二話目
突進してくる男の目は、完全に血走っていた。
一樹の脳裏を恐怖が支配する。しかし、身体は生存本能によって突き動かされた。
「うおおおおお!」
男が吼えながら、手にしたサバイバルナイフを容赦なく振り下ろす。
一樹は無我夢中で横に飛び退いた。刃が空を切る鋭い音が耳元をかすめ、民家のブロック塀に当たって火花を散らす。
「死ね! 死んでくれよ! じゃなきゃ俺の娘が……俺の娘が死んじまうんだよお!」
男は理性を失った様子で、再びナイフを構え直した。その言葉から、彼もまたアプリによって大切なものを人質に取られ、この狂気のゲームへと引きずり込まれたのだと理解できた。
だが、同情している余裕など一瞬もない。
「待ってくれ! 話し合おう! 何か他の方法が──」
「うるさいッ!」
男の二太刀目が一樹の左腕をかすめた。鋭い痛みが走り、着ていた上着の袖が裂けて赤い血がにじみ出る。
「くっ……!」
路地裏は狭く、行き止まりに追い詰められれば確実に殺される。一樹は痛む腕を押さえながら、必死に周囲を見回した。目に入ったのは、不燃ごみの日に出されたのであろう、粗大ごみの山だった。その中に、古びた金属製の物干し竿の切れ端が転がっている。
一樹は地面を滑るようにしてそれを掴み、迫り来る男に向けて突き出した。
「来いよ……!」
「そんな棒切れで、俺に勝てると思うな!」
男はナイフを順手に持ち替え、一樹の胸元を狙って直線的に踏み込んできた。
一樹は大学で特に運動部に所属していたわけではないが、かつて高校時代まで剣道を嗜んでいた。身体が、かつての感覚をかすかに記憶していた。
男が踏み込んだ瞬間、一樹は半身を引いて刃先をかわし、物干し竿の両端を握って、男の喉元へ向けて全力で突きを放った。
ガツン、と鈍い衝撃が手に伝わる。
的確に喉を捉えられた男は、「がはっ」と息を詰まらせてその場に膝をついた。ナイフが手からこぼれ落ち、アスファルトの上を鋭い音を立てて転がる。
「はぁ、はぁ……」
一樹は激しく呼吸しながら、ナイフを足で遠くへ蹴り飛ばした。
男は首を押さえ、顔を真っ赤にして悶絶している。これで「戦闘不能」の条件は満たしたはずだ。殺さずに済んだ。そう安堵しかけたその時、一樹のポケットの中でスマートフォンが「ピコン」と冷徹な音を立てた。
画面を確認する。そこには信じられない一文が表示されていた。
『無力化の判定:不十分。ターゲットはまだ行動の意志を有しています。制限時間残り15分』
「な、なんだって……?」
戦闘不能ではダメなのか。いや、アプリは「死亡または戦闘不能」と提示していた。だが、その基準を決めるのはシステム側だ。少し気絶させる程度では、システムは一樹の勝利を認めないらしい。
その時、膝をついていた男が、怨嗟の目を一樹に向けた。
「……お前を、殺す……殺して、アプリを、終わらせる……!」
男は懐から、もう一本の小さな折りたたみナイフを取り出そうとしていた。その目は、一樹を殺すまで絶対に止まらないという強固な殺意に満ちていた。
「止めろ……もう止めるんだ!」
一樹が叫んだ瞬間、世界が奇妙な静寂に包まれた。
スマートフォンの画面が、禍々しい紫色の光を放ち始める。同時に、倒れている男の胸元からも、同じ紫色の光が漏れ出しているのが見えた。
『警告:制限時間内に明確な決着がつかない場合、システムによる【バグ消去】が実行されます』
「バグ……消去?」
一樹の目の前で、男の身体がにわかに歪み始めた。
まるで、デジタル画像のモザイクが崩れるように、男の手足が、輪郭が、空間に溶けるようにしてノイズへと変わっていく。
「あ、あ、あああああああ!」
男は自分の手が透けていくのを見て、絶叫した。その声すらも、機械的に引き伸ばされたような奇妙な音へと変質していく。
「助けてくれ! 嫌だ、死にたくない! 俺は、俺は──」
男の言葉は最期まで紡がれなかった。
数秒の後、そこにはナイフが二本と、男が着ていた衣服だけが不自然に地面に残されていた。肉体も、骨も、血の一滴すらも残っていない。ただ、一人の人間が、最初からこの世にいなかったかのように完全に消滅していた。
「消え……た……?」
一樹は物干し竿を落とし、その場にへたり込んだ。
これが、このゲームの「敗北」の結末。死体すら残らない、文字通りの存在の消去。
ピコン。
『ファースト・クエスト、クリア。対戦プレイヤーの消滅により、プレイヤー:カズキの勝利と判定されました』
『報酬:1000 SPがマイページに付与されます。ランクが【F】から【E】に昇格しました』
『チュートリアルを終了します。これより、本フェーズへの移行期間に入ります。次のマッチングまで、24時間』
画面の文字を見つめながら、一樹の身体の震えは止まらなかった。
自分が生き残った喜びなど微塵もない。あったのは、自分も一歩間違えれば、あの男のようにノイズとなって世界から消されていたという、圧倒的な死の恐怖だけだった。
「これが……死のチュートリアル……」
一樹は衣服だけが残されたアスファルトをいつまでも見つめていた。街は、何事もなかったかのように朝の光に包まれ始めていた。




