第四話
「あはは……みんな、本当に無事でよかった。マジで死ぬかと思ったわ」
怪異との死闘から三日後。仄暗ネルは、いつものように自室から生配信を行っていた。画面の向こうには、あの夜を生き延びたリスナーたちが集まり、いつものように賑やかなチャット欄が形成されている。
タカシ@配信中毒:ネルおつ! マジであれから毎日快眠だわ(笑)
ゆきうさぎ:あの黒い手形の痣、次の日の朝には綺麗に消えてたよ!
ケンジ:ハッキングなんて二度とごめんだな。でも、ネルが無事で何よりだ。
ひよりん:日常最高! やっぱり普通の配信が一番落ち着くね。
「本当にな。ケンジには頭が上がらんよ。あの時のスパチャの不気味なメッセージは未だに謎だけど……まあ、PCの挙動も安定してるし、運営に問い合わせてもそんなバグは確認されてないって言うし。ただのシステムエラーだったってことで、この話は終わりにしましょう!」
ネルは明るい声を出しながら、手元のマグカップから温かいコーヒーを口に含んだ。鼻に抜ける香ばしい香りと、喉を通り抜ける確かな熱さ。全身の感覚が、ここが間違いなく「本物の現実」であることを証明している。あの悪夢のような夜が嘘のように、世界は平和な日常を取り戻していた。
配信を始めてから二時間が経過し、時計の針は深夜の十一時を回ろうとしている。
「じゃあ、明日も早いし、今日の配信はこの辺で終わろっかな。みんな、今日も見に来てくれてありがとう! おつネルー!」
マヨネーズ侍:おつネルー!
ミサキ:おつネル! ゆっくり休んでね!
Gamer_X:おつ!
ネルは配信ソフトの『配信停止』ボタンをマウスでクリックした。画面が切り替わり、「配信はオフラインです」という見慣れた文字が表示される。
「ふぅ……」
大きなため息を一つ。ヘッドホンを机の上に置き、背伸びをする。すべては終わったのだ。これからは、また普通のゲーム実況者として、楽しい動画を作っていけばいい。ネルは椅子から立ち上がり、部屋の電気をつけるために壁のスイッチへと歩いた。
カチリ、とプラスチックの小気味いい音が部屋に響く。しかし、部屋は暗いままだった。
「あ、あれ? 電球切れたか?」
もう一度、カチ、カチとスイッチを押し直してみるが、天井のシーリングライトが点灯する気配はない。
「面倒くさいな……明日買いに行くか」
と呟きながら、ネルはスマートフォンのライトをつけようと、ポケットから端末を取り出した。液晶画面を指でなぞり、ライトのアイコンをタップする。だが、スマートフォンの頭部から光が放たれることはなかった。それどころか、スマートフォンの画面そのものが、奇妙な挙動を見せ始めた。アプリのアイコンが、すべて『顔のない真っ黒な男』のドット絵に書き換わっていく。
「え……?」
ネルの背筋に、冷たい戦慄が走った。慌ててPCのモニターへと振り返る。電源を落としたはずの27インチモニターの画面が、いつの間にか青白く発光していた。そこに映し出されていたのは、デスクトップ画面ではない。『NO_SIGNAL.exe』の、あのタイトル画面だった。
「嘘だろ……ハッキングして、消去したはずなのに……っ!」
ネルはパニックに陥りながらも、今度こそ物理的にすべてを遮断するため、デスクの裏側にある電源タップの元へと手を伸ばした。コンセントのプラグを掴み、力任せに壁から引き抜く。パチィィン! と火花が散り、プラグが床に転がった。しかし、PCのモニターは消えなかった。それどころか、本体のファンが「ブーーーン」と、先ほどよりも一層激しい音を立てて回転し始めている。電力が供給されていないはずの精密機械が、自律した生き物のように駆動している。
「なんで……なんで動いてるんだよ! 電源切れてるだろ!!」
ネルは狂ったようにモニターの枠を叩いた。その時、彼の視線が、モニターの端ーー液晶パネルとプラスチックのフレームの『境界線』に吸い寄せられた。何かが、おかしい。よく見ると、モニターのフレームの黒いプラスチックの質感が、妙にざらざらしている。近づいて、目を凝らす。
それはプラスチックではなかった。極端に解像度の低い、ローポリゴンの「ドットの集合体」だった。ネルは息を呑み、自分のデスクの天板に目を向けた。木目が美しいはずのウォールナットのデスク。その表面を指でなぞってみる。感触はある。しかし、見た目が狂っていた。少し離れて見ると滑らかな木目に見えるのに、顔を近づけると、それは色の異なる四角いドットを不自然に並べただけの、ただの「テクスチャ(画像の貼り付け)」だった。
「あ……あ……」
恐怖に震える手で、ネルは自分の右腕を目の前に掲げた。皮膚の質感。産毛。爪の形。すべてが、粗い。滑らかな人間の肌ではない。境界線がガタガタと波打っている。彼が指を曲げると、その関節の動きに合わせて、皮膚のグラフィックがカクカクと不自然に変形した。
ネルは、弾かれたように部屋の窓へと駆け寄り、カーテンを勢いよく引き開けた。いつもの見慣れた東京の街並み。遠くに見える高層ビル群。道路を走る車のヘッドライト。だが、そのすべてが、完全に静止していた。走っているはずの車のライトからは、光の粒子がドットの塊となって空間に固定されている。
遠くの夜空を見上げると、星や月があるべき場所には、粗いグラフィックで描かれたスカイボックス(背景画像)の継ぎ目ーー巨大な「直線の切れ目」が、天を割るようにして走っていた。
世界が、本物ではない。ここは、現実世界などではなかった。
ネルの頭の中に、あの悪夢の夜の最後のメッセージが、鮮明な警告音となって蘇る。『テストプレイ(アルファ版)へのご協力、ありがとうございました。次回の大型アップデートをお楽しみに』
「そうか……そういうことだったのか……」
ネルは絶望に顔を歪め、笑うしかなかった。あの三日前。自分とリスナーたちが必死になって行った「逆ハッキング」。あれは、ゲームの呪いを打ち破ったわけではなかった。ゲーム『NO_SIGNAL.exe』は、ハッキングを仕掛けてきたネルの意識と、彼の自室のデータを丸ごと複製し、ゲームの内部データの一部(隔離サーバー)として、完全に閉じ込めてしまったのだ。
ネルが「現実に戻れた」と錯覚していたこの三日間の日常。それは、ゲームのプログラムが再現した、精密な『現実のシミュレーション』に過ぎなかった。チャット欄で会話していたタカシも、ゆきうさぎも、ケンジも、本物の彼らではない。ゲームのAIが、過去のログから生成した、偽物のリスナーのプログラム(ボット)だったのだ。
本物の世界では、仄暗ネルという配信者は、三日前の夜から行方不明になっているか、あるいは自室で心神喪失の状態で発見されているのだろう。彼の魂は、もう二度と、あちらの世界へは戻れない。
――チーン
静まり返った「ゲームの中の部屋」に、スパチャの通知音が響き渡る。電源の入っていないモニターの画面に、血のような赤色で、特大の文字が浮かび上がった。
【システム:大型アップデート『正式リリース』を開始します】
壁が、床が、天井が、ベキベキと音を立てて崩れ去っていく。三日間、ネルを安心させるために「現実の部屋」を模倣していたテクスチャがすべて剥がれ落ち、その向こう側から、あの『終わらない無限の廊下』が、四方八方へと無限に広がっていく。そして、闇の奥から、数え切れないほどの『顔のない真っ黒な男たち』が、一斉に姿を現した。
彼らの頭上には、緑色の文字で、膨大な数の名前が浮かんでいる。それはネルの知っているリスナーの名前ではない。世界中で、今この瞬間に『正式リリース』されたゲームを起動し、新しく取り込まれた、数百万人の「本物の人間たち」のアカウント名だった。
『ーーあ し も と を み ろ』
数百万人の顔のない化け物たちが、一斉に同じ声を上げ、ネルに向かって一歩を踏み出す。ネルは、自分の足元を見た。そこにはもう、床すらなかった。あるのは、すべての信号が途絶えた世界を示す、果てしない、底なしの『砂嵐』の深淵だけだった。
「……あ」
仄暗ネルの身体が、ドットの粒子へと分解されながら、永遠の暗闇へと落下していく。画面の向こうの本物の世界で、次の犠牲者がゲームの起動ボタンをクリックする、その瞬間まで。




