四話目
第九層区の酸性雨が届かない遥か上空。第一層区――通称「天空都市」。
そこは汚染された地上を遥か見下ろす、文字通りの特権階級の楽園だった。
大気清浄機によって管理された空気はどこまでも澄み渡り、ホログラムではない本物の植栽が街路を彩っている。
街を行き交う人々は一様に洗練された衣服を身にまとい、その表情には飢えも恐怖も存在しない。
だが、その美しい街並みの地下には、都市のインフラを維持するための、血管のように複雑に張り巡らされた「維持回廊」が存在していた。
「――ハァ、ハァ……っ」
薄暗い排気ダクトの金属床を、ハルトが這うようにして進んでいた。第七層区での負傷が完全に癒えていない彼の身体にとって、この強行軍は過酷そのものだった。
衣服は汗と油で汚れ、かつての技術者としての面影はどこにもない。その後ろを、レティが音もなく続いていた。
彼女のペールブルーの瞳は、数日前とは明らかに異なっていた。以前の、ただ命令に従うだけの死んだ魚のような目ではない。そこには、自らの意志でここにいるという、冷徹なまでの覚悟の光が宿っていた。
「ハルト、大丈夫?」
「ああ……なんとか、な。このダクトを抜ければ、中央制御サーバー『大脳』の直上に出る。そこに俺のバックドアを繋げば、お前の脳内チップの強制プログラムを書き換えられるはずだ」
ハルトはダクトの格子から、下の様子を覗き込んだ。
そこは、巨大な円筒形の部屋だった。
壁面全体が明滅する何万もの光ファイバーで埋め尽くされ、中央には青白く発光する巨大な液体カプセルが鎮座している。それこそが、都市のすべての情報と、組織の実験体たちの記憶を管理するコアだった。
「誰も……いない?」
レティが周囲を警戒しながら呟く。
「いや、おかしい。いくら何でも警備が手薄すぎる……」
ハルトが不穏な空気を感じ取った、その瞬間だった。ダクトの格子が、下から凄まじい力で突き破られた。
「――ッ!?」
レティは瞬時にハルトの襟首を掴み、後ろへと跳躍した。
直後、彼らがいた場所を、一本の細い「鋼線の鞭」が激しく切り裂いた。
金属のダクトがバターのように容易に切断され、破片が火花を散らして飛び散る。
「あはは! やっぱりここに来たんだね、お姉ちゃん!」
下から響いたのは、鈴を転がすような、しかし狂気を孕んだ少女の声だった。
レティとハルトは、破壊されたダクトから下のキャットウォークへと飛び降りた。
そこに立っていたのは、レティと酷似した銀色の髪を持つ、さらに幼い少女だった。
年齢は十一、二歳ほど。手には、超高分子で編まれた鈍く光る鋼線の柄を握っている。
彼女の衣服には、組織の特級処分執行官を示す『03』の刻印があった。
「ミーア……」
レティの唇から、その名前が漏れた。
ミーア。
レティと同じ培養槽から、わずかに異なる遺伝子調整を受けて生まれた「妹」にあたるクローン体。
かつて組織の訓練施設で、共に戦い方を学んだ数少ない同胞だった。
「九番が言ってたよ。104号お姉ちゃんは、バグっちゃったんだって。せっかく組織が『病気の優しいお兄ちゃん』っていう、素敵な物語をプレゼントしてくれたのに、それを自分で壊しちゃうなんて、本当にバカだよね」
ミーアは無邪気に笑いながら、鋼線の鞭を床に這わせた。チチチ……と、高周波の駆動音が狭い部屋に響く。
「ミーア、あなたも騙されている。お兄ちゃんなんて、最初からいない。私たちは……最初から空っぽのクローンなんだよ!」
レティはマチェットを構え、叫んだ。
「知ってるよ?」
ミーアは小首をかしげて、何でもないことのように言った。
「そんなの、知ってるに決まってるじゃん。私のお兄ちゃんも、私のために毎月手紙をくれる優しいお父さんも、全部、この『大脳』が作ったデータだよ」
レティの身体が、衝撃でわずかに凍りついた。
「知っていて……どうして、組織に従うの?」
「だって、お姉ちゃん。私たちは空っぽなんだよ? もともと何も持たずに、暗殺の道具として作られた化け物なんだよ? だったら……偽物でもいいじゃん。優しくて、私を愛してくれて、私のために泣いてくれる家族の記憶が、この頭の中にあるだけで、私は幸せなんだよ! それを奪うっていうなら……私はお姉ちゃんでも殺す!」
ミーアの瞳が、歪んだ狂気と、そして圧倒的な悲しみで満たされた。
彼女もまた、現実の冷酷さに耐えかね、組織の与えた「美しい偽物」にしがみつくことでしか、自らの存在を保てない壊れた人形だったのだ。
「レティ、来るぞ!」
ハルトの叫びと同時に、ミーアの身体が弾かれたように動いた。
目にも留まらぬ速さで繰り出される、鋼線の鞭。空間を縦横無尽に切り裂く死の格子が、レティに襲いかかる。
レティは肉体限界の速度でバックステップを踏み、刃で鋼線を受け流そうとした。しかし、高周波の鋼線はマチェットの刃を激しく削り、火花がレティの頬をかすめて血を滲ませる。
「あははは! 鈍いよ、お姉ちゃん! 迷いがあるんじゃないの!?」
ミーアの攻撃は苛烈を極めた。クローンとしての戦闘才能は互角。だが、自らの「空白」を埋めるために偽物を盲信するミーアの執念は、迷いを捨てきれないレティを圧倒していた。
ガキィン! と激しい金属音が響き、レティのマチェットが半ばからへし折られた。
体制を崩したレティの胸元へ、ミーアの鋼線が肉薄する。
(これまで、なの……?)
レティの脳裏に、かつて何度も見た「偽りの記憶」が、ノイズ混じりに再生されようとした。――諦めるな、レティ。
「――動くな、ミーア!」
その時、銃声が響いた。ハルトが、床に落ちていた警備兵の拳銃を拾い、ミーアに向けて発砲したのだ。
弾丸はミーアの肩を掠め、彼女の攻撃の軌道をわずかに逸らした。
鋼線はレティの肩の肉を浅く切り裂くに留まった。
「チッ、うるさい虫が……!」
ミーアは冷たい視線をハルトへと向け、鋼線の矛先を彼に変えようとした。
「ハルトに、触るな!!」
レティが叫んだ。その瞬間、彼女の脳内の「空白」に、強烈な何かが満ちていくのを感じた。それは、組織に与えられた美しい絵空事ではない。自分を助けるために血を流し、今も命をかけて自分を守ろうとしてくれている、目の前の男の存在。
「お兄ちゃん」という名前のデータではない。ハルトという、泥臭くて、不器用で、だけど確かに今ここにいる本物の人間。
(私はもう、空っぽじゃない)
私の心には今、この人を守りたいという私だけの本物の感情がある。
レティは折れたマチェットを捨て、床を強く蹴った。ミーアが振り向くよりも早く、彼女の懐へと潜り込む。
超至近距離。鋼線の鞭が機能しない間合い。
「――っ!?」
ミーアの目が驚愕に見開かれる。レティは自らの拳を、ミーアの腹部へと正確に叩き込んだ。組織の調整によって極限まで高められた打撃力が、ミーアの身体を吹き飛ばし、彼女は壁のコントロールパネルへと激しく激突した。
火花が散り、ミーアの手から鋼線が滑り落ちる。彼女は床に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
レティは動けなくなったミーアを見下ろし、静かに、しかし毅然とした声で言った。
「ミーア。偽物の温もりは、どんなに綺麗でも、私たちを救ってはくれない。私は……寒くても、痛くても、本物の世界で生きていく」
ミーアは悔しそうに歯を食いしばり、涙を流しながらレティを睨みつけた。
「お姉ちゃん……バカだよ。これからもっと、苦しいだけなのに……」
「それでも、いい」
レティはハルトの元へと駆け寄り、彼の肩を支えた。
「ハルト、急ごう。サーバーは目の前だ」
「ああ……よくやった、レティ。お前はもう、ただの人形じゃない」
ハルトは血を拭いながら微笑み、中央の巨大なカプセル――『大脳』の制御コンソールへと向かった。
彼の指先が、目まぐるしい速さでキーボードを叩き始める。
カプセルの青白い光が、二人の身体を妖しく照らし出す。ついに、組織の心臓部へと到達した。
しかし、彼らの侵入を知らせるアラームが、都市の地下に鳴り響き始めていた。




