第六話
【生配信】世界一不気味って噂のインディーズホラー『NO_SIGNAL.exe』やる。マジで謎多すぎて不穏すぎるんだが【仄暗ネル】
スマートフォンが震え、画面にポップアップ通知が表示されたのは、深夜の午前2時14分だった。大学の課題レポートに行き詰まり、真っ暗な自室でパソコンのモニターと睨み合っていた俺――三島駆は、無意識にその通知をタップしていた。それが、すべての終わりの始まりだとも知らずに。
「なんだこれ。仄暗ネル……? 確か数日前に失踪したってニュースになってた、有名なVTuberの実況アーカイブか?」
画面に映し出されたのは、あまりにもノイズの酷い、ザラザラとした超低解像度の動画だった。動画の概要欄にあるリンクを踏むと、自動的に謎のプログラムファイル――『NO_SIGNAL.exe』のダウンロードが開始され、数秒と経たずに強制インストールが完了した。
「おい、ちょっと待て。クリックしてないぞ!」
慌ててマウスを動かし、タスクマネージャーを開こうとしたが、キーボードもマウスも一切の入力を受け付けない。それどころか、デスクの上に置いていたスマートフォンが、狂ったような音を立ててバイブレーションを開始した。
(ジジジジジジジジジジジジジジジジ……)
スマホの液晶画面を見ると、LINEやSNSの通知ではない。画面のガラスの内側に、泥のようなドロドロとした『黒い液体』がじわじわと染み出し、小さな人間の手形をいくつも形作っていく。拭き取ろうと指で触れても、それは確かに「ガラスの内側」に存在していた。
「な、なんだよこれ、ウイルスか!?」
恐怖が首筋を駆け上がる。その時、静まり返った部屋のスピーカーから、あの音が聞こえた。
――チーン
誰も投げ銭などしていないはずなのに、真っ黒になったパソコンのモニターに、鮮血のような赤文字でスパチャの通知が浮かび上がる。金額は『¥4,444』。送信者の名前は、俺のフルネームだった。
『三島駆くん。テストプレイ(正式リリース版)の起動を確認しました。ようこそ、終わらない廊下へ』
直後、バチン! と激しい火花が散るような音がして、部屋のエアコンとデスクトップPCの電源ランプが同時に消灯した。完全な、暗黒。
「クソ、ブレーカーが落ちたのか!?」
駆はスマートフォンのライトをつけようと画面を擦ったが、端末は完全に沈黙している。仕方がなく、壁を伝って部屋の窓へと向かい、カーテンを勢いよく引き開けた。外の月明かりで部屋を照らそうとしたのだ。しかし、窓の外に広がっていた光景を目にした瞬間、駆の思考は完全に停止した。
「……は?」
窓の向こうにあるはずの、深夜の静かな住宅街。隣の家の屋根、電柱、自動販売機の明かり。そのすべてが、まるで初代PlayStationのゲームのように、極端にカクカクとした「粗い立方体の塊」に変わっていた。空を見上げると、月や星のグラフィックがベタ塗りのテクスチャになっており、空間の端には、まるで3Dモデルの裏側を覗き込んでしまったかのような、底なしの漆黒(エラー空間)が剥き出しになって広がっている。
「夢だ。課題のやりすぎで、変な幻覚を見てるんだ……!」
自分に言い聞かせるように呟き、部屋の出入り口のドアノブに手をかけた。外へ逃げようと、力任せにドアを引く。
――ギィ……
開いたドアの先。そこにあったのは、見慣れた我が家の廊下ではなかった。カビ臭い、古びたじゅうたん。剥がれかけた壁紙。粗いドットのシミがいくつも浮き出た、あのゲームと全く同じ「終わらない廊下」が、自宅の2階の廊下を完全に侵食し、奥へと無限に続いていた。
そして、その廊下の突き当たり。首を不自然に直角に曲げた、『顔のパーツが一つもない真っ黒な男』が、じっと佇んでいた。男の頭上には、緑色のネオン文字で、くっきりと名前が浮かんでいる。
【仄暗ネル】
「あ……あ……」
化け物が、カクカクとした不自然なモーションで、一歩、こちらへ足を踏み出した。その足音が、ベタ、ベタ、と静かな家の中に響き渡る。
「来るな……来ないでくれ!!」
駆は恐怖のあまり叫び、部屋のドアを激しくバタンと閉めて鍵をかけた。しかし、木の扉を通り抜けて、空間そのものが『ジジジ……』と激しい高周波のノイズを上げ始めている。この部屋の壁も、机も、本棚も、まもなくあの粗いゲームのテクスチャによって完全に上書きされ、消滅してしまうのは時間の問題だった。
バキ、バキバキバキ……ッ!
背後で、パソコンの27インチモニターが物理的に割れる音がした。液晶の破片が床に飛び散る。振り向くと、電源の切れているはずの割れたモニターの内側から、泥にまみれた「人間の手」がヌッと這い出てきて、デスクの上にしがみついていた。
「この部屋にいたら、完全に消される……!」
駆はパニックになりながらも、狂ったように部屋の中を見回した。ケンジというリスナーが残した警告動画の言葉が、脳内でフラッシュバックする。
『このゲームは、ネットという巨大な神経網を通じて世界を上書きしている』
『もし通知が届いたら、絶対にクリックするな』
「ネットを通じて侵食してるなら……完全に、すべての接続を物理的に断ち切れば、上書きを一時的に止められるんじゃないか!?」
駆はデスクの下へ飛び込み、散乱する配線コードの中から、Wi-Fiルーターと光回線の終端装置(ONU)の光ファイバーケーブルを力任せに引き抜いた。さらに、自分のスマートフォンのSIMカードスロットを爪でこじ開け、SIMカードを強引に引き剥がして床に投げ捨てた。世界から、すべての通信信号(NO SIGNAL)を、自らの手で作る。
――ピキィン
その瞬間、世界から激しいノイズの音がピタリと止まった。ドアを叩きつけていたバグの振動も、モニターから這い出てきていた手の動きも、まるで時間が凍りついたかのように、その場で静止した。部屋の壁の上書きは、全体の3割ほどが進んだ状態でストップしている。完全にゲーム化された世界の中に、駆の部屋のほんの一部だけが、辛うじて「現実の物質」として隔離され、生き残ったのだ。
「止まった……。でも、これはただの応急処置だ」
駆は激しく上下する肩を抑えながら、床に転がった、バグで画面の固まったスマートフォンを拾い上げた。液晶には、電波強度を示すアンテナマークの代わりに、冷酷な文字が点滅している。
【NO_SIGNAL_FOUND】
窓の外を見る。街は静止したローポリゴンのままだ。ネットの通信網が完全に怪異のサーバーに乗っ取られた今、世界はゲームのデータとして固定され、本物の人間は駆のように隔離されるか、あるいは化け物のデータへと作り変えられてしまっている。
「誰か……誰か、他に通信を断ち切って、生きてるやつはいないのか……?」
駆は、部屋の隅にある古い「震災用の防災ラジオ(アナログの短波無線機)」に目を留めた。デジタルなネットが全滅した今、怪異に汚染されていない唯一の手段は、前時代的な「アナログ電波(無線)」だけかもしれない。駆は震える手でラジオのダイヤルを回し、周波数を合わせ始めた。
ザーー、という本物の、ゲームのプログラムではない天然の砂嵐の音が、暗い部屋に響く。
「もし、誰か生きてる人間がいたら、応答してくれ……! 俺は、ここにいる……っ!」




