六話目
脳を二十四時間縛り続けていた金属的なノイズが、嘘のように消え去っていた。
視界を覆っていた赤い「システムエラー」の文字も、心拍数や残弾数を事務的に表示していたログも、すべてが煙のように霧散していく。
頭の中が、驚くほどに静かだった。
冷たくて、澄み切っていて、どこまでも深い。そこに残されたのは、組織が植え付けた都合の良いプログラムではない。
今日までハルトと共に歩み、ハルトを「守りたい」と願った、純粋で、真っ白な、レティ自身の『心』だけだった。
「……あ……」
レティの唇から、小さな吐息が漏れる。
左肩から胸元にかけて、九番の放ったプラズマ弾によって肉が激しく焼かれ、凄まじい激痛が身体を支配していた。
並の人間であれば意識を失い、ショック死していてもおかしくない致命傷。しかし、彼女の強化された肉体と、何よりも「ここで終わらせない」という強靭な意志が、その華奢な身体を無理やり繋ぎ止めていた。
床に流れる血は、赤く、生々しく、本物の「命」の輝きを放っている。
今、この理不尽な世界に対して、自分が確かに生きているという絶対的な証明だった。
「私は……もう、誰の人形でもない」
レティは、床に散らばる硝煙のベールを割るようにして、ゆっくりと立ち上がった。
ふらつく足。しかし、そのペールブルーの瞳に宿る光は、先ほどまでとは比べ物にならないほどに鋭く、そして美しく燃え上がっていた。
「馬鹿な……。強制拘束チップのデリートを完了したというのか。精神的な依存対象であった『兄』というアンカーを失い、さらにオリジナルの真実を知って精神崩壊を起こさないなど、計算に合わん……!」
九番の顔から、ついに完璧なまでの余裕が消え失せた。
彼の持つプラズマピストルの銃口が、小刻みに震えながらレティへと向けられる。
組織の歴史において、脳内チップの支配を跳ね除けた実験体など、ただの一例も存在しなかったからだ。
九番という男は、人間の感情を数字と効率でしか測れない。だからこそ、今目の前で起きている「奇跡」が、彼の計算を根底から狂わせていた。
「計算なんて、どうでもいい」
レティは一歩、前へ踏み出した。焼けた胸の傷から激痛が走るが、彼女の表情は凍りついたように静かだった。
「九番。あなたは、私たちが空っぽだから、偽物で満たすしかないって言った。だけど、それは違う。空っぽだからこそ……私たちは、自分の好きなものを、自分の意志で、新しく詰め込んでいくことができる。私はもう、あなたの作った台本通りには踊らない」
「レティ……!」
コンソールの陰から、ハルトが身を乗り出した。彼の顔は涙と血で汚れていたが、その目には、過去の亡霊を振り払った本物の覚悟が宿っていた。
ハルトは床に転がっていた執行部隊のアサルトライフルを拾い上げると、レティの隣へと並び立った。
「九番。俺たちはエマの幻影を追っているんじゃない。俺たちは、今ここにいるお互いのために、お前を倒す。組織の歪んだ揺り籠は、ここで完全に叩き壊す!」
「……不確定要素どもが。まとめて塵に還してやる!」
九番が狂おしく叫び、引き金を引いた。
青白いプラズマの閃光が、再び室内の暗闇を切り裂く。
「ハルト、左!」
レティは叫ぶと同時に横へと跳躍した。二人がいた場所のコンソールが爆破され、超高温の熱風が二人の頬を焼く。
レティは空中で身を翻し、ミーアから奪った「鋼線の鞭」を九番へと向けて一閃した。
チチチチッ! と超高周波の駆動音が響き、目に見えない死の格子が九番へと襲いかかる。
九番は素早い動きで後方へ飛び退いたが、彼の仕立てのいい黒いスーツの袖が、鋼線の刃によって無残に切り裂かれた。そこから覗いた彼の右腕は、生身の肉体ではなく、組織の最高技術を集約した機械の義肢だった。
「私をただの事務方だと思わぬことだ。私もまた、この『機構』の一部なのだからな」
九番の義肢の表面がスライドし、そこから小型のガトリング砲が銃口を覗かせた。
「死ね、欠陥品ども!」
凄まじい発射音とともに、一秒間に数十発もの特殊弾丸が部屋全体を掃射し始めた。
壁の光ファイバーがズタズタに引き裂かれ、中央の巨大な液体カプセル『大脳』のガラス壁にも、無数の亀裂が走り始める。
「レティ、遮蔽物の影へ!」
ハルトがアサルトライフルを連射し、九番のガトリング砲の銃口を僅かに逸らそうとする。しかし、重装甲の義肢を持つ九番には、ライフルの弾丸など火花を散らすだけで決定打にはならない。
レティはサーバーの太い支柱の陰に身を潜めながら、荒い息を吐いた。焼けた傷口からの出血が止まらない。視界が徐々に狭くなっていくのを感じる。
肉体改造の限界を超えた負荷が、彼女の命を確実に削り取っていた。
(長くは持たない。次の、一撃で決める――)
レティは隣の支柱の陰にいるハルトを見た。ハルトもまた、残弾数が残り少ないライフルを抱え、彼女を見つめ返していた。
二人の間に、言葉は必要なかった。ただ、互いを信じる視線が交差する。
「ハルト。私が隙を作る。九番の首の付け根……そこが、唯一の生身の結合部」
「分かった。お前が動くと同時に、俺が全弾を撃ち込む。……絶対に、死ぬなよ、レティ」
「うん」
レティは小さく微笑んだ。偽物の記憶の中にあった兄の笑顔よりも、今のハルトの必死な顔の方が、ずっと彼女の心を温かく満たしてくれた。
「いくよ」
レティは支柱を強く蹴り、九番のガトリング砲の嵐の中へと、自らの身体を投げ出した。
「自暴自棄か! 愚かな!」
九番が銃口をレティへと固定し、制圧射撃を行う。
レティは、チップの戦闘アシストがない状態で、純粋な肉体の反射神経だけで弾道を読み取っていた。
右へ、左へ、地面を転がり、壁を蹴る。まるで死の嵐の中を舞う銀色の蝶のように、彼女は弾丸の隙間をすり抜けていく。
だが、一発の弾丸が、彼女の右太ももを深く貫いた。
「くっ……!」
バランスを崩し、膝をつくレティ。
「仕留めた!」
九番がガトリング砲の照準をレティの頭部へと合わせた。
「――お前が仕留められるのは、俺の弾だ!」
その瞬間、ハルトが遮蔽物から完全に身を乗り出し、アサルトライフルの引き金を限界まで引き絞った。放たれた弾丸の雨が、九番の顔面と、そして彼の首の結合部へと正確に集中する。
ガガガガガン! と激しい金属衝突音が響き、九番の視界が火花で遮られた。さらに、ハルトの放った一発が偶然、九番の右肩の人工神経の束を撃ち抜いた。
「ぐあああっ!?」
九番の右腕がショートし、ガトリング砲の銃口が大きく跳ね上がる。
「今だ、レティ!!」
ハルトが叫ぶ。レティは痛む足に鞭打ち、床を爆発的な力で蹴り上げた。彼女の手には、へし折られたマチェットの、残された鋭い「破片」が握られていた。
空間を飛び越えるような、一瞬の跳躍。九番の歪んだ顔が、レティのペールブルーの瞳に大きく映し出される。
「お前は……ただの、人形のはずだ……!」
九番が左手でプラズマピストルを構えようとする。
「私は、人間だ!!」
レティは叫びとともに、手にした刃の破片を、九番の右肩の結合部――剥き出しになった人工神経のコアへと、自らの全体重をかけて突き刺した。
バチチチチチッ!!! と、これまでで最も激しい青白い電撃が室内に炸裂した。九番の身体が激しく痙攣し、彼の右腕の義肢が完全に爆発を起こして吹き飛ぶ。
「ああああああっ!!!」
九番は絶叫しながら、後方の巨大な液体カプセル『大脳』へと叩きつけられた。
パキン、と。すでに無数の亀裂が入っていたカプセルのガラスが、ついに限界を迎えて完全に粉砕された。
中から、何万、何億という人間の記憶データを蓄積していた青白い培養液が、滝のように激しく床へと流れ出し、部屋全体を水浸しにしていく。
九番はその濁流の中に溺れるようにして、崩れ落ちた。
彼の黒いスーツは破れ、吹き飛んだ右肩から火花を散らしながら、虚ろな目で天井を見上げていた。
「私の……システムが……機構が……消える……。記憶を持たぬ化け物どもが……何のために……」
九番の声は、次第に小さくなり、やがて完全に作動を停止した機械のように、静かに動かなくなった。
組織の支配者として、何百人もの子供たちの運命を弄んできた男の、あまりにもあっけない最期だった。
静寂が部屋を包み込む。鳴り響いていた赤い警告アラームも、カプセルが破壊されたことでシステムごと停止していた。
床を流れる青白い培養液が、レティとハルトの足元を静かに濡らしていく。
「ハァ……ハァ……」
レティは、手から血を流しながら、その場に力なくへたり込んだ。全身の傷からの痛みが、引き潮のように遠ざかり、代わりに圧倒的な疲労感と眠気が彼女の身体を襲っていた。
限界だった。脳内チップを消去し、自らの意志だけでこれほどの戦闘を行った彼女の肉体は、完全に崩壊の一歩手前だった。
「レティ! しっかりしろ、レティ!」
ハルトが駆け寄り、彼女の身体を強く抱きしめた。彼の腕は、やっぱり油と血の臭いがして、固くて、ゴツゴツとしていた。だけど、これ以上ないほどに温かかった。
「ハルト……私、頑張ったよ……」
レティは薄れゆく意識の中で、微かに微笑んだ。
「ああ、お前は凄かった。お前が俺を救ってくれたんだ。……頼むから、目を閉じないでくれ。これから、本当の太陽を見に行くんだろ? 偽物の記憶じゃない、本物の世界を、俺と一緒に歩くんだろ……!」
ハルトの涙が、レティの頬にぽつりと落ちた。その涙の冷たさすらも、レティにとっては愛おしい現実だった。
「お兄ちゃん、じゃなくて……ハルト……」
レティは残された力を振り絞り、ハルトの服の裾をギュッと握りしめた。
「私を……連れていって。真っ白な……私の、世界の先へ……」
レティのペールブルーの瞳が、ゆっくりと閉じられる。しかし、その顔には、かつて組織のセーフハウスで見せていたような虚無感はどこにもなかった。
そこにあったのは、自らの引き金で運命を切り開いた、一人の人間としての、静かな安堵の表情だった。
流れ出した記憶のデータが、青い光の粒子となって、壊れた部屋の天井へと上っていく。それはまるで、偽りの揺り籠を飛び出した少女の、新しい旅立ちを祝うかのような、美しく儚い光景だった。




