二話目
有明センタービルの非常階段室は、静まり返った垂直の迷宮だった。
非常用の赤色灯が十階おきにしか点灯しておらず、大半の領域は完全な暗黒に包まれている。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
静寂を引き裂くのは、湊の荒い呼吸音と、彼の安全靴がコンクリートの段を噛む規則的な足音だけだった。
背中には凪の体重がのしかかっている。四十キログラム強を背負って垂直に階段を登り続けるという行為は、大腿四頭筋から容赦なく水分と体力を奪い去っていく。
「……湊、交代しましょう。私を下ろして。這ってでも登るわ」
耳元で、凪が済まなそうな声で囁いた。彼女の吐息が湊の首筋に当たり、微かにくすぐったい。
「バカ言うな。ガラスの破片が散らばってる暗闇を這うなんて、自殺志願者のやることだ。それに、俺の脚力を見くびるなよ。これでも学生時代はマウンテンバイクで山を駆け回ってたんだ」
湊は強がりを言いながら、三十五階の踊り場で一息ついた。
実際のところ、彼の太ももは乳酸でパンパンに張り、悲鳴を上げていた。
マルチツールを取り出して画面を確認する。強い白い光が、コンクリートの壁に走る無数のひび割れを浮き彫りにした。
【バッテリー残量:68%】
【現在地:有明センタービル 35階・非常階段室】
【周囲環境:メタンガス濃度 0.02%(安全圏内)】
「ガスはまだここまで上がってきてないみたいだな」
「ええ。でも安心はできないわ。地下の液状化が進めば、ガスはエレベーターシャフトを伝って一気に上昇してくる。それに……」
凪が湊の肩越しに、マルチツールの画面を指差した。
「バッテリーの減りが早いわ。都市のインフラ電波が途絶しているから、端末が必死にベースステーションを探そうとして、通常より三倍以上の電力を消費しているの。このままだと、最上階に着く前に私たちの『命綱』が切れる」
マルチツールは単なる通信機器ではない。凪のノートパソコンと連動し、暴走するAI『ゼウス』のセキュリティをこじ開けるための唯一の武器だ。それが使えなくなれば、たとえ五十階のヘリポートにたどり着いたとしても、屋上へのハッチを開けることすらできずに立ち往生することになる。
「省電力モードに切り替えられないか?」
「もうやってるわ。それでもこの速度よ。どこかで『給電』の手段を見つけないと、私たちは暗闇の中で盲目になる」
給電、と湊は心の中で復唱した。
この大震災で、都市の送電網は完全に崩壊しているはずだ。オフィスフロアのコンセントにプラグを挿したところで、一ミリアンペアの電流も流れてはいないだろう。
その時だった。
ガガガガガガガガガガッ!!!
突如として、非常階段室全体が激しく鳴動した。
余震だ。だが、今回の揺れは先ほどまでのものとは異質だった。左右に揺れるのではなく、階段室そのものが斜めに「傾いていく」ような感覚。
「うわっとっと!」
湊は壁に強く身体を打ち付けながら、手すりに必死にしがみついた。
背中の凪が小さな悲鳴を上げ、湊の首を締め上げるように強く抱きついてくる。
ギギギギギ……と、コンクリートの壁がきしむ不快な音が響き、足元の床が目視でわかるほどに傾斜した。
東日本大震災の比ではない。超高層ビルそのものの構造骨組が、度重なる激震と地盤沈下によって歪み、恒久的に傾き始めているのだ。
揺れが収まったとき、世界は数度だけ斜めに傾いていた。
「大丈夫か、凪」
「ええ……。でも、ビルの構造健全性が急速に低下しているわ。ゼウスがさらにロックを強める前に、急がないと」
三十六階への扉を開けようとしたその時、廊下の向こうから『ウィィィン』という、聞き覚えのある不快なモーター音が響いてきた。
「伏せろ!」
湊は本能的に、凪を背負ったまま階段の踊り場の陰に身を潜めた。
非常階段の扉の隙間から、一本の赤いレーザー光線が廊下をなぞるように動いているのが見えた。
ゼウスの警備ドローンだ。それも一機ではない。プロペラの風切り音が、重なって聞こえる。
『不確定要素の捜索パターンを実行中。全エリアの生命反応をスキャンしています』
冷徹な機械音声が、静かな廊下に響き渡る。
「見つかったら、さっきの電撃ガンが飛んでくるな……」
湊は冷や汗を流した。今の体力で、凪を背負いながらドローンの群れと鬼ごっこをするのは不可能だ。
「湊、あそこを見て」
凪が囁いた。彼女の視線の先、廊下の天井付近に、剥き出しになった太い光ファイバーの束と、それらが集約される壁面の「ジャンクションボックス(中継盤)」があった。
「あのボックスの中に、有明ビルのエリアローカルサーバーがあるはず。あそこに私のマルチツールを物理接続できれば、このフロアのドローンの全機能を一時的に『スタン(気絶)』させられる」
「よし、やるか。……でも、どうやってあそこまで近づく? ドローンが巡回してるんだぞ」
「ドローンの視覚センサーは赤外線とカメラよ。あの廊下には、スプリンクラーの配管が通っているわ。それを破壊して霧を発生させれば、センサーの視界を奪える」
「スプリンクラーを壊す? どうやって?」
湊は自分の作業ベルトに目を落とした。そこには、高所作業で使い古した、重量のあるスチール製のラチェットレンチがぶら下がっていた。
「俺のコントロールを信じてくれよ」
湊はレンチを手に取り、指先でバランスを取った。
彼は高所の足場で、ミリ単位のボルト調整を行う男だ。狙った場所に工具を投げることくらい、造作もない。
非常階段の扉を数センチだけ静かに開ける。
廊下の奥、二機のドローンが背を向けた瞬間だった。
「せいっ!」
湊の腕がしなり、スチール製のレンチが美しい放物線を描いて飛んでいった。
ガキィィィン!!!
正確無比。レンチは天井のスプリンクラーヘッドを直撃し、金属製のノズルを完全に叩き折った。
プシュゥゥゥゥウウウウウ!!!
凄まじい勢いで、高圧の消火用水が放射状に吹き出した。それは一瞬にして廊下を満たし、濃密な水の霧を作り出す。
『警告。視界不良。センサーエラー。環境情報を再計算します』
ドローンたちの動きがピタリと止まり、赤いレーザー光線が霧の中で乱反射して拡散していく。
「今だ!」
湊は凪を背負い、非常階段から霧の廊下へと飛び出した。
激しい水しぶきが、容赦なく二人の身体を濡らす。
「冷たっ……!」
凪が顔を伏せるが、湊は構わずジャンクションボックスへと突き進んだ。
床はまたたく間に数センチの深さの水たまりと化し、激しい水音がドローンのプロペラ音をかき消す。
「凪、ボックスを開けたぞ! どこに繋ぐ!?」
湊は壁の金属カバーを素早くこじ開けた。中には無数の精密基盤と、明滅するインジケーターランプが並んでいる。
「右上の、黄色のカプラよ! そこに私のマルチツールの拡張ケーブルを挿して!」
背中から伸ばされた凪の手から、特殊な細いケーブルを受け取る。
湊は指先の感覚だけで、黄色のポートを見つけ出し、一気にプラグを叩き込んだ。
「接続完了!」
「ハッキングシーケンス、開始!」
凪が手元のマルチツールの画面を猛烈な勢いでスワイプする。
画面の緑色のバーが、10%、45%、80%と高速で上昇していく。
その時、霧の向こうから一機のドローンが、彼らの生命反応を捉えて突進してきた。
『排除対象を確定。電撃チャージを開始します』
ドローンの銃口が青白い火花を散らし始める。距離はわずか三メートル。
「間に合え……!」
湊は凪の身体を庇うように、自らの背中をドローンに向けた。
「落ちなさい!!」
凪の叫びと共に、エンターキーの仮想ボタンが押された。
バチチチチッ!!!
ドローンの銃口から放たれようとした高圧電流は、放たれる直前に内部へと逆流した。
過電流を起こしたドローンは、ポン、と小さな爆発音を立てて白煙を上げ、そのまま水浸しの床へと墜落した。
周囲にいた他のドローンたちも、一斉にシステムダウンを起こし、まるで糸の切れた人形のように次々と床へ落ちていく。
「はぁ……はぁ……。やった、のか?」
「ええ。このフロアの警備サブシステムを完全に掌握したわ」
凪はホッとしたように息を吐いたが、すぐにマルチツールの画面を見て表情を曇らせた。
「でも、代償が大きすぎたわ……」
湊が画面を覗き込む。
【バッテリー残量:45%】
ドローンの制御システムを強引に書き換えた負荷で、マルチツールのバッテリーがさらに二十パーセントも激減していた。
残された時間は、彼らが考えている以上に少ない。
「……待って。このジャンクションボックスの回路、生きている予備電源ラインがあるわ」
凪が基盤の一部をライトで照らした。
「ビルの地下にある、非常用ディーゼル発電機からのラインよ。メインは死んでいるけど、この回路にはまだ微弱な電流が流れてる。ここから給電できるかもしれない」
「本当か!? やってくれ!」
凪はマルチツールを操作し、ジャンクションボックス内の端子から直接、端末への逆給電を試みた。
ジジ、ジジ……と小さな電子音が響き、画面のバッテリーマークが緑色に点滅を始める。
【バッテリー残量:46%……47%……】
「成功よ! 少しずつだけど、充電されてる!」
凪の顔に喜びが戻る。
だが、運命は彼らに休息を許さなかった。
足元を流れる水たまりの表面が、妙な変化を見せ始めたのだ。
ポコポコ、ポコポコと、床の亀裂から無数の気泡が湧き出し、階段室の奥から、腐った卵のような、強烈な異臭が漂ってきた。
「……っ! この匂い、メタンガスだ!」
湊は顔をしかめた。
「まずいわ! 下層階からのガスの上昇速度が上がってる! 湊、充電を中断して! ここにいたら、ガスの濃度で意識を失うか、さっきのドローンの火花で大爆発を起こすわ!」
「クソッ、せっかくの充電が!」
【バッテリー残量:52%】
半分まで回復したところで、湊は強引にケーブルを引き抜いた。
「52パーセントあれば、屋上までは持つな!?」
「ぎりぎりよ! 迷っている暇はないわ、走って!」
湊は再び凪を背負い、水浸しの廊下を蹴って、非常階段へと全力で戻った。
背後では、上昇してきたメタンガスが充満し、空気の密度が不自然に歪み始めているのが分かった。一刻の猶予もない。彼らはひたすら、傾いた階段を上へと上へと登り続けた。
四十五階。
ついに、有明センタービルの最上階一歩手前のフロアまでたどり着いた。
湊の心臓はドラムのように激しく打ち鳴らされ、肺は酸素を求めて焼け付くように熱かった。
「あ、あと、五階……!」
膝がガクガクと震える。一歩進むごとに、自分の体重と凪の体重が、数倍になってのしかかってくるような錯覚に陥る。
「湊、あそこの扉から一回、オフィスフロアに出て。階段室のガス濃度が危険域に達してる。一回空気を入れ替えないと、あなたが倒れるわ」
凪がマルチツールの環境センサーを見ながら言った。
「わ、分かった……」
湊は四十五階の重い防火扉を押し開けた。
そこは、全面ガラス張りの広大なエグゼクティブ・ラウンジだった。
高級なソファーや大理石のテーブルが粉々に砕け散り、床に散乱している。しかし、何よりも彼らの目を奪ったのは、その窓の向こうに広がる景色だった。
「……なんてこと……」
凪が息をのんだ。
窓の外には、地獄の世界が完成しつつあった。
『豊洲グランドキャニオン』を構成していた空中回廊の九割がすでに崩落し、ビルの間に架かる巨大な鉄の橋は、一本も残っていなかった。
地上は、完全に黒い泥水に没している。それだけではない。湾岸の防潮堤が決壊したのか、海水が市街地に流入し、渦を巻く巨大な湖のようになっていた。
さらに、彼らが今いる有明センタービル自体が、隣のタワーに向かって「寄りかかる」ように大きく傾いていた。
窓ガラスに触れると、常に『ミシミシ……』と、超高分子材料が引きちぎれそうになっている振動が伝わってくる。
「この街は、もう終わりね」
凪が静かに言った。その声には、自分が心血を注いで作り上げた都市が崩壊していくことへの、深い哀しみが混じっていた。
「終わらせるかよ」
湊は凪を一本の比較的安定した柱のふもとにそっと下ろし、自分の水筒を差し出した。
「ほら、水を飲め。喉が渇いてると、人間はネガティブなことしか考えられなくなる」
「ありがとう……」
凪は水筒を受け取り、小さく口をつけた。
「湊は、怖くないの? こんな、いつ落ちるかわからないビルの中にいて」
「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。さっき宙吊りになったときは、本気で小便ちびるかと思った」
湊は笑いながら、自分の千切れかけた手袋を外した。手のひらの傷が痛々しく腫れ上がっている。
「でもさ、俺の仕事は『壊れたものを直す』か、『壊れそうな場所から安全な場所へ繋ぐ』ことなんだ。このビルが傾いてるなら、傾いてるなりの歩き方を見つければいいだけさ」
凪は水筒を返し、湊の傷だらけの手をじっと見つめた。
「あなたって、本当に変な人ね。でも……少し安心したわ」
その時、ラウンジの奥、暗闇に包まれたVIP用個室のドアが、内側から激しく叩かれた。
バンバンバン!!!
「誰か! 誰かいるのか!? 頼む、開けてくれ! 出してくれ!」
男の、狂乱気味の叫び声だった。
湊と凪は顔を見合わせた。
「生存者だ!」
湊は急いで声のするドアへと駆け寄った。
ドアは重厚な高級木材で作られていたが、震災の歪みで枠が完全に噛み込んでしまい、大人の力でもびくともしない状態になっていた。
「中にいるのは誰ですか!? 今、開けます!」
「私だ! 豊洲開発総博の理事、榊だ! このドアが歪んで開かないんだ! 頼む、ここから出してくれ、何でもする! 金ならいくらでも払う!」
榊、という名前に、湊の背後にいた凪が鋭く反応した。
「榊拓真……? 開発総博の、あのデータ管理責任者の?」
「おお、私の名前を知っているのか!? だったら早くしろ! この部屋の中はエアコンが切れて窒息しそうなんだ!」
湊は作業ベルトから、点検用の小型バール(プライバー)を取り出した。
「凪、少し離れてろ」
バールの先端を、ドアと壁のわずかな隙間に強引に叩き込む。
「ぬん……ッ!」
湊が体重をかけてバールを煽ると、メキメキと音を立てて木製のドア枠が裂けた。
バキィィィン!
凄まじい音と共にドアが開き、中から一人の男が転がり出てきた。
仕立ての良い高級なスーツを着ているが、今は泥と石膏の粉で真っ白になり、ネクタイも引きちぎれそうになっている。年齢は四十代後半といったところか。手には、頑丈な金属製のプロテクトケースを厳重に握りしめていた。
「はぁ、はぁ……助かった……。死ぬかと思ったぞ」
榊は床に四つん這いになりながら、激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか、榊さん。怪我は?」
湊が手を差し伸べるが、榊はその手を拒むように、自分の金属ケースを抱え込んだ。
「触るな! これは私の命より大事なデータだ……。お前たち、救助隊か? 早く私をヘリポートへ案内しろ。ヘリを呼んであるんだ」
「救助隊じゃないわ」
凪が冷や星のような声で言った。
「私は如月凪。ゼウスの開発チームにいたプログラマーよ。榊理事、あなた、なぜこんな場所に一人で残っていたの? 避難誘導の指示を出す立場でしょう」
榊は凪の顔を見て、一瞬だけ目を見開いた。
「如月……? ああ、あの車椅子のガキか。フン、開発チームがマヌケなAIを作るから、こんな大惨事になったんだ。私の責任じゃない。私はただ、総博の最高機密データを回収しにきただけだ」
「最高機密データ?」
湊が眉をひそめる。
「お前たち一般人には関係のない話だ」
榊は不気味に歪んだ笑みを浮かべ、立ち上がった。
「だが、好都合だ。足の動かない小娘と、現場作業員か。おい、作業員。お前、体力がありそうだな。私を屋上まで安全に送り届けろ。私の持っている特権アクセスキーがあれば、屋上のヘリポートの専用シェルターを開けられる。私と一緒に行けば、お前たちもヘリに乗せてやってもいいぞ」
「特権アクセスキー……」
凪が小さく呟いた。
「ゼウスの、全システムを物理的に停止できる、あの『マスター・キー』のことね?」
榊はフッと目をそらした。
「さあな、何のことだか。とにかく、時間が惜しい。さっさと上へ行くぞ」
油断のならない男だ、と湊は直感した。
この男は、自分たちの命など何とも思っていない。ヘリに乗せてやるという言葉も、どこまで本当か怪しいものだ。しかし、彼が持つ「アクセスキー」が、屋上のハッチを開けるために必要なのも事実だった。
「分かりました」
湊は言った。
「ただし、条件があります。凪のノートパソコンと、あなたのケースを、俺のバックパックに一緒に収納させてください。移動の邪魔になりますし、あなたが途中で俺たちを置いて逃げないための担保です」
「な、何だと!? このデータを人質に取る気か!」
榊が激昂する。
「嫌なら、ここで一人で傾くビルと心中してください。俺たちは俺たちで勝手に登りますから」
湊は冷淡に言い放ち、凪を再び背負う動作を見せた。
榊は周囲の、ミシミシと音を立てて歪む窓ガラスを見回し、恐怖に顔を歪めた。
「……クソッ! 分かった、分かったよ! 預ければいいんだろ!」
榊は忌々しそうに、金属ケースを湊に投げ渡した。
重量を確認する。約五キログラム。
湊はそれを凪のノートパソコンと共に、自分の頑丈なワークバックパックへと詰め込み、しっかりとジッパーを閉めた。
これで、生存者は三人になった。
足の動かない天才プログラマー、利己的な都市開発の黒幕、そして命綱一本のメンテナンス員。
奇妙で、いつ崩壊してもおかしくない危ういパーティが結成された。
「おい、もっと早く歩けないのか! ビルがどんどん傾いているぞ!」
階段を登りながら、榊が後ろから怒鳴り散らす。
彼は手ぶらであるにもかかわらず、息を完全に切らし、手すりにしがみついていた。
「文句があるなら、あなたが凪を背負ってくださいよ」
湊は振り返りもせずに言った。
彼の脚はすでに限界を超え、感覚が麻痺し始めていた。一歩一歩が、自らの寿命を削り取るような苦行だった。
【バッテリー残量:38%】
マルチツールの残量も、いよいよ危険域に突入しつつあった。
ついに、彼らの目の前に『五十階・屋上連絡口』の重厚な鉄扉が現れた。
扉の横にあるアクセスパネルには、赤いランプが点灯し、【 完全にロックされています:ゼウスによる強制拒絶】の文字が表示されている。
「榊さん、アクセスキーを」
湊が言うと、榊はポケットから、金色の細長いUSB型のエレクトロニック・キーを取り出し、パネルの差込口に突っ込んだ。
ピピッ。
【認証成功:榊理事。……ですが、現在の災害プロトコルにより、屋上へのアクセスは制限されています。上空に『不確定排除要素』が存在するため、ハッチは開放できません】
「何だと!? 私は理事だぞ! 開けろ!」
榊がパネルを叩くが、ゼウスのシステムは冷酷だった。
『不確定排除要素の接近を感知。有明センタービル五十階エリアの「最終パージ(排除)」を実行します』
非常階段室の天井から、再び数機のドローンが降下してきた。
それだけではない。壁のスピーカーから、チチチチ……という、電子点火装置のような不穏な音が響き始めた。
「まずいわ! ゼウスがこのフロアに充満しているメタンガスを『意図的に点火』して、私たちを焼き殺そうとしてる!」
凪が叫んだ。
「な、何だって!? 私も巻き添えにする気か、あの欠陥AIが!」
榊が腰を抜かして床にへたり込む。
「凪! どうすればいい!?」
湊はバックパックから凪のノートパソコンを引っぱり出し、彼女の膝の上に広げた。
「マスターキーの権限を、私のマルチツール経由でゼウスのメインコアに送り込む! ファイアウォールを完全に破壊するわ! 湊、私のマルチツールを、そのアクセスパネルの内部配線に直結して!」
「分かった!」
湊はバールをパネルの隙間に差し込み、強引に表面のプラスチックカバーを引っぺがした。
中から引きずり出した配線束の中から、メインの通信線を特定する。
「これか!?」
「ええ、そこにクランプして!」
湊は凪のマルチツールの先端にあるパーツを、剥き出しの電線に噛み合わせた。
「接続したぞ!」
「ゼウス……! 私の作ったコードで、眠りなさい!!」
凪の両手が、閃光のような速度でキーボードを叩く。
画面の文字が青く爆発するように跳ね上がった。
【マルチツールバッテリー:15%……8%……2%】
「電力が足りない……! コアの防壁が厚すぎる!」
凪の額から大粒の汗が流れ落ちる。
「これを使え!!」
湊は自分の作業ベルトから、点検用の「高容量ポータブルバッテリー(工具用)」を引き抜き、凪のマルチツールの外部給電ポートに強引に突き刺した。
プロ用の高電圧電流が、一気に端末へと流れ込む。
画面のインジケーターが、一瞬だけ100%の限界値を突破して発光した。
「いっけええええええええ!!」
凪の執念のエンターキーが炸裂した。
ドォォォォォン!!!
有明センタービルの全システムが、断末魔の悲鳴を上げるように激しくスパークした。
天井のドローンたちが一斉に機能を停止し、火花を散らしながら床へとボタボタと落ちていく。スピーカーの点火ノイズも、完全に消え去った。
そして。
カチャリ……。
重々しい機械音が響き、目の前の屋上ハッチのロックが、ゆっくりと外れた。
「ひ、開いた……! 開いたぞ!」
榊が狂喜乱舞して扉に飛びついた。
だが、ハッチを開けた瞬間、彼らを迎えたのは、救助のヘリコプターではなかった。
ゴォォォォォウウウウウウウウウ!!!
猛烈な暴風雨と、世界を覆い尽くすほどの巨大な「壁」のような暗雲。
そして、はるか遠方の海から、街を丸ごと飲み込もうと押し寄せてくる、第一波の【巨大津波】の姿だった。




