硝子の揺り籠 一話目
薄鉄色の雲が低く垂れ込める街、第九層区。酸性雨に侵食された高層ビルの隙間を、ネオンの有害な光が紫や狂おしいピンク色に染め上げている。
ホログラムの巨大な魚が空中を泳ぎ、濡れたアスファルトには、行き場のない労働者や密輸業者の影が這うように動いていた。
その喧騒から遥か頭上。地上百五十メートルにある廃ビルの給水タンクの影に、少女――レティは潜んでいた。
「……吸え」
レティは小さく呟き、細い指先でボルトアクション式狙撃銃のボルトを引いた。金属同士が擦れ合う、冷たくて硬質な音が雨音に消える。
彼女の年齢は十四歳。だが、その身体には年齢に不釣り合いなほどの、静謐で完成された死の気配が纏わりついていた。
体にぴったりとフィットした耐衝撃性の黒いボディスーツ。濡れて張り付いた銀色の髪の間から覗く瞳は、感情を一切映さない、ガラス玉のようなペールブルーだった。
スコープを覗き込む。十字線の中心に捉えているのは、二つ向かいのビルにある高級クラブのVIPルームだ。
防弾ガラスの向こう側で、肥満体の男が数人の私兵に囲まれながら、密造ドラッグの入ったグラスを傾けている。
男の名はバロウ。この区画を取り仕切るマフィアの幹部であり、同時に、レティが所属する『機構』と呼ばれる組織の利権を脅かした「排除対象」だった。
レティの耳に仕込まれた超小型の通信インカムから、ノイズ混じりの男の声が流れる。組織の連絡員である、冷徹な大人の声だ。
『レティ、状況は』
「バロウを捕捉。距離、四百二十メートル。風向、東から西へ微風。修正完了。いつでもいける」
『命令は迅速な処理だ。死体から情報を抜き取る必要はない。脳幹を撃ち抜いて、確実に沈めろ』
「了解」
レティは短く答え、引き金に人差し指をかけた。彼女の心拍数は驚くほど安定していた。一分間に五十回前後。激しい運動の直後であっても、彼女は自らの呼吸と鼓動を完全にコントロールすることができた。組織が彼女の肉体に施した、数々の「調整」の成果だった。
(これを終えれば、今月分の報酬が支払われる)
レティの脳裏に、この冷酷な世界とはおよそ不釣り合いな、温かい光景が浮かぶ。
白いベッド。窓から差し込む、柔らかな木漏れ日。そこで優しく微笑む、自分よりも少し年上の、線の細い青年。
――「よく頑張ったね、レティ。お前がいてくれるから、僕はこうして生きていられるんだ」
それは、彼女の唯一の家族であり、生きる意味そのものである「兄」の姿だった。
兄は重い遺伝子病を患っており、組織が管理する最先端の医療施設でしか生き長らえることができない。
莫大な治療費と、専用の維持カプセルの費用。それを稼ぐために、レティは組織の「猟犬」として、泥に塗れ、血を流し、人の命を奪い続けている。
(待ってて、お兄ちゃん。今、お薬の代金を稼ぐから)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。その温もりだけが、彼女を人間として繋ぎ止めていた。
レティは深く息を吐き出し、肺の空気をすべて空にした。世界から音が消える。
雨粒がゆっくりと落ちていくように感じられるほどの、圧倒的な集中。カチ、と。引き金を引くわずかな感覚。
次の瞬間、消音器を装着された銃口から、超高初速の徹甲弾が放たれた。
弾丸は雨のカーテンを切り裂き、向かいのビルの防弾ガラスを、バターをナイフで切り裂くかのように容易に貫通した。
そして、グラスを掲げようとしていたバロウの脳幹を正確に破壊した。
バロウの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
VIPルーム内がパニックに陥り、私兵たちが武器を手に右往左往し始めるのを、レティはスコープ越しに冷ややかに見届けた。
「任務、完了」
『確認した。見事だ、レティ。速やかに撤退しろ。回収班を向かわせる』
「了解」
レティは淀みない動作で狙撃銃を分解し、背中のアサルトケースに収納した。
雨が彼女の銀髪を濡らし、頬を伝って滴り落ちる。
それはまるで、彼女が殺した男のために流す涙のようにも見えたが、彼女の心は一ミリも動いていなかった。あるのは、今日も兄を救えたという、静かな安堵感だけだった。
第九層区の地下深く。旧時代の地下鉄インフラを改造して作られた、組織『機構』のセーフハウス。
錆びた鉄パイプから蒸気が吹き出し、薄暗い蛍光灯がチカチカと不規則に明滅している。
レティは、自身の肉体メンテナンスを終えた後、支給された粗末なパイプ椅子の一つに腰掛けていた。
彼女の前には、ハンドラーの男が立っている。男は名前を持たず、ただ『九番』と呼ばれていた。
仕立てのいいスーツを着ているが、その目は死んだ魚のように冷たい。
「今回の報酬だ。お前の兄の治療費口座に直接、必要額を振り込んでおいた」
九番が差し出してきたのは、一枚の暗号化されたデータチップだった。
レティはそれを受け取ると、胸のポケットに大切そうに仕舞い込んだ。
「……お兄ちゃんの様子は、どう?」
レティが尋ねる。彼女が自発的に口を開くのは、兄に関する話題の時だけだった。
「安定している。医療チームの報告によれば、新しい人工血液の適合率も良いそうだ。だが、油断はできない。カプセルの維持には、今後も莫大な資金が必要になる」
「わかってる。次の仕事は? 私、すぐにでもいける」
九番は、感情のない目でレティを見下ろした。その視線の奥にある微かな違和感に、レティが気づくことはない。
「焦るな。お前には休養も必要だ。……それから、これがお前の兄からの『手紙』だ」
九番がもう一枚、小さなホロ・タグを差し出す。
レティの瞳に、初めて微かな光が灯った。彼女は奪い取るようにそれを受け取り、タグの起動スイッチを押した。
青白い立体映像が、空気中に浮かび上がる。
そこに映し出されたのは、やはりあの白い部屋だ。
ベッドの上に上体を起こした、病弱だが整った顔立ちの青年が、カメラに向かって優しく微笑んでいた。
『やあ、レティ。今日も僕のために頑張ってくれたんだね。本当にありがとう』
兄の声。少し掠れていて、でも、世界で一番心地よい、鈴を転がすような声。
『そっちの天気はどうだい? 第九層区は、きっと今日も雨だろうね。お前が風邪を引いていないか、それだけが心配だよ。僕の身体のことは気にしないでいい。お前が送ってくれるお薬のおかげで、最近は少しだけ、手足が動くようになったんだ。いつか……この病気が治ったら、二人で本物の太陽を見に行こう。約束だよ、レティ』
映像はそこで途切れた。わずか一分に満たないメッセージ。
しかし、レティにとっては、それがすべてだった。
彼女はホロ・タグを両手で包み込み、自らの胸に強く押し当てた。冷たいプラスチックの感触のはずなのに、そこから兄の体温が伝わってくるような気がした。
「お兄ちゃん……」
レティの脳裏に、古い記憶が蘇る。
まだ組織に拾われる前、燃え盛る廃墟の中で、崩れてきた瓦礫から自分を庇ってくれた兄の背中。
血を流しながらも、「大丈夫だよ、レティ。僕が守るから」と言ってくれた、あの細い腕の温もり。
組織の実験室で、苦しい肉体改造の注射を打たれるたびに、彼女はその温もりを思い出して耐えてきた。
「……レティ。次のターゲットが決まった」
九番の声が、彼女の感傷を切り裂いた。
「今度は少し毛色が変わる。元・組織の技術者で、数ヶ月前に重要機密を持って逃亡した男だ」
九番が操作端末を叩くと、空中に新たな顔写真が表示された。そこに映っていたのは、二十代後半ほどの、無精髭を生やした冴えない男だった。どこか疲れたような、しかし鋭い眼光を持った男。
「名は、ハルト。元・生体情報管理部の主任だ。現在は、第七層区のスクラップ街に潜伏している。お前の肉体特性や、組織の通信プロトコルを知り尽くしている男だ。警戒を怠るな」
「ハルト……」
レティはその名前を口の中で呟いた。なぜだろう。その名前を聞いた瞬間、彼女の頭の奥で、小さくキィンという金属音のような耳鳴りがした。
「どうした、レティ」
「……ううん。なんでもない。ただの、ノイズ」
レティは小さく首を振った。耳鳴りはすぐに消えた。
「この男を殺せば、お兄ちゃんの、来月分の治療費になる?」
「ああ。それだけでなく、特例として、来月はお前に直接の『面会』を許可してもいいと上層部が言っている」
「面会……!」
レティの顔が、初めて驚きと喜びで大きく見開かれた。今まで、感染症のリスクを理由に、一度も直接会うことを許されなかった兄。
ガラス越しですらなく、ただデータだけで生存を確認していた兄に、会える。
「本当に……? 会わせてくれるの?」
「お前の成果次第だ、レティ。ハルトを確実に処分しろ。そうすれば、お前は兄の創り出す温もりに、再び触れることができるだろう」
九番の言葉は、どこか奇妙な言い回しだった。
だが、面会という破格の条件に目を奪われたレティは、その違和感に気づく余裕などなかった。
「やる。私、絶対にその人を殺す」
レティは立ち上がり、アサルトケースを固く握りしめた。
彼女のペールブルーの瞳に、猛烈な、そして純粋な殺意が宿る。すべては、愛する兄のために。
しかし、彼女はまだ知らなかった。そのターゲットであるハルトという男が、彼女の「セカイ」を、その根底から永遠に破壊してしまう存在であることを。




