五話目
レイの放った神速の突きが、体勢を崩したタカシの喉元へと肉薄する。
そこへ割り込んだ一樹は、右ポケットから引き抜いたタクティカルペンを逆手に握り、レイのナイフの側面に叩きつけた。
キィィン!
鼓膜を震わせる高い金属音が焼け跡に響く。
【近接格闘心得(初級)】の効果は劇的だった。一樹の身体は、剣道の踏み込みと現代格闘の合理的な重心移動を自然にミックスさせ、レイの突きの軌道をわずかに右へと逸らすことに成功した。刃先はタカシの首皮一枚を残して空を切る。
「……チッ、またあなたね、カズキ」
レイは着地すると同時に、不快そうに目を細めた。
月光に照らされた彼女の横顔は、彫刻のように美しく、そして完全に凍りついていた。彼女の持つナイフのブレードには、持ち主のランクを示すかのような、深いDランクの刻印が青く鈍い光を放っている。
「レイさん、待ってくれ! まだ時間は40分以上ある! 最初から殺し合う必要はないはずだ!」
一樹はペンを構え直しながら叫んだ。
「甘いわ、カズキ。これまでのゲームを見てこなかったの?」
レイはナイフを滑らかに回転させ、再び戦闘の構え(スタンス)を取った。その構えには一切の無駄がなく、プロの軍人や暗殺者のそれすら彷彿とさせた。
「このゲームはね、生存者を『2名以下』にしろと言っているの。つまり、四人のうち二人が死ぬのは確定事項。時間を引き延ばせば引き延ばすほど、疲れや焦りでミスが生まれる。なら、最も動きが鈍くてポイントが低そうなあの二人を最初に処理するのが、この場にいる全員の生存率を最大にする方法よ」
「そんなの、ただの詭弁だ! 自分の命が惜しいから、弱い者いじめをしてるだけだろ!」
後ろで鉄筋を握り直したタカシが、屈辱に顔を真っ赤にして叫ぶ。そのタカシの後ろの壁に一瞬ノイズが走る。
「いじめ? 違うわ、これはただの『最適化』よ」
レイの瞳の奥に、深い、闇のような色が一瞬だけ過った。
「私はね、この狂ったゲームのせいで、もう何もかも失ったの。……私の本名は『星野 零』。元はただのシステムエンジニア。でもね、半年前にこのアプリを『強制インストール』されたあの日から、私の日常は消えた。私の妹は、最初のステージでルールを理解できずに『バグ消去』されたわ。両親は社会的ペナルティで私の存在を忘れて、今は精神病院にいる」
一樹とタカシ、そして物陰で息を潜めていたミサキが息を呑む。
彼女は、一樹たちよりも遥かに長い期間、この地獄を一人で生き抜いてきた「大先輩」だったのだ。Dランクという称号は、彼女がこれまでに何人ものプレイヤーの死を見届け、あるいはその手を血に染めてきた証に他ならなかった。
「妹が消えた時、システムのアナウンスが流れたわ。『不具合のあるオブジェクトを消去しました』って。人間を、ただのプログラムのエラーみたいに扱ったのよ。だから私は誓った。このゲームを最後まで勝ち抜いて、開発者の面を拝み、このシステムそのものを内部から破壊してやるとね。そのためなら──私はどんな泥だってすするし、何人だって殺す」
レイの言葉には、狂気と、それを遥かに凌駕する純粋な執念が満ちていた。
彼女が生き残ろうとするのは、単なる自己保身ではない。復讐のためだ。このデスゲームの頂点に立ち、元凶を屠るという絶対的な目的があるからこそ、彼女は心を鬼にして「最適化」を実行できるのだ。
「あなたの事情は分かった……!だけど、だからこそ、ここで殺し合っちゃダメだ! 運営の思い通りに動くのが、一番の負けだ」
一樹は【精神耐性】のスキルで恐怖をねじ伏せ、一歩前に踏み出した。その時、一樹の足元の床にノイズが走る。
「レイさん、あんたシステムエンジニアなら、このステージの『おかしな点』に気づいていないか?」
「おかしな点……?」
レイの眉が、わずかにピクリと動いた。
「カズキくん、後ろ……!」
物陰から、ミサキの悲鳴のような警告が飛んだ。彼女の【危険察知(初級)】が、一樹の背後に潜むリスクを感知したのだ。
一樹は即座に横へ飛び退いた。次の瞬間、彼がいた場所のコンクリート床が、前触れもなくドロドロの黒い「液体ノイズ」へと変質し、そこから這い出してきたバグの触手のようなものが空を打った。
「なんだよこれ、また化け物か!?」
タカシが怯えながら鉄筋を振り回す。
「いや、違う。これはクリーチャー(怪物)じゃない」
一樹はスマートフォンの画面を注視した。マップの四つのドット以外に、敵を示す赤いドットは一つも表示されていない。
「レイさん、このステージのクリア条件をもう一度思い出してくれ。『生存プレイヤー数を2名以下にすること』だ。だけど……『誰が誰を殺せ』とは一言も書いていない。そして、このステージの制限時間は45分。なのに、まだ始まって数分しか経っていないのに、どうしてステージのあちこちでバグの侵食が始まっているんだ?」
レイはナイフを構えたまま、周囲の壁や床に走り始めた不自然なデジタルノイズを凝視した。
アパートの焼け跡を囲む、紫色の巨大な障壁。その内側の空間全体が、まるで処理落ちしたゲームのように、不規則に歪み、明滅を繰り返している。
「……通常、制限時間内のインターバル中は、ステージの環境は維持されるはず。バグ(侵食)が始まるのは、タイムリミットが迫った時だけよ」
レイの口から、エンジニアとしての冷静な分析が漏れ出た。
「そう、そこがおかしいんだ」
一樹は確信を持って微笑んだ。
「このステージ【不協和音のコロシアム】は、俺たちに殺し合いをさせるために作られた空間だ。だけど、システムの負荷が異常に高い。なぜなら、ここは俺が数日前まで住んでいた『現実のアパートの焼け跡』をベースに、無理やり切り取って作られた隔離空間だからだ。つまり──このエリア自体が、最初から崩壊寸前の『急造のバグエリア』なんだよ!」
一樹の言葉に、レイの目が見開かれた。
「まさか……プレイヤーを物理的に閉じ込めて同期させるために、システム側が容量をオーバーフローさせているっていうの……?」
「ああ。運営は俺たちに早く殺し合いをさせて、人数を減らすことでシステムを安定させたいんだ。だから追加ルールで『3名以上生存なら全員即時消去』なんていう、焦らせるような条件をつけた。四人もアクティブなプレイヤーがこの狭い空間でスキルを連発したら、このステージのサーバー自体が持たないんだよ」
「カズキ、それってつまりどういうことだ?」
タカシが頭を抱えながら尋ねる。
「つまり、俺たちが殺し合わなくても、このステージのシステムを内側から『クラッシュ』させて障壁を壊せば、全員が死なずに現実世界へ強制切断される可能性があるってことだ!」
「そんな賭け、危険すぎるわ」
レイの冷徹な声が響く。しかし、そのナイフの切っ先は、先ほどよりもわずかに下がっていた。
「もしクラッシュに失敗して、45分が経過したら、私たちは全員『バグ消去』される。リスクが高すぎるのよ」
「でも、成功すれば誰も死なない! レイさん、あんたエンジニアだろ! この空間の『負荷が一番かかっている場所』がどこか、見抜けないか!?」
一樹は真っ直ぐにレイの瞳を見つめた。その強い光に、レイは一瞬気圧されたように息を呑んだ。
彼女は自分のスマートフォンを開き、管理者向けのパケット解析ツールのような、独自の非公式コード(彼女がこれまでのゲームで命懸けでハッキングして構築した画面)を走らせた。画面に、緑色の文字列が高速で流れ落ちていく。
「……信じられない。本当に対象エリアの同期エミュレーションが限界を迎えているわ。カズキ、あなたの言う通りよ。この空間のデータ構造はハリボテだわ」
レイの指が、驚異的な速度で画面をタップしていく。
「空間の負荷が集中しているソースコードの結節点は……3箇所。このアパートの焼け跡の、特定のオブジェクトに同期の負荷が集中している!」
「どこだ!?」
「一つは、そこにある『焦げた自転車』。もう一つは、奥の部屋の『半焼の冷蔵庫』。そして最後の一つは……エリアの最深部、『溶けた郵便ポスト』よ!」
レイがアンカーの位置を特定した瞬間、ステージ全体のノイズが激しさを増した。
ビキビキ、と空間そのものにひび割れが走り、紫色の障壁から黒いデジタル触手が何本も這い出してくる。システムが、プレイヤーたちの「反逆の意図」を察知し、防衛プログラムを起動したのだ。
「制限時間まで残り30分! 防衛プログラムが来るわよ!」
レイが叫ぶと同時に、一樹はチームに指示を飛ばした。
「タカシ! お前の身体能力で『焦げた自転車』を破壊してくれ! ミサキは危険察知でタカシのサポートを!」
「おう! 任せとけ! ぶっ壊せばいいんだな!」
タカシは鉄筋を肩に担ぎ、ミサキを伴って猛然と走り出した。
「レイさんは『半焼の冷蔵庫』をお願いします。俺は『郵便ポスト』へ行く!」
「……分かったわ。もし失敗したら、最初にあなたを殺すからね、カズキ!」
レイはそう言い残すと、ライダースジャケットを翻し、ナイフを手に黒い触手を鮮やかに切り裂きながら奥の部屋へと突進していった。
一樹は、かつて自分が暮らしていたアパートの2階部分──今は完全に崩壊し、瓦礫の山となった「我が家」の跡地へと駆け上がった。
足元からは常に黒いノイズが噴き出し、一樹の体力を削ろうとまとわりついてくる。しかし、購入した【近接格闘心得】の体幹バランスと、【精神耐性】による冷静さが、彼の歩みを止めさせない。
「ここだ……」
瓦礫の中に、ドロドロに溶けて原型を留めていない、金属製の郵便ポストが転がっていた。そこからは、凄まじい密度の紫色の光の束が、天にそびえる障壁へと伸びている。まさに、この空間を現実世界と同期させている、コアそのものだった。
『警告:エリア内のデータ整合性が80%以下に低下しています。速やかにオブジェクトの排除を行ってください』
スマートフォンから、今までにない機械的なエラーアナウンスが流れる。
同時に、一樹の背後の空間が歪み、地下空間でシンジを屠ったあの「3Dモデルの怪物」の不完全なコピーが、3体同時に出現した。顔のない怪物たちが、鎌のような両手を一樹に向けて振り下ろす。
「くっ……!」
一樹はタクティカルペンを構え、最初の1体の腕の関節(と思われるポリゴンの継ぎ目)を目がけて突きを放った。
ガツン! という手応えと共に、怪物の腕がノイズとなって弾け飛ぶ。しかし、残り2体が左右から一樹の首を刈り取ろうと迫る。
その時、遠くからタカシの咆哮が聞こえた。
「オラァァァ! チャリ、一丁あがりィィ!」
ドゴォォォン! と凄まじい衝撃音が響き、マップ上の第一のアンカーが消失した。
続いて、レイのいる方向から、冷徹な一喝と共に強烈な爆発音が轟く。彼女はショップで高火力の爆弾を購入し、冷蔵庫ごとアンカーを爆破したのだ。
「第二アンカー、消失! カズキ、早くしなさい!」
二つのアンカーが消えたことで、空間のバランスが完全に崩壊し始めた。
空の色が紫から真っ黒な虚無へと変わり、アパートの焼け跡全体が、まるで水面に映った絵のように激しく揺らぎ始める。一樹を襲おうとしていた2体の怪物も、処理落ちによって動きがピタリと止まった。
「これで、最後だ……!」
一樹は全身の力を右腕に込め、タクティカルペンの先端を、溶けた郵便ポストのコア(発光部)へと全力で突き立てた。
パリィィィィン!!!
ガラスが粉々に砕け散るような、凄まじい音が空間全体に炸裂した。
最後のアンカーが破壊された瞬間、世界からすべての「音」と「光」が消え去った。
一樹の身体は、無限の奈落へと落下していくような奇妙な感覚に包まれる。スマートフォンの画面には、赤い文字で巨大なシステムエラーが表示されていた。
『CRITICAL ERROR: SERVER OVERFLOW』
『STATUS: FORCE DISCONNECTING...』
(やった……のか……?)
一樹の意識は、そこで一度、深い闇の中へと完全に沈んでいった。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
冷たい風が、一樹の頬を撫でた。
「……ん……」
一樹がゆっくりと目を開けると、そこは──本来の現実世界の、早朝の郊外にある
「廃工場跡地」だった。
隣には、タカシとミサキが、互いに手を握りしめたまま気絶するように眠っている。二人の胸は静かに上下しており、生きていることは明らかだった。
「はは……生き、残った……」
一樹は仰向けになり、どんよりとした曇り空を見上げて笑った。
四人中、誰も死なずに、あの殺戮のルールを完全に「破棄」して生還したのだ。
「やるじゃない、カズキ」
聞き覚えのある声に、一樹は首だけを動かした。
数メートル離れた鉄骨の影に、レイが壁に寄りかかって立っていた。彼女のライダースジャケットは少し破れていたが、その瞳には、これまでのような冷酷な光ではなく、一樹に対する明確な「敬意」と、微かな「希望」の色が宿っていた。
「システムをクラッシュさせてゲームを不成立にするなんて、半年間生き延びてきて初めて見たわ。あなた、ただのバカじゃないみたいね」
「……最高の褒め言葉として受け取っておくよ、レイさん」
一樹が苦笑いしながら立ち上がると、スマートフォンが静かに震えた。
ピコン。
『サード・クエスト:システムエラーにより【不成立】と判定されました』
『ペナルティおよび報酬は発生しません。プレイヤーのランクは維持されます』
『これより、フォース・クエストへの移行期間に入ります。次のマッチングまで、24時間』
『──警告:運営チームは、システムの脆弱性を修正(パッチ適用)しました。同一の手段は二度と通用しません──』
画面の最後の警告文を見て、レイはふっと冷たい笑みを浮かべた。
「向こうも焦っているみたいね。私たちの存在が、システムにとって本物の『バグ』になり始めた証拠よ」
彼女は一樹に近づき、自分のスマートフォンを差し出した。画面には、彼女の連絡用のアカウントのQRコードが表示されている。
「カズキ。これからは、私もあなたたちのチームに加わってあげる。……私たちは、この最悪なゲームをアンインストールする仲間よ」
最悪の敵になるはずだった最強のプレイヤー、レイ。
彼女が仲間に加わったことで、一樹たちの「反撃のチーム」は、本当の第一歩を踏み出した。




