二話目
酸性雨は夜になっても止む気配を見せず、むしろ勢いを増していた。
第七層区――通称「スクラップ街」。上層区から廃棄された巨大な機械の残骸や、出所不明の産業廃棄物が不法に投棄され、さながら鉄の墓場と化したエリアだ。
ヘドロの浮いた水溜まりがネオンの残光を鈍く反射し、重金属の混ざった風が錆びたトタン屋根をガタガタと揺らしている。
レティは、動力を失った大型クレーンのアームの上にしゃがみ込んでいた。
気配を完全に消し、雨の音と一体化する。
彼女の視線の先には、ジャンク品を商う薄暗い解体工場があった。
(あそこに、ハルトがいる)
インカムから九番の冷徹な声が届く。
『レティ、ターゲットのバイオサインを確認した。工場奥の居住スペースだ。今回は狙撃ではない。対象は組織のセキュリティコードを書き換える能力を持っている。近接戦闘で確実に息の根を止めろ。データの回収は不要だ、脳を物理的に破壊しろ』
「了解」
レティは短く応じると、アームから音もなく飛び降りた。地上十数メートルの高さからアスファルトへ。しかし、彼女の強化された膝と足首の関節は、一切の着地音を立てずに衝撃を吸収した。
彼女は背中から、一振りのタクティカル・マチェット(大型戦闘ナイフ)を抜いた。
高周波振動によって、触れるものすべてを分子レベルで切断する、組織の特級兵器だ。
鈍く黒光りする刃が、闇の中でかすかに震えている。
工場の錆びたシャッターの隙間から、滑り込むようにして内部へ潜入する。
中は油と鉄の匂いが充満していた。分解されたサイボーグの義肢や、旧型のサーバーラックが乱雑に積み上げられている。
奥の部屋から、かすかな明かりが漏れていた。
レティは猫のように足音を消し、壁づたいに近づく。心拍数は「四十八」。完璧な平時だ。これを終えれば、お兄ちゃんに会える。その純粋な希望だけが、彼女の身体を最高効率の殺人マシンへと変えていた。
ドアの隙間から中を覗く。背を向け、古い電子回路の束をハンダ付けしている男がいた。
無精髭に、ぼさぼさの髪。支給された資料にあった通りの男――ハルトだ。
(今だ)
レティは音もなく踏み込み、ハルトの背後からその首筋を目がけてマチェットを振り下ろした。
空気を切り裂く微かな風切り音。
だが、次の瞬間、ガキィン! と激しい金属音が工場内に響き渡った。
「――チッ、やっぱり来たか、『機構』の猟犬が!」
ハルトは振り返りもせず、背中に背負っていた無骨な大型のレンチで、レティの刃を正確に受け止めていた。
驚くべき反応速度だった。彼はただの技術者ではない。組織の生体改造技術を、自らの肉体にも施しているのだ。
ハルトは力任せにレンチを押し返し、レティとの距離を取った。火花が散り、二人は薄暗い部屋の中で対峙する。
ハルトはレティの姿を正面から捉えた瞬間、その目を見開いた。
「お前……その銀髪に、ペールブルーの瞳。まさか、第零世代の生き残り……『被検体104号』か!?」
レティはその言葉を無視した。
自分を呼ぶ奇妙な記号など、彼女には何の意味も持たない。
「ハルト。あなたは組織の裏切り者。排除する」
「待て! お前、自分が誰だか分かっていないのか!? 組織に何を吹き込まれた!」
「私はレティ。お兄ちゃんを救うために、あなたを殺す」
レティは再び地を蹴った。
今度は直線的な動きではない。壁を蹴り、天井のパイプを掴んで、変則的な軌道でハルトの死角へと回り込む。
マチェットがハルトの肩口を掠め、火花と共に防弾仕様のコートが裂けた。
「くそっ、相変わらずイカれた戦闘機動だ!」
ハルトはコートを脱ぎ捨てながら、懐から旧式の大型拳銃を抜き放ち、至近距離から連射した。
ドォン! ドォン! と重低音が狭い部屋に炸裂する。
レティは紙一重で弾道を読み、身体を捻ってすべてを回避した。
避けると同時に、ハルトの懐へと潜り込み、その手首を狙って刃を突き出す。
ハルトは拳銃を捨て、レティの手首を掴みにかかった。
二人の肉体が激しくぶつかり合う。肉体改造を施されたハルトの筋力は凄まじかったが、レティの身体はそれを上回る「最適化」がなされていた。
レティの膝蹴りがハルトの腹部にめり込み、ハルトはうめき声を上げて壁に叩きつけられた。
勝負は決した。ハルトは壁に背を預けたまま、がふっと血を吐き出した。
レティは冷徹に歩み寄り、ハルトの眉間にマチェットの切っ先を突きつけた。
「終わり」
レティが力を込めようとした、その時。ハルトは血に染まった顔で、自嘲気味に笑った。
「ハハ……『お兄ちゃん』、だって? お前、まだあのロクでもない偽物を信じているのか」
レティの手が、わずかに止まった。
「……何、それ」
「お前に、兄貴なんていやしないさ。お前が毎日思い出して、そいつのために血を流している『優しいお兄ちゃん』はな……俺が、この手でプログラムした『偽物の記憶』だ」
その言葉が耳に入った瞬間。レティの脳の奥深くで、すさまじい激痛が走った。
「――あ、う、あ」
視界が真っ赤に染まる。耳の奥で、キィィィィンという、これまでにないほど狂おしい高音の金属ノイズが鳴り響いた。
心拍数が一気に「百四十」まで跳ね上がる。
「嘘……お兄ちゃんはいる。私を、助けてくれた……瓦礫から……」
「そいつは、お前を組織の戦闘用サイボーグとして都合よくコントロールするために、俺たちが作った『動機』だ! 家族のために戦う健気な少女、美しい物語だろう? だが全部嘘だ! お前は物心がつく前から組織の培養槽で育てられた、ただのクローンだ!」
「黙れ!!」
レティは叫んだ。彼女がこれほど大きな声を狂おしく張り上げたのは、生まれて初めてだった。
怒りと、脳を掻きむしられるような激痛。
マチェットをハルトの喉元へ突き刺そうとする。だが、身体が言うことを聞かない。
脳内の神経チップが異常発熱を起こし、視界に「システムエラー」の赤い文字が点滅し始めていた。
ハルトは苦痛に顔を歪めながらも、必死に言葉を続けた。
「信じられないなら……思い出してみろ! お前の『お兄ちゃん』の顔だ! その顔は……数年前、組織の実験で死んだ、全く関係のない別の研究員の顔をベースに合成したものだ。お前、その兄貴と、最後にいつ『直接』触れ合った!?」
「触れ合った……? 私は……」
レティの脳裏に、あの記憶が浮かぶ。燃える廃墟。血を流す兄の、細い腕の温もり。しかし、ハルトの言葉に誘導されるように、その記憶を「深く」覗き込もうとした瞬間。バリバリ、と脳内でガラスが割れるような感覚がした。
(あれ……?)
おかしい。兄の顔が、モザイクがかかったように不鮮明になる。
彼が着ていた服の細部が、まるでロードの間に合わない画像のように、デジタルノイズで砂嵐に変わっていく。
そして何より――。
(お兄ちゃんの、手の温もりって……どんなだっけ……?)
思い出せない。確かに温かかったはずなのに、その「温かさの質感」が、データとしての知識でしか存在しない。
まるで、他人の書いた小説を読んでいるかのような、圧倒的な距離感。
「あ、あああ、あ、あああああッ!!」
レティは頭を抱えて激しく蹲った。
マチェットが手からこぼれ落ち、床に高い音を立てて転がる。
涙がボロボロと溢れ出てきた。感情を失っていたはずの彼女の目から、止めどなく温かい液体が流れ落ちる。
『レティ! 何をしている、早くターゲットを処分しろ!』
インカムから九番の怒鳴り声が聞こえる。その声すらも、今のレティにはひどく遠く、歪んで聞こえた。
『レティ! 応答しろ! 精神汚染コードを検知した。これ以上遅れる場合は、お前の『兄』の生命維持装置を停止するぞ!』
その言葉は、普段ならレティを絶対的な従順へと導く脅し文句だった。しかし、今のレティには、それが決定的な裏付けにしか聞こえなかった。
(どうして……私が言うことを聞かないと、お兄ちゃんを殺すの……?)
(お兄ちゃんは、病気だから……カプセルにいるんじゃ、ないの……?)
すべてが、崩れていく。彼女がこれまで信じてきた世界、流してきた血、胸に抱いていた唯一の温もり。
そのすべてが、冷たい電子の砂で作られた、張り子の虎だった。
「お前を……助けたくて、俺は組織を抜けたんだ」
ハルトが、蹲るレティの肩にそっと手を置いた。その手の平は、お世辞にも優雅とは言えない、油まみれで、固くて、ゴツゴツとした大人の手だった。
しかし――それは、レティがこれまでの人生で一度も触れたことのない、本物の「人間の体温」だった。
「逃げるぞ、104号……いや、レティ」
工場の外から、無数の車の急ブレーキの音が響いた。
組織の追手――回収班が、すでにこの場所を包囲したのだ。激しい頭痛の中、レティは涙に濡れた目を上げ、ハルトの手を見つめた。偽りの揺り籠は、完全に壊れた。
少女は今、地獄のような現実の冷気の中に、放り出されようとしていた。




