八話目
真っ白な大理石の空間、狂気的なエラー音、そして裏切り者たちの怨嗟に満ちた視線──それらすべてが強烈な光の粒子となって霧散し、一樹の意識は再び現実の世界へと引き戻された。
ドサリ、と硬い床の感触が全身に伝わる。
一樹が激しく咳き込みながら目を開けると、そこは数時間前に出発した、あの薄暗いワンルームのセーフハウスだった。遮光カーテンの隙間から、わずかに夕暮れの赤い光が差し込み、埃っぽい室内に斜めの線を引いている。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
一樹は胸を押さえ、必死に酸素を肺に送り込んだ。【精神耐性(初級)】のおかげで狂気的なパニックこそ免れていたが、全身から吹き出た冷や汗が、上着の下の防刃ベストを不快に濡らしていた。
すぐ隣で、荒い呼吸音が聞こえる。
「カズキ……! カズキ、無事か!?」
飛び込んできたのは、タカシだった。彼は購入したばかりの『高周波振動タクティカルバット』を床に放り出し、一樹の肩をがっしりと掴んだ。その手は、かつてないほど激しく震えていた。【身体能力強化(中級)】によって引き締められたタカシの肉体は、今や限界を超えた緊張から解放され、小刻みに痙攣している。
「タカシ……ああ、生きてる。生きてるよ」
「クソッ、クソッタレが……! 生きた心地がしなかったぜ! あのクソ天秤が動き出した時、俺、別のチームの奴らに囲まれてさ……『お前のバットをよこせ、さもなきゃ次の投票でお前を指名する』って脅されてたんだ。だけど、お前が『俺を信じてBに投票しろ』って言ったから……俺、チームの奴らの胸ぐら掴んで、半ば脅すみたいにしてBに票を入れさせたんだよ! もしお前の作戦が外れてたら、お前が死んでたかもしれないって思ったら、もう……!」
タカシの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち、一樹の服に染みを作った。現実の世界では行き場をなくし、ゲームの世界でしか虚勢を張れなかった20歳の青年が、初めて「他人の死」への恐怖と、「仲間を信じる」ということの重圧に、真っ正面から向き合っていた。
「悪かった、タカシ。怖い思いをさせて。でも、お前がチームを動かしてくれたから、完璧な数値が揃ったんだ。お前のおかげだよ」
一樹がそう言ってタカシの背中を叩いた時、部屋の隅のベッドの脇から、小さな、しかし切実な声が響いた。
「カズキさん……! タカシくん……!」
織田ミサキだった。彼女は【危険察知(中級)】と【動体レーダー(初級)】の過剰な発動による精神的疲弊からか、壁に背を預けたまま座り込んでいた。しかし、二人の無事な姿を確認した瞬間、彼女は這うようにして近づき、一樹とタカシの衣服の裾を、ちぎれんばかりの力で握りしめた。
「よかった……本当によかった……! 私のレーダーに、カズキさんの周りにいる人たちの真っ黒な悪意が、たくさん映ってて……キョウって人が裏切った瞬間、カズキさんの心音がすごく早くなったのが分かって、私、何もできないのに、ただ怖くて、叫ぶことしかできなくて……っ」
ミサキは他人の顔色を窺うだけの、臆病な女子高校生だった。しかし、今の彼女は、自分の恐怖ではなく「仲間の危機」に対して、その鋭敏すぎる感覚を全開にして耐え抜いたのだ。彼女の制服のセーラー服は汗と埃で汚れ、泣き腫らした目は真っ赤だったが、その手は決して二人を離そうとしなかった。
「ミサキ、ありがとう。君の警告がなかったら、僕は最初のキョウの動きに対処できなかった。君はもう、足手まといなんかじゃない。僕たちの立派な『目』だ」
一樹はミサキの小さな手をそっと包み込んだ。
家を焼かれ、社会から消され、どん底に突き落とされた三人の若者。しかし、この狭く薄暗いワンルームで互いの体温を確かめ合っている瞬間だけは、アプリの悪意に侵されていない、本物の「現実」がそこにあった。
「いつまで傷を舐め合っているのよ。みっともないわね」
部屋の入り口近く、冷徹な、しかしどこか安堵を含んだ声が響いた。
星野零──レイが、腕を組んで壁に寄りかかっていた。彼女のライダースジャケットは前回の戦いで傷つき、端々から白い繊維が覗いていたが、その立ち姿は相変わらず凛としていた。
彼女は自分のスマートフォンを一樹たちに見せた。
「カズキが送ってきた脆弱性データ、完璧にパッチの隙間を突いていたわ。おかげで私のハッキングコードも100%の出力で機能した。──認めざるを得ないわね。あなたたちのその無駄に強固な『信頼関係』がなければ、今回のゼロ除算エラー(クラッシュ)は成立しなかったわ」
レイはそう言うと、ふっと視線を床に落とした。その横顔には、これまでの冷酷な「ゲームマスター殺し」の仮面ではなく、ひとりの20代の女性としての、深い哀愁と優しさが滲んでいた。
「私の妹……あの子もね、ミサキのように大人しくて、いつも私の後ろをついてくるような子だったの」
レイは静かに語り始めた。その言葉は、初めて彼女が自発的に開いた、心の奥底の傷口だった。
「最初のステージに強制転送されたとき、周りは全員知らない大人ばかりだった。私はあの子に『ここで待っていなさい』と言って、一人でヒントを探しに行ってしまったの。あの子を危険に巻き込みたくない一心だった。……でも、それが間違いだったわ。私が目を離した数分の間に、あの子は別のプレイヤーに騙されて、罠のスイッチを押させられた。私が戻ったときには、あの子の身体はノイズになって半分以上消えていたわ」
室内の空気が、シンと静まり返る。タカシもミサキも、息を呑んでレイの言葉に耳を傾けていた。
「あの子はね、消えかける意識の中で、私に手を伸ばして言ったの。『お姉ちゃん、お仕事頑張ってね』って。……あの日、私は仕事の締め切りに追われて、あの子の言葉を上の空で聞いていた。だからあの子は、自分が死ぬ瞬間まで、私の負担になりたくないって思っていたのよ。システムはあの子を『エラーオブジェクト』として消去した。私は、あの子を一人にした自分を、今でも絶対に許せない」
レイの拳が、白くなるほど強く握りしめられた。爪が手のひらに食い込み、かすかに血がにじむ。
「だから、私は誰も信じないと決めた。他人を信じれば、その期待を裏切ったときの絶望が自分を殺すから。でも……あなたたちは違った」
レイは顔を上げ、真っ直ぐに一樹を見た。
「カズキ、あなたは自分が最下位に落ちるリスクを背負ってまで、私やタカシ、ミサキを救うための数値を導き出した。そしてタカシもミサキも、死の恐怖に直面しながら、あなたのその無謀な賭けに自分の命を預けた。……半年間、こんな地獄を見てきて、そんなバカな人間たちに出会ったのは初めてよ」
レイの瞳に、微かな潤いが光った。彼女はそれを隠すように、すぐにフイと顔を背けた。
「……だから、今回だけは言っておいてあげるわ。──私をあなたたちの作戦に組み込んでくれて、ありがとう。おかげで、妹が死んでから初めて、システムに一矢報いることができたわ」
「レイさん……」
一樹は立ち上がり、彼女の前に歩み寄った。
「僕たちは誰も見捨てない。レイさんの妹さんのためにも、このゲームの運営を絶対に引きずり下ろそう。一人で戦う必要はもうないんだ」
レイは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの冷ややかな笑みに戻した。
「ふん、偉そうに。ランクEの分際で、私を買い被らないことね。でも……まぁ、悪くないチームワークだったわ」
張り詰めていた緊張が完全に解けると、同時に凄まじい「空腹感」が四人を襲った。考えてみれば、昨日からまともな食事を一切口にしていない。全財産を失った一樹たちには現金がほとんどなかったが、レイがショップ機能を通じて現実世界のデリバリーサービスへ「偽装決済」を行い、大量のピザやハンバーガー、炭酸飲料をセーフハウスに呼び寄せた。
「うおおお! 飯だ! 本物の飯だ!!」
タカシが狂喜乱舞しながら、ピザの箱を開けた。とろけるチーズとジャンクな肉の香りが、殺風景なワンルームに広がる。その匂いだけで、自分たちがまだ生きており、人間の営みの中にいるのだという実感が湧いてくる。
「ミサキ、たくさん食べな。索敵で頭を使ったんだから、糖分を補給しないと」
一樹がハンバーガーを差し出すと、ミサキは「ありがとうございます!」と両手で受け取り、小さな口で大急ぎで頬張った。その姿は、どこにでもいる普通の女子高生そのものだった。
「ちょっと、タカシ。私の分のチキンに手を付けないでくれる?」
「あぁ? 早い者勝ちだろ、お姉さん! これくらい、大目に見てくれよ!」
「言っておくけど、次のゲームで私の足を引っ張ったら、その肉ごとあなたの身体を細切れにするからね」
「ヒィッ!? 冗談に聞こえねえからやめろよ!」
コーラを片手に言い合うタカシとレイの姿を見て、一樹は自然と笑みがこぼれた。
ほんの数日前まで、自分たちは完全に赤の他人だった。ただの広告の押し間違いから始まった最悪のデスゲーム。しかし、死の淵を共に潜り抜ける中で培われた彼らの絆は、現実世界の学校や職場で形作られるどんな人間関係よりも、遥かに深く、血の通ったものになっていた。
「ねえ、カズキくん」
ミサキが口元のソースをティッシュで拭きながら、静かに一樹に話しかけた。
「私……家族から忘れられて、自分の家がなくなっちゃったときは、本当に世界に一人ぼっちになった気がして、死んじゃった方が楽なのかなって思いました。でも、今は……この部屋にいるみんなが、私の新しい『家族』みたいに思えるんです。みんなが私の名前を呼んでくれるから、私はまだ、ここにいてもいいんだって思える」
ミサキの真っ直ぐな言葉は、一樹の胸に深く突き刺さった。
「僕も同じだよ、ミサキ。アパートを焼かれて、大学の友達の連絡先も全部消えた。だけど、ここでタカシやミサキ、レイさんと出会えた。この繋がりだけは、あのクソみたいなアプリでも絶対に消去できない」
「あったり前だろ!」
タカシがコーラの缶を中央に掲げた。
「俺たちの命は、あの天秤なんかじゃ計れねえんだよ。運営が何と言おうが、俺たち四人で最後まで生き残って、全員で元の日常を取り戻す。──乾杯だ!」
「……子供っぽい真似を」
レイは呆れたようにため息をついたが、手にしたグラスを、タカシの缶へと静かに寄り添わせた。
「でも、そうね。全員で生還する。その非論理的な目標、付き合ってあげるわ」
「みんな、いこう」
一樹もグラスを掲げ、四人の器が中央で、チリンと心地よい音を立てて重なり合った。
アプリによって結ばれた、呪われた同期。
しかし彼らは、それを「不条理への反逆」という強固な絆へと昇華させていた。
食事を終え、タカシとミサキが満腹感と疲労から泥のように眠りについた後、一樹とレイは、ノートパソコンの青白い光の前に並んで座っていた。
「……これが、今回の天秤のステージで私が収集した、運営サーバーのパケットログよ」
レイが画面を指差す。そこには、複雑に暗号化されたデータのパケットが、奇妙な周期で特定のIPアドレスへと送信されている形跡が残されていた。
「一樹、あなたの【解析の眼】で見えた、あの天秤のロジックエラー。あれは単なるプログラムのバグじゃないわ。システム自体が、プレイヤーの『感情のデータ』をリアルタイムで処理しているからこそ起きたオーバーフローよ。運営は、私たちが恐怖し、裏切り、絶望する際の『脳波や精神エネルギー』のようなものを、アプリを媒介にして吸い上げている可能性がある」
「精神エネルギー……? まるで、オカルトじゃないか」
一樹は眉をひそめた。
「現代の科学技術を超越しているのは、空間転送の時点で証明されているわ。でも、重要なのはそこじゃない。このログの送信先……。いくつかのプロキシ(経由サーバー)を噛ませているけれど、データの中心地の物理的な位置が、国内の、ある場所に固定され始めているの」
「場所が分かるのか!?」
「ええ。東京の臨海副都心エリア──そこにある、現在建設凍結中になっている巨大な地下データセンター。おそらく、そこにこの最悪のデスゲームを統括するメインサーバーと……『開発者』がいるわ」
ついに、敵の心臓部の位置が、朧げながらも見えてきた。
一樹の胸に、冷たい高揚感が走る。逃げ回るだけのサバイバルは終わりだ。これからは、自分たちから元凶の喉元へと突進するための道筋を作らなければならない。
その時。
ピリリリ、ピリリリ。
静まり返った部屋の中に、一樹のスマートフォンだけが、聞き覚えのない「特殊な着信音」を鳴り響かせた。
それはアプリの通知音ではない。通常の電話着信──しかし、画面に表示された発信者の欄には、番号ではなく、ただ一言、
『GAME MASTER』
と表示されていた。
一樹とレイの身体が、同時に凍りつく。
眠っていたタカシとミサキが、その異様な気配を察知したかのように、ハッと目を覚ました。
「カズキ……それ……」
タカシが声を震わせる。
一樹は【精神耐性】のスキルを限界まで引き上げ、震える指で通話ボタンをスライドさせ、スピーカーモードに切り替えた。
スピーカーから流れてきたのは、機械的に加工された、男とも女ともつかない、酷く無機質で、それゆえに圧倒的な悪意を含んだ「声」だった。
『──素晴らしい、素晴らしいですよ、プレイヤー:カズキ。そして、チームの皆様──』
声は、一樹たちの生還を嘲笑うかのように、歪んだ拍手の音を背後に響かせた。
『二度までもシステムの仕様(脆弱性)を突き、本来死ぬべきオブジェクトを生還させるなど、我がサバイブ・リンクの歴史において前代未聞のイレギュラーです。あなたたちの見せる「絆」とやらは、実に良質なデータ(絶望の苗床)を提供してくれています』
「誰だ……! お前が、このゲームの主催者なのか!?」
一樹がスマートフォンに向けて怒号を浴びせる。
『名乗るほどの名前はありません。私はただの管理者。……さて、度重なる反逆行為への「ご褒美」として、次の第五フェーズでは、あなたたちのその美しい絆を、根底から破壊するための特別なステージをご用意しました』
スマートフォンの画面が強制的に切り替わり、次なるクエストの「予告文」が表示される。
『フィフス・クエスト:【寿命の天秤】』
『ルール:これより24時間、皆様のスマートフォンは【課金システム】が完全開放されます。購入できるのは、武器ではありません。──「仲間の寿命」および「自身の生存期間」です。誰かを生きながらえさせるために、誰の命を削るのか。じっくりと話し合って、お決めください』
ゲームマスターの声が、脳の奥底を掻き回すような狂気を含んで響き渡る。
『それではプレイヤーの皆様。次の地獄で、またお会いしましょう。アハハ、アハハハハハハ!!』
ブツリ、と非情に通話が切れた。
部屋の中に残されたのは、画面に映し出された、血のような赤色で刻まれた『残り時間:24:00:00』のカウントダウン。
運営から直接指名された、一樹たちへのピンポイントの報復。
仲間の命を数値化し、奪い合わせるという最悪のアップデートを前に、四人は再び、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。




