九話目
ゲームマスターの狂気的な笑い声が途切れた後、セーフハウスの狭いワンルームには、まるで空気そのものが凝固したかのような重苦しい沈黙が降り積もった。
スマートフォンの液晶画面には、血のように禍々しい赤色で、新たなクエストのタイトルと冷酷なカウントダウンが刻まれている。
『フィフス・クエスト:【寿命の天秤】』
『次のゲーム開始まで:23:58:47』
一樹はベッドの縁に腰掛けたまま、自分の両手を見つめていた。手のひらにはまだ、さっき四人でグラスを合わせたときの、束の間のぬくもりの残滓が残っている。しかし、画面に新しく追加された【ライフ・トレード】という項目を開いた瞬間、そのぬくもりは一瞬にして氷結した。
「これ……何だよ、これ……」
タカシが掠れた声で呟き、スマートフォンを握る手に力を込めた。彼の自慢の近接格闘スキルや、新調したばかりの高周波振動タクティカルバットも、画面に並ぶ無機質な数字の前では、何の意味も持たないガラクタのように思えた。
画面には、四人の本名と顔写真、そしてその横に、今まで見たこともない奇妙な「メーター」が表示されていた。
【神代 一樹】固有生存価値:72年 / 現在の割当量:100%
【佐藤 タカシ】固有生存価値:58年 / 現在の割当量:100%
【織田 ミサキ】固有生存価値:64年 / 現在の割当量:100%
【星野 零】固有生存価値:52年 / 現在の割当量:100%
「固有生存価値……これって、私たちが本来生きるはずだった『寿命』ってこと?」
ミサキが顔を真っ青にして、小刻みに震える指で画面を指差した。
「おそらくね」
レイがいつもの冷徹な、しかしどこか焦燥を孕んだ声で言った。彼女はノートパソコンの前に座り直し、猛烈な速度でキーボードを叩き始めている。
「このアプリは、私たちの現実の肉体情報を完全に同期している。つまり、ここに表示されている数字は、私たちが病気や事故に遭わずに全うするはずだった、本当の残りの人生の長さよ。運営は、それを『通貨』として変換するシステムを構築したのよ」
一樹が画面をスクロールすると、さらに最悪な交換レートの仕様がポップアップした。
『【ライフ・トレード】規約:
1. プレイヤーは、自身の『寿命1年』を『10,000 SP』に変換(課金)することができます。
2. 変換されたポイントは、通常のショップでの買い物だけでなく、同一エリア内のプレイヤーに【寿命】そのものとして譲渡することが可能です。
3. 注意:次のゲーム開始時(24時間後)、生存ポイント(SP)が『マイナス』、または寿命メーターが『ゼロ』に達しているプレイヤーは、その瞬間に【バグ消去】されます』
「マイナス……? ポイントがマイナスになるってどういうことだ?」
タカシが眉をひそめる。
一樹は画面の最下部にある、もう一つの非情なアナウンスを見つけた。
『ゲームマスターからの特別ハンデ:前回の反逆行為へのペナルティとして、現時点より1時間ごとに、全員のアカウントから【一律 2,000 SP】が自動的に徴収されます』
「な……ッ!?」
一樹の心臓がどくん、と大きく跳ね上がった。
1時間に2,000 SP。24時間で、合計48,000 SPが強制的に毟り取られる計算になる。
現在、一樹たちのポイント残高は、これまでの装備調達やスキル強化によって、完全に底を突いていた。
【カズキ】440 SP
【タカシ】0 SP
【ミサキ】450 SP
【レイ】1300 SP
「一時間後に、最初の徴収が来るわね」
レイがキーボードを叩く手を止め、冷たい目で一樹を見た。
「最初の1時間が経過した時点で、私たちのポイントは全員確実に『マイナス』に落ちる。それを回避するためには、誰かが、あるいは全員が、自分の『寿命』を切り売りしてポイントを作るしかない。……運営は、私たちがさっき誓い合った『全員で生き残る』という約束を、この24時間のモラトリアムの中で、自らの手で破らせようとしているのよ」
最初の1時間が経過することを示す、無慈悲なアラームが部屋に鳴り響いた。
ピコン。
『自動徴収が実行されました。プレイヤー:カズキの残高は【-1560 SP】です』
『警告:マイナス状態でのゲーム開始は【即時消去】の対象となります』
画面が赤く点滅し始める。一樹だけでなく、タカシもミサキも、そしてレイも、全員の画面が警告の赤色に染まった。
このままでは、明日の今頃には四人全員がゲームの開始を待たずして、この部屋の中でノイズとなって消滅する。
「クソッ……クソッ! やってやりゃあいいんだろ、やってやりゃあ!」
タカシが自暴自棄になったように、自分のスマートフォンの『寿命変換』のボタンに指を伸ばした。
「俺の寿命は58年だ! 1年売れば10,000ポイントになるんだろ!? だったら、5
年分くらいパパッと売っちまえば、48,000ポイントなんて余裕で払えるじゃねえか! 58歳で死ぬのが53歳になるだけだ、大した違いはねえ!」
「止めろ、タカシ!」
一樹が手を伸ばし、タカシの手首を強く掴んだ。
「簡単に命を切り売りするな! それが運営の狙いだ! 一度でも自分の命を安売りしたら、次からも何かあるたびに『あと1年、あと2年』って、自分の身体を削ることに躊躇がなくなる! そうやって、自分自身ですり潰されていくんだ!」
「じゃあどうすんだよ、カズキ!」
タカシが涙目を一樹に向け、怒号を返した。
「このまま何もしなけりゃ、全員死ぬんだぞ! 俺は、お前らが消えるのを見るのも、自分が消えるのも、もう嫌なんだよ!」
「タカシくん、カズキさん、落ち着いて……!」
ミサキが二人の間に割って入った。彼女の【危険察知(中級)】は、この部屋の中に漂う「絶望」と「焦燥」という目に見えない毒素を、誰よりも敏感に感じ取っていた。
「私……私の寿命は64年あります。私、現実の世界じゃ何も価値がない人間だから……だから、私の寿命を20年分くらいポイントに変えて、みんなに配ります。そうすれば、みんなは1年も寿命を縮めずに、この24時間を乗り切れる……!」
「バカなこと言わないで、ミサキ」
レイが厳しい声でミサキの言葉を遮った。
「20年分の寿命を削るのがどういうことか分かっているの? 肉体が急速に変質するか、あるいは現実世界でのあなたの『死期』が20年早まるのよ。そんなことをしたら、次のゲームでのあなたのバイタルにどれほどの悪影響が出るか分からない。最悪の場合、ゲームが始まった瞬間に心不全を起こすわよ」
レイは立ち上がり、一樹の前に歩み寄った。
「カズキ。この【ライフ・トレード】の真の恐怖は、自動徴収なんかじゃないわ。……オークション機能の項目をよく見なさい」
一樹はレイに促されて、画面の奥深くをタップした。そこには、同じエリア内、つまりこの街に潜む「他のプレイヤーたち」が、自らの寿命を売りに出し、あるいは他人の寿命を買い叩いている、血の滲むような闇のマーケットプレイスが広がっていた。
『出品:【寿命2年】 / 希望価格:50,000 SP(出品者:ランクD)』
『コメント:頼む、誰か買ってくれ! 次のクエストの防具を買うポイントが足りないんだ! このままだと殺される!』
『落札:【寿命1年】 / 購入者:ランクC / 支払額:12,000 SP』
「このゲームはね、ポイントを大量に持っている上位ランカーが、死に瀕している下位プレイヤーの寿命を『奴隷』のように買い漁るシステムなのよ」
レイの言葉は、氷のように冷たく、重かった。
「ポイントを多く持っている強者は、他人の寿命を買い取って自分のメーターを100年、200年と増やすことができる。逆に、ポイントの無い弱者は、生き延びるために自分の命を安値で買い叩かれ、最後は抜け殻のようになって消えていく。……ゲームマスターは、私たちに『誰の命を犠牲にして、誰を生き残らせるか』という、究極の命の選別を強いているの」
部屋の中に、再び暗い沈黙が流れる。1時間ごとに襲ってくる2,000 SPの自動徴収は、確実に彼らの精神を削り取っていった。
一樹は【精神耐性】のスキルを全開にし、混乱しそうになる脳細胞を無理やり落ち着かせた。
(待て……。何かがおかしい。ゲームマスターは、わざわざ僕たちをピンポイントで狙ってこのシステムをぶつけてきた。前回のクラッシュに対する報復だ。だったら……この【ライフ・トレード】というシステム自体にも、僕たちを嵌めるための『罠』と、それを打破するための『矛盾』が必ず存在するはずだ)
一樹は自分のスマートフォンを手に取り、新規スキル【解析の眼(初級)】を発動した。
画面越しに、自分の【固有生存価値:72年】という数字と、そこから伸びているデータパケットの経路をじっと凝視する。
緑色のコードが、一樹の網膜の奥に流れていく。
「レイさん、ちょっとこのパケットの挙動を見てくれ」
一樹はノートパソコンを操作しているレイの隣に滑り込んだ。
「何よ、カズキ。何か見つかったの?」
「ああ。この『寿命をポイントに変換する』ときのデータの流れなんだけど……。システムは、僕たちの肉体から直接『余命の長さ』を削り取っているわけじゃない。スマートフォンのアプリ内に一時的に構築された【擬似生命アカウント】の数値を操作しているだけだ。つまり、僕たちがボタンを押した瞬間に、実際に肉体が老けるわけじゃないんだ」
レイの目が、エンジニアとしての鋭さを取り戻した。
「……当然よ。現実世界との同期は、クエストの開始時と終了時にのみ行われるわ。ということは、この24時間のインターバル中、アプリの中の『寿命の数字』は、単なるサーバー上の『変数』に過ぎない……?」
「そうなんだ! そして、もう一つおかしな点がある。この自動徴収のシステムだ。運営は、1時間に一律2,000 SPを僕たちから『奪っている』と言った。だけど、奪われたポイントは一体どこへ行っているんだ? 運営の管理口座か? それとも……」
一樹の【解析の眼】は、自動徴収されたポイントが、虚空に消えているのではなく、中央の「天秤のマスターサーバー」へと一時的に『プール(蓄積)』されているログを捉えていた。
「レイさん。もし、このプールされているポイントの総額が、僕たち四人の『マイナス残高の合計』と完全に一致しているとしたらどうなる?」
レイはハッとして、キーボードを叩く速度を限界まで上げた。画面に複雑な数式とグラフが展開されていく。タカシとミサキも、息を呑んで二人の作業を見つめていた。
「信じられないわ……、カズキ、あなたの言う通りよ!」
レイの声が、興奮でわずかに上気した。
「ゲームマスターは、システム全体のデータを完全にゼロサム(合計がゼロになる状態)で運用しているわ。私たちが自動徴収で失ったポイントは、消滅したんじゃない。このエリアの『中央天秤サーバー』の中に、一時的な【保証金】として蓄えられているだけよ。つまり──」
「つまり、そのサーバーからポイントを『逆流』させることができれば、僕たちは自分の寿命を1秒だって削ることなく、このマイナス状態を完全に帳消しにできるんだ!」
一樹の導き出した仮説に、部屋の中の空気が一気に跳ね上がった。
自己犠牲という最悪の選択肢しか見えていなかったタカシとミサキの顔に、明確な「希望」の光が戻ってくる。
「カズキ! それ、マジかよ!? じゃあ、そのクソサーバーからポイントを分捕ってくればいいんだな!?」
タカシがバットを握り直し、やる気満々で立ち上がる。
「物理的に殴って奪える相手じゃないわよ、タカシ」
レイが不敵な笑みを浮かべながら、髪をかき上げた。
「相手はデジタル世界の管理者。なら、私の専門分野の出番ね。……でも、中央サーバーのセキュリティは強固よ。私の端末単体の処理能力じゃ、ファイアウォールを突破する前に検知されて、またバグ消去の防衛プログラムが起動するわ」
「だったら、僕たちのスマホの処理能力(CPU)も全部、レイさんのパソコンに同期させてくれ」
一樹は自分のスマートフォンをレイのパソコンにケーブルで接続した。
「僕の【解析の眼】で、ファイアウォールの脆弱性の周期を見つける。ミサキは【動体レーダー】と【危険察知】で、運営側がハッキングに気づいて『カウンター(パッチ適用や逆探知)』を仕掛けてくる瞬間を予測してくれ。タカシは……」
「俺は何をすればいいんだ!?」
「タカシは、僕たちの肉体の『盾』になってくれ。ハッキングが始まれば、運営は僕たちの位置を特定して、現実世界に『処分用プログラム(クリーチャー)』を送り込んでくる可能性がある。レイさんがハッキングを完了するまでの間、この部屋を死守してほしい」
タカシは胸を強く叩いた。
「任せとけ! 誰一人生かせちゃおかねえよ! 俺の強化された筋肉とこのバットで、化け物ごと部屋のドアを叩き潰してやる!」
「ミサキ、いけるか?」
一樹が尋ねると、ミサキは深く、力強く頷いた。
「はい! みんなの命がかかってるんだもん。私の索敵、100%以上の力で使ってみせます!」
準備は整った。
残り時間は、あと6時間。自動徴収によって、四人のマイナス残高はすでにそれぞれ数万 SPに達しており、画面の赤色はいよいよ激しさを増していた。
「始めるわよ。……私の妹を奪ったシステムに、最大のバックドアを仕掛けてあげるわ」
レイの指が、キーボードの上で神速のダンスを開始した。
セーフハウスのノートパソコンの画面に、無数の緑色と赤色のコードが激しく交錯し始める。一樹の【解析の眼】が捉えたファイアウォールの「隙」が、レイの構築したハッキングツールへとリアルタイムで反映されていく。
「──きた! 侵入成功! ポイントのプールデータにアクセスしたわ!」
「カズキさん、タカシくん! 上から、何かが来ます!」
突然、ミサキが叫び、天井を指差した。彼女の目が、青いレーダーのエフェクトで激しく明滅している。
「マンションの屋上から、真っ黒なノイズの塊が3つ、すごい速さでこの部屋に向かって降りてきています! あと30秒で、ベランダの窓から入ってきます!」
「タカシ!」
一樹が叫ぶ。
「おうよ! お姉さんはハッキングを続けろ! カズキはサポートだ!」
タカシはベランダのカーテンを乱暴に引き開けた。
直後、バギィィィン! という凄まじい音と共に、ベランダのガラス窓が粉々に砕け散った。夜の冷気と共に部屋に侵入してきたのは、これまでのステージで見たものよりもさらに密度が高い、全身が漆黒のデジタルノイズで構成された「蜘蛛型の処分プログラム」だった。
「グルルルルル……!」
「人間の命をナメんじゃねえぞ、バグ野郎がぁ!」
タカシは【身体能力強化(中級)】の圧倒的な踏み込みで、先頭の蜘蛛型クリーチャーの脳天に向けて、高周波振動タクティカルバットを全力で振り下ろした。
ブゥゥゥン! ドゴォォォン!
超微細な振動を帯びたバットは、蜘蛛型の強固な外殻を容易く分子レベルで粉砕し、一撃で黒いノイズへと還元させた。
「次だ! かかってこい!」
しかし、残り2体の蜘蛛型は、タカシの巨体をすり抜けるようにして、ハッキングを続けるレイと一樹の元へと鋭い爪を伸ばした。
「させない……っ!」
ミサキが【危険察知】を応用し、蜘蛛の爪の軌道を先読みして叫んだ。
「タカシくん、右の奴はジャンプしてレイさんを狙う! 左の奴は床を這ってカズキさんの足を狙ってくる!」
「そこかよぉ!」
タカシは空中でバットを反転させ、ミサキの指示通りに跳躍した蜘蛛型の胴体を真横から強打した。バットの振動が怪物の体内へと炸裂し、壁に激突して霧散する。
一樹もまた、【近接格闘心得】の身のこなしで床を這う蜘蛛の突進を紙一重でかわし、右ポケットから引き抜いたタクティカルペンを、怪物の「視覚センサー(赤く光るポリゴン)」へと正確に突き立てた。
キィィン! と手応えがあり、最後の1体も激しいノイズを上げて消滅した。
「はぁ、はぁ……見たかオラァ! これが俺たちの連携だ!」
タカシがバットを担ぎ、ベランダの夜空に向けて吠えた。彼の額からは血が流れていたが、その顔は勝利の喜びに満ち溢れていた。
「……ハッキング、完了したわ!!」
レイの鋭い声が、室内に響き渡った。
彼女がエンターキーを力強く叩いた瞬間、接続されていた全員のスマートフォンの画面が、一斉に激しく明滅した。
ピピピピピピピピピピ!
警告の赤色が、津波が引くようにして、鮮やかな「緑色」へと反転していく。
『STATUS: SUCCESS』
『デポジットサーバーからの逆転送を確認しました』
『プレイヤー:カズキの残高:440 SP』
『プレイヤー:タカシの残高:0 SP』
『プレイヤー:ミサキの残高:450 SP』
『プレイヤー:レイの残高:1300 SP』
『──自動徴収のペナルティロジックを完全凍結しました──』
「やった……やったぞ!!」
一樹は叫び、タカシと強く拳を合わせたた。ミサキも涙を流しながらレイの肩に抱きついた。レイは一瞬戸惑ったが、優しくミサキの背中をポンポンと叩いた。
全員の「寿命メーター」は【100%】のまま、一秒だって削られることはなかった。
ゲームマスターが彼らを絶望させ、仲間同士で命を奪い合わせるために仕掛けた最悪のアップデート。しかし一樹たちは、互いのスキルと信頼をシンクロさせることで、その悪魔のシステムを内側から完全にハックし、無傷で勝利を収めたのだ。
ピコン。
スマートフォンの画面に、ゲームマスターからの「エラーテキスト」が滑り降りてきた。先ほどの余裕に満ちた声とは違い、そこには隠しきれない焦燥と、激しい怒りのログが滲んでいた。
『……イレギュラーオブジェクトの排除に失敗。ハッキング経路を遮断しました。……第五フェーズのボイコットを確認。……これより、第六フェーズへの移行プロトコルを開始します。次のマッチングまで、24時間』
画面を見つめながら、一樹は静かに、しかし確固たる決意を込めて呟いた。
「待ってろ、ゲームマスター。次は、僕たちがあんたのいる『サーバーの心臓部』へ、直接アンインストール(反撃)をしに行く番だ」
四人の絆は、命を削る悪魔の天秤をも叩き潰した。
彼らは今や、単なる生存者ではない。このデスゲームのシステムそのものを終わらせるための、本物の「反逆者」へと進化を遂げていた。




