七話目
中央制御サーバーの破壊に伴い、天空都市の地下を支えていた電力網が次々と遮断されていく。
明滅していた光ファイバーは完全に沈黙し、周囲は本物の、冷たくて深い暗闇に包まれようとしていた。
「レティ……! 頼む、目を開けてくれ、レティ!!」
ハルトは、意識を失い自らの腕の中で急速に冷たくなっていく少女の身体を、狂おしいほどに強く抱きしめていた。
彼女の小さな胸からは、プラズマ弾によって焼かれた生々しい血が流れ続けている。
だが、その背中を支えるハルトの指先には、組織の医療カプセルの中では決して感じることのできない、彼女の「心臓の鼓動」が微かに、しかし確かに伝わっていた。それは、彼女が「104号」というただの記号ではなく、今この瞬間に、自らの意志で命を燃やしている一人の「人間」であるという、最後の主張のようだった。
「ここで死なせてたまるか……! お前は、自由になったんだ。こんな暗い地下の墓場で、終わらせてたまるものか!」
ハルトは自らのシャツを引きちぎり、レティの胸元の傷口へと強く押し当てて止血を試みた。そして、残された僅かな力を振り絞り、彼女の華奢な肉体を自らの背中へと背負い込んだ。
彼の脇腹の傷からも再び血が溢れ、視界が歪む。一歩進むごとに、全身の骨が軋むような激痛が走った。それでも、彼の足を動かしていたのは、かつて最愛の女性エマを救えなかったという過去の後悔ではない。
今、自らの背中で確かに息をしている「レティ」という少女を、本物の世界へと連れ出すという、彼自身の絶対的な『意志』だった。
崩壊していく維持回廊を、ハルトは這うようにして進んだ。天井から火花が散り、鉄パイプが激しい音を立てて崩落していく。
組織の追手たちの足音は、もう聞こえなかった。中央サーバーが破壊されたことで、組織の指揮系統は完全に麻痺し、執行部隊も自らの生存のために撤退を余儀なくされているのだろう。
どれほどの時間を歩き続けたのか、もう分からなかった。ハルトの意識もまた、極限の失血によって薄れかけていた。視界が白くモザイクをかけられたようにぼやけ、足の感覚はとうに消え失せている。
(エマ……俺は、間違っていなかっただろうか)
ハルトの脳裏に、かつて自分が生み出してしまった、子供たちの脳を玩具にする最悪のシステムの光景が浮かぶ。
自分の罪は、一生消えることはない。どれだけ苦しもうと、犯した過ちが帳消しになるわけではない。
だが――。背中で微かに動いた、レティの小さな指先。その感触が、ハルトを再び冷酷な現実へと繋ぎ止めた。
(違う。俺は、過去を清算するためにこの子を救ったんじゃない。俺は、レティに生きてほしかったんだ)
ハルトは最後の力を振り絞り、非常用の脱出ハッチのレバーを強く引き下げた。プシュー、という重々しい空気圧の抜ける音とともに、円形のハッチが外側へと開かれる。
その瞬間。「――っ」ハルトの目から、溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。
ハッチの向こう側に広がっていたのは、第九層区の酸性雨の泥水でも、第一層区の人工的なネオンの光でもなかった。
そこは、天空都市のさらに上、都市を覆う巨大なドームの外周部――本物の「地上」だった。
どこまでも広がる、深く、透き通るような青。水平線の彼方から、世界を黄金色に染め上げる、圧倒的なまでの光の塊が昇り始めていた。人工の照明ではない。肌をチリチリと焼くような、それでいてどこまでも温かい、本物の「太陽」の光だった。
風が吹いていた。重金属の臭いはなく、どこか遠くの潮の香りを孕んだ、冷たくて、心地よい本物の風。
ハルトはドームの縁にある乾いたコンクリートの上に、レティの身体をそっと横たえた。そして、持参していた組織の緊急救命用ナノマシン注射器を、彼女の頸椎へと迷わず突き刺した。
これが最後の、自分にできるすべての医療処置だった。
「レティ……見てくれ。本物の、太陽だ……」
ハルトは彼女の手を握りしめ、祈るようにその顔を見つめ続けた。ナノマシンが彼女の体内を巡り、損傷した細胞を急速に再構成していく。
どれほどの沈黙が流れただろうか。やがて、レティの長い銀色の睫毛が、微かに震えた。
「……ん……」
小さな、本当に小さな声だった。
レティはゆっくりと、そのペールブルーの瞳を開いた。彼女の視界に最初に飛び込んできたのは、眩いばかりの朝日の光だった。
「……まぶ……しい……」
レティは思わず、自由になる右手を顔の前にかざした。指の隙間から、黄金色の光が彼女の白い肌を透過していく。
その光の強さに、彼女の目から自然と涙が溢れ出た。
しかし、それは脳内チップのエラーがもたらした痛みによるものではなかった。ただ、世界の美しさに、彼女の『心』が初めて震えた証だった。
「ハルト……これ、が……」
「ああ。本物の太陽だ、レティ。組織のホログラムじゃない。お前が、お前自身の力で勝ち取った、本物の世界だ」
ハルトは涙を流しながら、優しく微笑んだ。レティはゆっくりと上体を起こし、自らの周囲を見回した。
ドームの下には、自分たちが今まで生きてきた、汚染された巨大な都市の群れが、まるで小さなおもちゃのように遥か遠くに見えている。
自分たちは、あの地獄のような揺り籠から、本当に抜け出したのだ。彼女は、自らの胸元に手を当てた。
そこには、もう「お兄ちゃん」からのメッセージを表示するホロ・タグはない。頭の中にあった、燃える廃墟の記憶も、今ではただの、古い映画のワンシーンのように遠く、質感を持たないものになっていた。
(お兄ちゃん……さようなら)
レティは心の中で、組織が作った優しくて切ない「偽物の家族」に、本当の別れを告げた。
悲しくはなかった。不思議なほど、彼女の心は穏やかだった。
彼女は、隣でボロボロになりながらも、自分を見守ってくれているハルトの顔を見た。
無精髭に、血と油で汚れた顔。お世辞にも「美しい物語」の登場人物のようには見えない、泥臭い一人の男。
だけど、彼の手の温もりは、今もレティの手のひらに、確かに残っている。
「ハルト。私……中身は、まだ空っぽのままだよ」
レティは、静かに言った。
「お兄ちゃんがいなくなって、私が何のために戦うのか、これからどこへ行けばいいのか、まだ全然わからない。私の中には、何もないの」
ハルトは彼女の手を、さらに強く握り締め返した。
「それでいいんだ、レティ。何もなくていい。これから、時間をかけて、お前が好きなものを一つずつ見つけていけばいいんだ。美味しい食べ物でも、綺麗な服でも、何でもいい。お前が『これがいい』って思ったものが、お前の本物の記憶になっていく」
ハルトは真っ直ぐに、彼女のペールブルーの瞳を見つめた。
「俺も、お前の隣にいる。お前が自分の『物語』を新しく書き換えていくのを、ずっと手伝わせてくれ。……それが、俺のこれからの生きる意味だ」
レティはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、これまでの人生のどれよりも、深く、温かい何かで満たされていくのを感じた。
それは組織のプログラムが計算した感情ではない。今、この本物の世界で、自分が自らの意志で選び取った、ハルトへの絶対的な信頼と、愛着という名の感情だった。
「うん」
レティは、小さく頷いた。そして、彼女の唇が、自然と綺麗な弧を描いた。偽りの記憶の中でしか笑わなかった少女が、今、本物の太陽の光を浴びて、初めて自らの意志で、心から微笑んだ瞬間だった。
「ハルト。私、お腹が空いた。本物のご飯が、食べてみたい」
「ああ、いくらでも奢ってやるさ。まずは、このうるさい都市から一番遠い街へ行こう」
ハルトはよろめきながらも立ち上がり、レティに手を差し伸べた。
レティはその手をしっかりと掴み、自らの足で、力強く大地へと立ち上がった。彼女の右太ももと胸の傷はまだ痛むけれど、その一歩一歩には、もう誰の命令も介在していなかった。
少女は、自らの指先をそっと引き金の形に丸め、それを青い空へと向けて小さく跳ね上げた。
彼女がこれから引く「私の引き金」は、もう誰かの命を奪うためのものではない。自分たちの未来を、新しく創り出していくための、自由の合図だ。
二人は、昇りゆく太陽の光の中へ向かって、ゆっくりと歩き始めた。
背後にある偽りの揺り籠は、完全に壊れ、彼らの前には、どこまでも白く、そして無限の可能性に満ちた、本物の世界が広がっていた。




