三話目
工場の外で、何台もの大型車両が急ブレーキを踏む音が不気味に響き渡った。
酸性雨を切り裂くように、赤と青の強烈なパトライトの光が、錆びついたシャッターの隙間から差し込んでくる。
組織『機構』の回収班――レティもよく知る、感情を持たない即応抹殺部隊が到着したのだ。
「クソッ、嗅ぎ回られるのが早すぎる……!」
ハルトは血の混じった唾を吐き捨てると、よろめきながらも壁から身を起こした。彼のゴツゴツとした、油に汚れた手がレティの華奢な肩を掴む。その手から伝わる確かな熱が、脳内のノイズに狂いそうになっていたレティの意識を、かろうじて現実の引き戻した。
「立て、レティ! ここにいたら数分でハチの巣だ!」
「私は……クローン……?」
レティは虚ろな目で、自分の小さな手のひらを見つめていた。ハルトが突きつけた真実は、彼女の頭を激しく殴りつけたようだった。
――お前は物心がつく前から、組織の地下にある培養槽で育てられたクローンだ。脳の神経細胞が繋がったその瞬間から、お前の中には何もない。『真っ白な空白』だったんだ。だから組織は、お前を都合のいい殺人マシンにするために、都合のいい『動機』をその空白に書き込んだ。お前が覚えている兄の温もりも、燃える廃墟も、最初から存在しないんだよ。
「何もない……? 私の、中には……?」
『レティ! 応答しろ! ターゲットの処分はまだか!』
インカムから聞こえる九番の声が、今のレティには完全に「飼い主が家畜を急かす声」にしか聞こえなかった。
すべてが嘘。過酷な肉体改造の激痛に耐えたのも、冷たい雨の中で引き金を引き続けたのも、画面の向こうで微笑む「お兄ちゃん」のためだった。
そのお兄ちゃんが、ただの電子データで、自分の脳の空白を埋めるためのプログラムに過ぎなかったとしたら。
「――作戦コード『未達』。これより、被検体104号およびターゲットの強制処分に移行する」
インカムの向こうの九番の声が、事務的なトーンに切り替わった。
次の瞬間、激しい爆破音とともに、工場の重い鉄製シャッターが吹き飛んだ。
「避けろ!」
ハルトがレティの身体を突き飛ばし、自身もサーバーラックの陰に身を隠す。
シャッターの煙の向こうから現れたのは、全身を光学迷彩の装甲服で包んだ、顔の見えない兵士たち――回収班だ。
彼らは一切の警告なしに、手にしたアサルトライフルを容赦なく掃射してきた。
激しい銃撃音が狭い工場内に反響する。
バラバラと鉄の破片や火花が飛び散り、レティのすぐ隣にあったジャンクの山が蜂の巣になっていく。
(死ぬ……?)
レティは動けなかった。いつもなら、銃声が響いた瞬間に身体が最適な回避行動をとり、反撃の弾道を計算しているはずだった。
しかし今の彼女の脳内は、「空白」という底なしの沼に足を取られたように、完全に機能停止していた。
生きる意味を失った身体は、ただの肉の塊に過ぎなかった。
「おい、しっかりしろ! 生きるのを諦めるな!」
ハルトが、飛び散る破片からレティを庇うように覆いかぶさった。彼の背中に、跳ね返った弾丸の破片が突き刺さり、肉の焦げる嫌な臭いと、生々しい血の匂いが漂う。
「う、ぐ……っ!」
ハルトの苦悶の表情。その時、レティの目に、彼の背中から流れ落ちる赤い「血」が映った。
それは、組織の実験室で見せられる人工血液のデータではない。今、目の前で、自分を庇って流されている、本物の、生きた人間の血だ。
「ハルト……どうして……?」
レティの唇が小さく動いた。
「お前を……真っ白なまま、ただの人形として死なせたくないからだ……っ! 組織の作った偽物のために死ぬな! 生きて、自分の本当の記憶を……今日からの時間を、刻むんだよ!」
ハルトは叫びながら、懐から小型の電磁パルス(EMP)手榴弾を取り出し、回収班の足元へと投げつけた。
パチチッ! と青白い電光が走り、工場内のすべての電子機器が悲鳴を上げてショートした。
回収班の光学迷彩が強制解除され、彼らのバイザーの暗視機能が遮断される。
ほんの数秒間の、完全な暗闇と混乱。
「走れ!!」
ハルトがレティの手を強く引いた。その瞬間、レティの身体に組み込まれた戦闘本能が、主人の意思を超えて無理やり起動した。
彼女は床に転がっていた高周波マチェットを瞬時に拾い上げると、暗闇の中、ハルトを先導するように地を蹴った。
「そこだ」
レティは一歩で肉薄すると、迷彩の解けた兵士の銃身をマチェットで切り落とし、その顎へと鋭い蹴りを見舞った。
激しい衝撃音とともに兵士が崩れ落ちる。
「ハルト、こっち!」
裏口の古いハッチをマチェットで強引にこじ開け、二人は激しい雨が叩きつけるスクラップ街の路地へと飛び出した。
背後からは、なおもライトを照射しながら追ってくる兵士たちの足音が聞こえる。
「ハァ、ハァ……こっちだ、地下の旧排水路へ逃げ込む……!」
ハルトは脇腹を押さえ、血を流しながらも必死に走った。レティは彼の少し後ろを走りながら、時折振り返っては、追手の放つ銃弾を紙一重でかわし続けた。
頭痛はまだ続いていた。脳内のチップが「命令違反」を検知し、自爆シークエンスの一歩手前である精神拘束プログラムを走らせようとしているのだ。それでも、レティの足は止まらなかった。
自分の中は「空白」だ。お兄ちゃんはいない。守るべき家族も、帰るべき家もない。けれど――今、自分の手を握って、血を流しながら走っているこの男の温もりだけは、今この瞬間に生まれた「本物」だった。
二人は、鉄格子のはまった古い排水口へと飛び込んだ。ハルトが事前に細工をしていたのか、格子は簡単に外れた。
ドロドロとした濁流の音が響く暗渠の中へと、二人の影は吸い込まれるように消えていった。
数時間後。第七層区のさらに下、人の立ち入らない廃棄地下施設の奥深く。埃っぽいコンクリートの部屋で、ハルトは壁に背を預けて荒い息を吐いていた。
彼の応急処置はレティが行った。組織で叩き込まれた、戦傷治療の技術だ。
ピンセットで破片を抜き、止血剤を注入する間、レティは一言も喋らなかった。
部屋の隅、わずかに差し込む街の漏れ光の中で、レティは膝を抱えて座っていた。アサルトスーツは雨と泥で汚れ、銀髪は生気を失って額に張り付いている。
「……すまないな」
ハルトが静かに口を開いた。
「お前が大事にしていたものを、俺が全部壊しちまった」
レティはゆっくりと首を振った。
「壊したんじゃない。もともと……なかった。私の中は、最初から、空っぽだった」
彼女の声は、どこまでも平坦で、だからこそ深い絶望を孕んでいた。
「私は、培養槽から生まれたクローン。親もいない。お兄ちゃんも、いない。私は、何のために生まれてきたの?」
ハルトは痛む身体をさすりながら、レティを見つめた。
「組織はな、お前のその『圧倒的な戦闘才能』だけを求めて、優秀な兵士の遺伝子からお前を作ったんだ。だけど、どれだけ肉体を強化しても、自我が芽生えた兵士は『戦う理由』がないと動かない。だから、お前の脳が完成した瞬間に、俺たちが用意した『偽の記憶』をインストールした」
ハルトの目に、深い悔恨の念が浮かぶ。
「お前だけじゃない。多くの子供たちが、そうやって作られ、都合のいい物語を与えられて使い捨てられた。俺は……そのシステムを作った人間の一人だ。だから、お前に真実を伝える義務があった。組織を裏切ってでも、お前をあの『偽りの揺り籠』から引っ張り出さなきゃいけなかったんだ」
レティは胸のポケットから、先ほど九番から渡されたホロ・タグを取り出した。
起動スイッチを押すと、やはりあの白い部屋で、優しい兄が微笑んでいる。
『やあ、レティ。今日も僕のために頑張ってくれたんだね』
さっきまでは、胸を締め付けるほど愛おしかったその声が、今はただの、冷たい合成音声の羅列にしか聞こえなかった。よく見れば、兄の目の動きは不自然に左右へ揺れており、背景の白い壁の影の付き方も、レンダリングの甘い3Dモデルのようだった。
どうして今まで、これに気づかなかったのだろう。否、気づきたくなかったのだ。これがないと、自分は人殺しの化け物になってしまうから。
パキッ、と。レティの細い指が、ホロ・タグを力任せに握りつぶした。青い光の破片が空気中に飛び散り、すぐに消えた。
彼女の「お兄ちゃん」は、これで本当に世界から消滅した。
「私は……これから、どうすればいいの?」
ペールブルーの瞳から、光が完全に消え失せる。戦う理由を失った暗殺者は、ただの、生きる術を持たない十四歳の少女だった。
「これからは、お前が自分で決めるんだ」
ハルトは立ち上がり、レティの前で片膝をついた。そして、彼女の小さな、血に汚れた手を再び握った。
「俺の脳内には、組織の記憶操作サーバーへのバックドア(裏口)のコードが眠っている。そこへアクセスすれば、お前の中にある『命令チップ』を完全に無効化し、本当の意味で自由になれる。だけど、そのためには第一層区にある組織の中枢『大脳』に潜入しなきゃならない」
ハルトは真っ直ぐにレティを見た。
「命がけの旅になる。組織は全力でお前を殺しに来るだろう。……どうする、レティ。このままここで静かに朽ちていくか、それとも、俺と一緒に『本当の自分』を掴み取りに行くか」
レティは、ハルトの手の温もりを感じていた。
組織に作られ、偽物で満たされていた彼女の人生の中で、この男の手だけが、唯一の質感を持っていた。
クローンだから、もともと何も持っていない。なら――今ここから、新しく始めればいい。レティの瞳の奥に、凍てつくような、しかし決して消えない小さな青い炎が、ぽつりと灯った。
「いく。私を、作られた人形のままで終わらせない」
彼女は、マチェットの柄を強く握り直した。偽りの揺り籠を飛び出した少女の、本当の戦いが、今ここからはじまる。




