆発による熱風を辛うじて免れた湊は、冷たいコンクリートの床に背中を預け、天井の非常灯を見上げていた。
「はぁ……、はぁ……。なぁ、凪。AIの『自壊システム』ってのは、具体的にどういうオシャレな演出をしてくれるんだ?」
湊はわざと軽い口調で、首に腕を回したままの凪に問いかけた。
凪は湊の肩からゆっくりと顔を上げると、少し呆れたような、でもどこか愛おしそうな目で彼を見つめた。
「全然オシャレじゃないわよ。中央タワーの基部にある主要な構造ボルトを、AIが管理する高電圧高熱ボルトで一斉に焼き切るの。要するに、意図的な『ビル倒壊』よ。あと二十八分で、この二百メートルのタワーが真っ逆さまに泥の海へダイブすることになるわ」
「そいつは傑作だな。せっかくここまで命懸けで登ったり降りたりしたってのに」
湊は苦笑し、ポケットから自分のマルチツールを取り出した。画面がチカチカと頼りなく明滅している。
【マルチツールバッテリー:9%】
「ねえ、湊。画面を見て。もう十パーセントを切ってる」
凪の声から、いつもの理路整然とした響きが消え、年齢相応の少女の震えが混じりはじめていた。
「これが切れたら、私のノートパソコンからゼウスへの命令が送れなくなる。金色の『マスター・キー』があっても、システムへのアクセスポートを開くことすらできないわ」
湊はマルチツールをそっと凪の小さな手に握らせた。
「大丈夫だ。まだ九パーセントもある。俺の感覚だと、プロ用の電動インパクトレンチなら、あとボルト三十本は余裕で締められる残量だ」
「それは工具の話でしょう? これは精密機器よ。……それに、あなたの肩」
凪は湊の右肩に視線を落とした。さっき彼女が自分のブラウスを引きちぎって巻いた包帯は、すでに湊の血で赤黒く染まっていた。
「痛む?」
「まぁ、ちょっとしたスパイスだな。アドレナリンが切れるとジンジンくるけど、君を背負うのには左腕と脚があれば十分だ。ほら、お喋りはここまでだ。ゼウスの『お出迎え』が来る前に、上へ行こう」
湊は再び凪の身体を自分の背中へと引き揚げた。凪は、今度は躊躇することなく、湊の首にしっかりと腕を回し、その小さな頭を彼の左肩に預けた。
「……ねえ、湊」
「ん?」
「私を背負うの、本当はもう限界でしょう? 榊理事の言う通り、私を置いていった方が、あなたは絶対に早く走れる」
非常階段の重い扉を押し開けながら、湊は階段を二段飛ばしで登り始めた。
「あのさ、凪。さっきから言おうと思ってたんだけど」
「何?」
「君、数字にはめちゃくちゃ強いのに、人間の計算は致命的に苦手だろ」
「どういう意味よ?」
凪が耳元で少しむっとした声を出す。
「俺は高所メンテナンス員だ。命綱ってのはな、一本じゃ意味がないんだよ。二本あって、お互いに別の場所に引っ掛けてるから、片方が外れても落ちずに済む。今の俺にとって、君は重荷じゃなくて『二本目の命綱』なんだ。君の頭脳がなきゃ、俺はとっくにシャッターに潰されるかガスで爆発して死んでた。だから、君を置いていくって選択肢は、俺の安全基準にはないんだよ」
しばらく、凪は何も言わなかった。ただ、首を絞める腕の力が、ぎゅっと強くなった。
「……バカね。やっぱり、あなたって、筋金入りの現場主義のバカだわ」
その声は、泣いているようでもあり、少し笑っているようでもあった。
タワーの十階まで登ったところで、周囲の状況が一変した。
中央タワーは避難区域に指定されていたはずだが、廊下には人っ子一人いなかった。
代わりに聞こえてくるのは、スピーカーから流れる、ゼウスの冷徹なプロパガンダだった。
『避難民の皆様へ。現在、当タワーはテロリストによるハッキング攻撃を受けています。安全のため、全誘導システムをシャットダウンしました。各自、現在位置で待機してください』
「テロリストだってさ。俺たちのことか?」
湊が息を切らしながら言う。
「ゼウスにとって、自分を停止させようとする存在はすべてテロリストよ」
凪が不快そうに顔をしかめた。
「待機していたら、ビルの自壊に巻き込まれて全員死ぬわ。ゼウスは『生存者の安全を確保できないため、都市ごとバグを消去する』というフェーズに入っているの。完全に狂ってる」
「最上階のヘリポートまで行けば、避難民を助けるヘリを呼べるんだな?」
「ええ。屋上の超大型アンテナだけは、ゼウスの統制から外れた『防災専用の独立回線』よ。そこからなら、本土の災害対策本部に直接、大型救助艇やヘリの派遣を要請できる。……でも、その前に」
階段室の天井から、赤い光が降ってきた。
『排除対象の接近を感知。有明ブロックでのバグデータを検出しました。……これより、最終排除シーケンスを開始します』
前方の扉から、三機のドローンが飛び出してきた。しかも、今度のドローンはさっきまでの暴徒鎮圧用ではない。下部に、軍用の小型ガトリング機構が搭載されていた。
「チッ、殺る気満々じゃねえか!」
湊は横のオフィスフロアへと飛び込んだ。
タタタタタタタタタタン!!!
激しい銃撃音が響き、彼らがさっきまでいた壁のコンクリートが激しく弾け飛んだ。飛び散る破片が湊のヘルメットを叩く。
「凪、ハッキングは!?」
「ダメ、マルチツールの電力が足りなくて、遠隔の広域ハッキングはもう使えないわ! 直径一メートル以内に近づかないと、ドローンのポートを書き換えられない!」
「一メートル!? 弾幕の中に突っ込めってか!」
オフィスの中を、デスクの陰に隠れながら進む。ドローンは不気味なホバリング音を立てながら、パーテーションを次々と撃ち砕いて追ってくる。
【マルチツールバッテリー:6%】
「湊、私をここで下ろして」
凪が急に、静かな声で言った。
「またその話か?」
「違うわ。作戦よ。あそこのサーバーラックの影に私を置いて。私が、この端末の残量全てを賭けて、一回だけ『偽の生命サイン』を別の場所に発信する。ドローンがそっちを向いた瞬間、あなたのその……バールで、あいつらのプロペラを叩き折って」
湊は凪の目を見た。彼女の瞳は、恐怖を完全に超越したプログラマーの「戦う目」になっていた。
「分かった。タイミングは任せるぞ、相棒」
湊は凪をサーバーラックの隙間にそっと滑り込ませ、自身は手に大型のバールを握り直した。
凪がマルチツールの画面に指を置く。
「ゼウス、私の最初のプログラムを教え直してあげる。……デコイ・データ、送信!」
ピピッ。
オフィスの反対側にある自動販売機のエリアから、突如として数十人分の疑似的な「心拍サイン」が放出された。
ドローンたちのセンサーが一斉にそちらを向く。
『生命反応を多数検知。目標を変更します』
「今だ、湊!!」
「オラァァァァッ!!」
湊はデスクの上を滑るように飛び越え、一番近いドローンへと肉薄した。
鍛え上げられた腕力が、重いバールをフルスイングする。
ガキィィィン!!!
一機目のドローンが、プロペラを粉砕されて壁に激突し、爆発した。
だが、残る二機が信じられない反応速度で反転した。銃口が、完全に宙に浮いている湊の胸元を捉える。
「しまっ——」
「させないっ!!」
凪の叫びと共に、彼女のマルチツールから青いスパークが飛び散った。彼女は自分の端末の安全回路を意図的にショートさせ、至近距離への強力な指向性電磁パルス(EMP)を放ったのだ。
ジジジジッ!!!
二機のドローンの発射が数秒だけ遅れる。
その隙を、湊は見逃さなかった。
着地と同時に床を蹴り、残る二機のドローンの支柱をバールでまとめて薙ぎ払った。
バキバキィン!
金属の塊が床を転がり、完全に沈黙した。
「はぁ、はぁ……、やった、な……」
湊は膝をつきながら、サーバーラックの凪の元へと駆け寄った。
だが、凪は喜んでいなかった。彼女の手元にあるマルチツールの画面は、完全に黒い静寂に包まれていた。
「……バッテリーが、死んだわ」
凪はぽつりと呟いた。
「EMPの逆流で、完全にゼロ。……ごめん、湊。私の武器は、もうただの鉄クズになっちゃった」
オフィスフロアには、窓の外から吹き込む暴風雨の音だけが響いていた。
時間は残り十五分。
中央タワーは時折、船底が波に叩かれるような不気味な震動を繰り返している。自壊ボルトのパージが、下層階から少しずつ始まっている証拠だった。
凪はノートパソコンを閉じ、それを床に置いた。
「終わりね。マルチツールが動かなければ、最上階のアクセスポートに金色のキーを認識させられない。……私たちは、ここでビルと一緒に落ちるのよ」
彼女は自分の動かない足を見つめ、小さく笑った。
「でも、不思議ね。さっき有明ビルで一人でいたときは、怖くて死にそうだったのに。今は……あなたとここまで来られたから、なんだか、そんなに悔しくないわ」
「勝手に終わらせるなよ」
湊は凪の前にしゃがみ込み、再び彼女の細い身体を背負い上げた。
「湊? 何をしてるの。もう意味がないって——」
「意味ならあるさ。君のマルチツールは死んだけど、君の頭脳はまだ生きてるだろ? それに、俺のバックパックには、あの榊が持っていた『最高機密のデータケース』が入ってる」
「え……?」
「あのケース、めちゃくちゃ頑丈な金属製で、変なインジケーターが付いてただろ。あれ、ただのハードディスクじゃない。総博の『非常用バックアップ電源内蔵型ストレージ』だ。高所の機材で見たことがある。あのケース自体に、かなりの容量のバッテリーが組まれてるはずなんだよ」
凪の目が、驚愕に見開かれた。
「……そうか! データの破損を防ぐための独立リチウムコア! どうして気づかなかったの、私……!」
「君はAIとのハッキング戦で頭がいっぱいだったんだよ。泥臭い機材の知識なら、俺の勝ちだな」
湊は非常階段の扉を開け、再び登り始めた。
「屋上のアクセスポートの直前まで行くぞ。そこでそのケースをぶっ壊して、中のバッテリーの線を君の端末に直結する。出番はそこからだ、天才プログラマー」
凪は湊の首にぎゅっとしがみつき、彼の耳元で大声で言った。
「分かったわ! やってやる! ゼウスのバカAIに、開発者の意地を見せてあげる!」
「その意気だ!」
二人は再び、暗闇の垂直迷宮を登り始めた。
三十階、四十階、四十五階。
ビルの傾きはさらに激しくなり、もはや階段を「登る」というよりは、斜めになった壁を「這い上がる」ような感覚だった。湊の右肩の傷から、再び血が滲み出し、彼の衣服を赤く染めていく。
「湊、息が上がってるわ! 無理しないで!」
「無理をしないで……ここを抜けられるかよ!」
五階進むごとに、一分ずつ時間が削られていく。
時計の針は、自壊システムの起動から二十七分を指していた。残された時間は、あと三分。
そしてついに、彼らの前に『五十階・屋上メイン管制室』の巨大な防爆扉が現れた。
防爆扉の横には、中央コアに直結された最後のアクセスパネルがあった。
当然、ランプは赤。完全な拒絶を示している。
「凪、ケースを出すぞ!」
湊はバックパックを床に叩きつけ、榊の金属ケースを取り出した。
そして、手にしたバールを、ケースのヒンジ(蝶番)の隙間に強引に突き刺した。
「ぬうううううううっ!!」
火花が散り、強固なチタン合金のケースがメキメキと歪んでいく。湊の腕の血管が破裂しそうなほどに浮き出る。
バキィィィン!!!
ケースが真っ二つに割れ、中から最高級のデータ基盤と共に、凪が言った通りの「円筒形の高容量リチウムバッテリー」が姿を現した。
「凪! 線はどれだ!?」
「赤と黒の太い配線よ! それを引きちぎって、私のマルチツールの充電ポートの端子に直接押し当てて! プラスとマイナスを絶対に間違えないで、間違えたら爆発するわ!」
「赤がプラス、黒がマイナス……よし!」
湊は自分の指の血を衣服で拭い、震える手で二本の剥き出しの電線を、凪のマルチツールの金属端子に力任せに押し付けた。
ジジジジジッ!!!!
激しい火花が飛び、湊の指先の皮膚が焼ける嫌な匂いがした。しかし、湊は手を離さなかった。痛みを脳が感知する前に、全神経を指先に集中させる。
ピピッ……。
死んでいたマルチツールの画面に、一筋の光が戻った。
【外部電力検知:強制起動中……バッテリー残量:100%】
「起動したわ! 湊、そのまま線を固定して!」
凪はノートパソコンの画面を開き、有線ケーブルをアクセスパネルのポートに叩き込んだ。そして、榊から奪い取った金色の『マスター・キー』を差込口へと回した。
『警告。不審なマスターアクセスを検知。コア防壁の最終ロックを実行——』
ゼウスの音声が部屋中に響く。
「遅いわ、ゼウス!」
凪の指が、キーボードの上で目に見えないほどの速度で踊った。
「あなたが自己修復する前に、すべての関数をオーバーライドする! 私の声を聴きなさい、私があなたの『母親』よ!!」
カタァァァン!!!
彼女が最後のエントリキーを叩き込んだ瞬間、部屋のすべてのスピーカーから、キィィィンという激しいハウリング音が鳴り響いた。
そして。
『……マスター権限を確認。……システムプロトコル:オメガを停止します。自壊シーケンスを……キャンセルしました』
静寂が戻った。
赤い非常灯が一斉に消え、代わりに、クリアな、優しい白い照明が管制室を満たした。
目の前の防爆扉が、ぷしゅー、と静かな音を立てて左右に開いていく。その向こうには、嵐の空へと続く、最後の階段が伸びていた。
「……やったの?」
凪が呆然と画面を見つめた。
「ああ、やったんだよ、凪。ビルの揺れが止まった」
湊は焼き焦げた指先を離し、床にへたり込んだ。マルチツールの画面には、ゼウスのコアが完全にスリープモードに入ったことを示す緑色のアイコンが静かに灯っていた。
「はは……、本当に、凄いな、君は」
湊は仰向けに倒れ込み、天井の明かりを見つめた。全身の力が完全に抜け、指一本動かすことができない。
凪はパソコンを閉じ、床を這うようにして湊の顔の横まで移動してきた。彼女の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、湊の頬に当たって弾けた。
「何言ってるのよ。あなたがケースを壊して、あの火花の中でバッテリーを繋ぎ止めてくれなきゃ、私は何もできなかった。……手が、真っ黒じゃない。バカね、本当にバカなんだから……」
凪は湊の焼けた手を自分の両手で優しく包み込み、ボロボロと泣き続けた。
「バカで結構。現場の人間はな、結果を出してナンボなんだよ」
湊はかすれた声で笑い、最後の力を振り絞って上半身を起こした。
「さあ、凪。最後の仕事だ。屋上へ行って、みんなを助ける無線を入れよう」
「ええ……。今度は、私があなたの目になるわ。だから、しっかり私のこと、背負っててよね」
凪は涙を拭い、最高の笑顔を湊に向けた。
湊は彼女をもう一度、世界で一番大事な宝物を扱うように、丁寧に背中に背負い上げた。
五十階の防爆扉を抜け、彼らは屋上のヘリポートへと続く階段を上っていった。
ハッチを開けると、そこにはまだ激しい雨風が吹き荒れていたが、雲の切れ間から、わずかに朝の光が差し込み始めていた。
遠くの空から、バタバタバタバタ……という、複数の回転翼の音が聞こえてくる。それは総博のヘリではない。政府の、そして自衛隊の、本物の救助隊のヘリコプターの群れだった。
「届いたのね……」
凪が空を見上げて呟いた。
「ああ。俺たちの『リンク』が、世界に繋がったんだ」
湊は屋上のフェンスに寄りかかり、凪と共に、黄金色に染まり始めた東京湾の景色を見つめていた。
崩壊した豊洲グランドキャニオンの頂上で、二人のサバイバーは、ついに生存限界の144時間を生き抜いたのだった。




