四話目
レイが朝靄の中に消え去った後、シャッター街の裏通りには、凍りついたような静寂が残された。
東の空から差し込む薄オレンジ色の光が、生き残った三人の影を長く、歪にアスファルトへ描き出している。
「嘘だろ……あいつ、何なんだよ。あんなこと言いやがって……」
タカシが震える手で頭を掻きむしり、地面を思いきり蹴りつけた。乾いた音が響く。彼の金髪はひどく乱れ、顔のあちこちに地下空間の煤がついていた。
その傍らで、女子高校生のミサキは、セーラー服の膝の部分を真っ黒に汚したまま、小さく丸まっていた。彼女の肩は規則的に上下しており、声を殺して泣いているのが分かった。
一樹は痛む右腕をさすりながら、二人に近づいた。
高校時代まで剣道をやっていて鍛えられた身体も、昨夜からの精神的・肉体的な極限状態によって、鉛のように重くなっていた。防刃ベストの圧迫感が、自分がまだ地獄の渦中にいることをリアルに伝えてくる。
「……二人とも、とりあえずここを離れよう。もうすぐ朝のゴミ回収や通勤の人が通る。この格好じゃ目立ちすぎる」
一樹の声は掠れていた。
タカシは一瞬、一樹を睨みつけるような視線を向けたが、すぐに諦めたように肩を落とした。
「あぁ? 離れるって、どこに行くんだよ。俺の部屋、昨日から謎のバグで電気が止まって、ネットも繋がらなくなってんだ。スマホはあのクソアプリのせいで狂ってるし……」
「私の家も……」
ミサキが初めて、弱々しく声を絞り出した。
「昨日、お父さんとお母さんが、急に私のことを『誰だ』って言い出して……。警察に電話しようとしたから、怖くなって飛び出してきたの。私の部屋にあった荷物も、全部消えてて……」
一樹は息を呑んだ。
ミサキに課されたペナルティは、社会的・精神的な死──「家族からの存在の抹消」だったのだ。
一樹のアパート焼失、タカシのライフライン寸断、そしてミサキの家族からの拒絶。アプリ『サバイブ・リンク』は、プレイヤーがゲームから逃げ出さないよう、現実世界の退路を容赦なく断っていく。
「俺たちは、もう帰る場所がないんだ」
一樹は自分のポケットにある、残り少なくなった小銭入れを握りしめた。
「でも、だからこそ、ここにいる三人で情報を共有しなきゃダメだ。あのレイって人は『次は殺し合いになる』と言ったけど、今回のクエストみたいに全員でクリアできるルールだってあるはずだ。生き残る確率を上げるために、今は協力しよう」
一樹の真摯な眼差しに、タカシは毒気を抜かれたようにため息をついた。
「……カズキ、だったな。お前、お人好しすぎるか、ただのバカかのどっちかだな。でも……一人で次のクソゲーを迎えるよりはマシか」
ミサキも小さく頷き、一樹の手を借りてふらつきながら立ち上がった。
三人は互いの生存を確認し合うように、寄り添いながら歩き始めた。目指すのは、誰も来ない、かつて一樹が立ち寄った場末のネットカフェだった。
午前七時。ネットカフェのファミリー個室(複数人で利用できる狭い防音室)に、三人は収まっていた。
ドリンクバーから持ってきた冷たいウーロン茶を喉に流し込み、ようやく一樹は人心地ついた。
個室の薄暗い照明の中、三人はスマートフォンを中央のローテーブルに並べ、それぞれのステータスを公開し合うことにした。
【プレイヤー名:カズキ】ランク:E / 2100 SP
【プレイヤー名:タカシ】ランク:F / 1500 SP
【プレイヤー名:ミサキ】ランク:F / 1500 SP
「俺たちが昨日手に入れたポイントは1500 SP。カズキは前回の生き残り分があるから頭一つ抜けてるな」
タカシがテーブルに肘をつきながら言った。
「ああ。だけど、次のゲームでどんなハンデがつけられるか分からない。シンジさんみたいに移動速度を落とされたり、レイさんみたいにターゲット固定にされたら、この程度のポイント差なんて簡単に吹き飛ぶ」
一樹の言葉に、部屋の空気が再び重くなる。
一樹は二人を観察した。
タカシ──本名は佐藤タカシ。20歳。高校を中退後、定職に就かず、昼夜逆転の生活を送りながらオンラインのFPSゲームや動画配信にのめり込んでいたという。
「俺さ、現実の世界じゃ何やってもダメでさ」
タカシは自虐的に笑いながら、ドリンクのグラスをいじった。
「親からは見捨てられてるし、バイトも長続きしねえ。ネットのゲームの中だけが、俺が『強い』って思える場所だったんだ。だからあの広告を見たとき、本物のスリルとか言われて、つい釣られちまった。まさか、本物の化け物に追いかけ回されるゲームだなんて思わねえだろ……」
タカシの言葉には、現代の若者が抱えるリアルな孤独と、承認欲求への飢えが滲んでいた。彼はゲーム感覚で臨んだ結果、最初のマッチングで親しかった「ダチ」が目の前でノイズになって消える瞬間を目撃し、その精神に深い傷を負っていた。彼が虚勢を張るのは、そうしなければ恐怖で壊れてしまうからだった。
「私は……」
ミサキが小さな声で続けた。本名は織田ミサキ。17歳の高校2年生。
「ただ、友達の間で『絶対にインストールしてはいけない都市伝説のアプリ』って噂になってて……。ただの肝試しで、夜に自分の部屋でダウンロードしちゃったんです。そしたら、すぐに画面が真っ黒になって、お父さんたちの記憶から私が消えて……」
彼女は再び涙を浮かべた。
「私、学校でもいつも目立たないように、他人の顔色ばかり見て生きてきました。運動も苦手だし、勉強も普通だし。私みたいな価値のない人間が、なんでこんな目に遭わなきゃいけないの……?」
ミサキの掘り下げられた背景は、一樹の胸を痛めつけた。彼女は明確な悪意や強い欲望があったわけではない。ただの好奇心と、日常の退屈から、この悪魔の巣窟に足を踏み入れてしまったのだ。
「二人とも、自分を責めるのはやめよう」
一樹は二人の目を見て、力強く言った。
「俺だって、ただの冴えない大学生だ。広告を押し間違えただけで、アパートを焼かれた。このゲームの運営は、人間の弱みや、ちょっとした隙を狙ってプレイヤーを引きずり込んでる。悪いのは俺たちじゃない、このシステムだ」
一樹の言葉に、タカシは小さく鼻を鳴らしたが、その表情は少しだけ和らいでいた。ミサキも涙を拭い、一樹を見つめた。
「とにかく、次のインターバルが終わるまでに、私たちは『ショップ』の機能を最大限に活用して、生存率を上げなきゃいけない」
一樹は自分のスマートフォンを操作し、ショップ画面を二人に提示した。
三人がショップ画面を検証していると、突然、すべてのスマートフォンが不穏な電子音を奏でた。
ピリリリ、ピリリリ。
『お知らせ:サバイブ・リンクはバージョン1.04へアップデートされました。新規機能【スキルツリー】および【アイテム譲渡機能】が開放されます』
「アップデート……? この状況でかよ」
タカシが嫌悪感を露わにしながら画面をタップした。
画面には、新しく「スキル」という項目が追加されていた。
それは、プレイヤーの肉体や感覚を一時的、あるいは永続的に強化するための、まさにRPGのようなシステムだった。
『スキル例:
【動体視力強化(初級)】:300 SP。戦闘時、敵の動きがわずかに遅く見える。
【危険察知(初級)】:500 SP。自身に危害が及ぶ直前、脳内に警告音が響く。
【痛覚遮断(一時)】:200 SP。10分間、一切の肉体的苦痛を感じなくなる』
「これ……本当に人間をやめさせる気かよ」
一樹は背筋が寒くなるのを感じた。
ポイントさえ払えば、人間を超越した力を手に入れることができる。しかしそれは、裏を返せば「それほどの力を持たなければ、これからのゲームを生き残れない」という運営からの宣告でもあった。
「なぁ、カズキ。これ、ポイントをアイツらに譲渡できる機能もついてるぞ」
タカシが画面の一角を指差した。
『アイテム・ポイント譲渡:同一エリア内のプレイヤーに、自身の財産を移行できる(手数料一律10%)』
一樹は思考を巡らせた。
現在、タカシとミサキのポイントは1500 SP。一樹は2100 SP。
「タカシ、ミサキ。俺の提案を聞いてくれ」
一樹は二人を見据えた。
「次のゲームがどんな内容か分からない以上、個人の戦闘力を上げるだけじゃ限界がある。役割分担をしよう」
「役割分担?」
タカシが眉をひそめる。
「ああ。タカシは前回のゲームでも、俺の指示に素早く反応して鍵を見つけてくれた。動きも軽い。だから、タカシは『機動力と戦闘』に特化してほしい。ショップの【身体能力強化(初級)】と【動体視力強化】を取ってくれ。足りない分のポイントは、俺が融通する」
タカシは目を見開いた。
「おい、正気か? 他人にポイントを分けるなんて、自分が不利になるかもしれないんだぞ」
「俺たちはチームだろ。タカシが強くなれば、俺やミサキを守る盾にも、敵を崩す矛にもなれる。その代わり、ミサキには【危険察知】と【簡易医療キット】を複数持って、俺たちの『サポートと索敵』を担当してほしい」
ミサキは驚いて身を乗り出した。
「私に、そんな重要な役、できるでしょうか……」
「できるよ、ミサキ。君は他人の顔色を見るのが得意だと言った。それは、周囲の環境や人の変化に敏感だってことだ。その才能は、このゲームの索敵に絶対に役に立つ」
一樹の言葉は、ミサキのコンプレックスを「武器」へと昇華させるものだった。ミサキの瞳に、初めて「誰かの役に立てるかもしれない」という微かな光が宿った。
「……分かったわ。私、やってみる。みんなの足を引っ張りたくない」
「ケッ、お前がそこまで言うなら、俺も乗ってやるよ」
タカシは照れ隠しに首の後ろを掻きながら、スキル購入の画面を進めた。
一樹は二人にそれぞれ300 SPずつを譲渡した(手数料を含め、一樹の口座からは660 SPが引かれた。残高は1440 SP)。
タカシは【身体能力強化(初級):1000 SP】と【動体視力強化:300 SP】を購入。
ミサキは【危険察知(初級):500 SP】と【簡易医療キット:50 SP】を複数、そして残りで防刃ベストを購入した。
一樹自身は、残った1440 SPから、前回の戦いで有効だった打突能力を強化するため、【近接格闘心得(初級):500 SP】と、精神的な動揺を抑える【精神耐性(初級):500 SP】を購入した。残高は440 SPとなった。
購入が完了した瞬間、個室の中に三色の淡い光が走り、それぞれの身体へと吸い込まれていった。
「うお……何だこれ、身体がめちゃくちゃ軽いぞ!」
タカシが自分の両手を見つめ、驚きの声を上げる。彼の筋肉が、かすかに引き締まったように見えた。
ミサキもまた、耳をすますように周囲を見回している。
「なんだか、部屋の外の小さな音まで、はっきりと聴こえる気がします……」
一樹自身も、脳内が驚くほどクリアになり、右腕の痛みがすっと引いていくのを感じていた。剣道の型が、より洗練されたイメージとして脳裏に描かれる。
私たちは、変質してしまった。
この最悪なゲームに適応するために、自ら人間性を捨て、兵器へと近づいていくかのように。
一樹の胸に、言葉にできない苦い感覚が広がった。
スキル設定を終え、一時的な休息を取る三人の時間は、あまりにも早く過ぎ去っていった。
昼が過ぎ、夕方になり、ネットカフェの窓のない個室には、スマートフォンの放つ時計の数字だけが時を刻み続ける。
『次のクエスト開始まで:01:00:00』
一時間前。三人はネットカフェを出た。
前回の地下空間への強制転送の経験から、今回もどこへ飛ばされるか分からない。しかし、どのような状況になっても対応できるよう、今回はあらかじめ三人が「手を繋いだ状態」でその時を迎えることに決めていた。離れ離れに配置されるリスクを少しでも減らすためだ。
彼らが選んだ場所は、郊外にある、すでに閉鎖された廃工場の跡地だった。周囲に人気はなく、巨大な錆びついた鉄骨が不気味にそびえ立っている。
「なぁ、カズキ。もし次のゲームが、本当に『最後の1人になるまで殺し合え』だったら……お前、どうする?」
タカシが、鉄パイプに腰掛けながら、ぽつりと呟いた。
一樹は夜空を見上げた。月は雲に隠れ、周囲は完全な闇に包まれている。
「……俺は、誰も殺したくない。でも、二人を死なせたくもない。もしそんなルールが来たら、システムの仕様を破る方法を考える。あのアプリには、絶対にどこかに『穴』があるはずだ」
「穴、か。お前らしいな」
タカシは自嘲気味に笑ったが、その言葉には一樹への確かな信頼が含まれていた。
「あの……」
ミサキが二人の服の袖をそっと引っ張った。
「私のスマホのカウントダウン、あと十秒です……」
三人は互いの手を強く握りしめた。
タカシの熱い、少し汗ばんだ手。ミサキの、小さく冷たく震える手。一樹は二人の手の感覚を、脳裏に強く焼き付けた。
『00:00:03』
『00:00:02』
『00:00:01』
『00:00:00』
ピコン──。
脳内を揺さぶる電子音。
次の瞬間、世界のすべてが激しいノイズに包まれ、三人の意識は白い光の中へと収束していった。
強烈なG(重力)の感覚と共に、一樹の身体は激しくバウンドした。
「がはっ……!」
背中に硬い衝撃を受ける。一樹は慌てて目を開け、周囲を確認した。
手の感覚を確かめる。──繋がっていたはずのタカシとミサキの手は、そこにはなかった。強制転送の強大なエネルギーの前に、人間の握力など無力だったらしい。
「タカシ! ミサキ!」
一樹は叫びながら立ち上がった。
周囲の光景を見回した彼の言葉が、凍りつく。
そこは、どこか見覚えのある場所だった。
ひび割れたコンクリートの床。焼け焦げた鉄骨。頭上には、遮るもののない夜空が広がっている。
──そこは、一樹が数日前まで暮らしていた、そしてアプリによって焼き払われた「あのアパートの焼け跡」だった。
しかし、何かがおかしかった。
アパートの周囲にあるはずの住宅街の街灯や、遠くのビルの明かりが、すべて「消滅」していた。焼け跡の周囲を囲むように、高さ数十メートルはある、禍々しい紫色の「光の障壁」が、円を描くようにそびえ立っていた。
まるで、この焼け跡だけが、世界から切り取られて独立した闘技場になったかのようだった。
ピコン。
スマートフォンの画面が自動的に起動する。
『サード・クエスト【不協和音のコロシアム】を開始します』
『エリア内の生存プレイヤー数:4名』
『クリア条件:制限時間45分以内に、エリア内のプレイヤーを【2名以下】にすること。手段は問いません』
『追加ルール:制限時間を過ぎた時点で3名以上が生存している場合、エリア内の【全員を即時消去】します』
一樹の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
2名以下。
今、このエリアには四人の人間がいる。つまり、クリアするためには、最低でも「二人が死ぬか、消去されなければならない」という、確定した殺戮のルールだった。
一樹は画面のマップを開いた。
エリアを示す紫色の円の中に、四つのドットが表示されている。
一樹を示す青いドット。
そして、そこからわずか数メートル離れた、焼け焦げた壁の向こう側に、二つのドットが重なるようにして存在していた。その識別名は──『タカシ』と『ミサキ』。
「二人は一緒か……! 良かった!」
一樹が安堵しかけたその時、マップ上の最後の一つ、エリアの反対側に位置する『赤いドット』が、猛烈な速度でタカシとミサキの方向へと移動を始めた。
その赤いドットの識別名は──『レイ』。
「しまっ……! レイが二人を狙ってる!」
一樹は焼け跡の瓦礫を飛び越え、二人の元へと全力で走り出した。
強化された【近接格闘心得】と【精神耐性】のおかげで、足元がどれほど不安定でも身体のバランスが崩れない。しかし、一樹の心には、先ほどレイが残した冷酷な言葉がリフレインしていた。
『次は、私があなたを殺す側になるかもしれないのよ』
四人中、二人が消えなければ全員が死ぬ。
最強のプレイヤーであるレイが、最も効率的にクリアするために、最弱の二人を真っ先に間引きに動いたのは、戦術的には完全に正しかった。
「止めろ……止めろ、レイ!」
一樹が焼け焦げた廊下の角を曲がった瞬間、視界の先で、凄まじい金属音が炸裂した。
ガギィィィン!
月の光を浴びて、二つの影が激しく激突していた。
身体能力を強化されたタカシが、どこからか拾った太い鉄筋を振り回し、レイの手にする軍用のタクティカルナイフを受け止めていた。
「オラァ! 舐めるなよ、女ァ! 俺はさっきまでの俺じゃねえんだよ!」
タカシの目は血走っていたが、【動体視力強化】のおかげで、レイの神速のナイフ捌きをなんとか見切って凌いでいた。
しかし、レイの表情には一切の焦りがない。彼女は冷徹なキャットマイスターのように、タカシの荒削りな動きの隙を冷酷に見定めていた。
「へえ……インターバル中にずいぶんとポイントを注ぎ込んだみたいね。でも、基礎の技術がなってないわ」
レイはナイフの手元をわずかにずらし、タカシの鉄筋の遠心力を利用して、彼の体勢を鮮やかに崩した。
「しまっ……!」
ガラ空きになったタカシの胸元へ、レイのナイフの切っ先が、容赦なく突き出される──。
「タカシ!!」
一樹は叫びながら、その間へと身を投げ出した。




