三話目
御子柴衛の逮捕から二週間。折原圭一郎と木津川楓が掴んだ「九条院グループによる連続暗殺計画」の全容は、未だ世間に公表されていなかった。それどころか、事態は不気味な膠着状態に陥っていた。
「おかしい。情報が完全に堰止められている」
東京・谷中の折原の書斎で、楓はノートパソコンの画面を見つめたまま、苦渋の表情を浮かべた。
「私が警察の共有サーバーの極秘扱いにアップロードした、全国の『音響道路暗殺』に関する統計データと鑑定書が、昨日付で全てアクセス禁止にされています。理由の欄には『捜査上の機密保持のため』とだけ」
折原は冷えた珈琲を口に運び、眉根を寄せた。
「身内の仕業だな。それも、ただの階級の高さだけでできる芸当じゃない。捜査の指揮権を直接握り、かつ九条院の犬として動いている人間が、警察の心臓部にいる」
そのとき、折原の携帯電話が震えた。画面に表示されたのは「新田康介」の名前だった。交通捜査課の警部であり、折原が定年を迎えるまで最も信頼を寄せ、今回の件でも警察内部の「窓口」として極秘裏にデータを渡していた男だ。
『折原さん、今どこにいますか』
新田の声は低く、周囲を警戒しているようにかすかに掠れていた。
「自宅だ。楓さんも一緒だ。新田、例のデータが凍結された件、お前何か知っているか」
『……電話では話せません。上層部が動き出しました。特捜じゃなく、公安の息がかかった連中が動いている。折原さんたちが掴んだ証拠を、九条院の息がかかった「上の人間」が物理的に消去しようとしています。今すぐそこを離れてください』
「誰が裏で糸を引いている?」
『まだ確証が持てない。だが、俺が本庁のサーバーから「誰がアクセス制限をかけたか」のログを盗み出しました。今夜、十一時。芝浦埠頭の第三倉庫裏で会いましょう。それまでに、手元にあるバックアップの生データを全て持ってきてください。俺のルートで、信頼できる検察の特捜部へ直接持ち込みます』
電話はそこで切れた。
「新田警部ですか?」
楓が尋ねる。
「ああ。本庁のログを手に入れたらしい。それを検察に回すと」
折原は立ち上がり、上着を羽織った。しかし、その手はポケットの中にある、使い古された警察手帳 (のレプリカ)を無意識に弄んでいた。長年の捜査官としての嗅覚が、新田の「今すぐそこを離れろ」「生データを全て持ってこい」という焦燥の混じった言葉に、小さな、しかし無視できない違和感を覚えていた。
「楓さん、新田は俺が最も信頼してきた部下だ。だが……今の警察組織で『絶対』は通用しない。データを全て一つの籠に入れるのは危険だ」
折原は内ポケットから一台の暗号化されたUSBメモリを取り出し、楓に手渡した。
「これがオリジナルだ。新田に会うのは俺一人で行く。君は、もし十二時までに俺から連絡がなかったら、事前に打ち合わせした海外の独立系ジャーナリストのサーバーへ、このデータを一斉に流してくれ。それが俺たちの最後の生命線だ」
楓はUSBを強く握りしめ、まっすぐに折原を見つめた。
「分かりました。折原さん、どうか生きて戻ってください」
午後十一時。芝浦埠頭は、潮の香りと重油の臭いが混ざり合う、冷徹な静寂に包まれていた。街灯の光がまばらに照らすアスファルトの上を、折原のシルバーのセダンが静かに進む。第三倉庫の裏手に車を止めると、すでにそこには一台の黒い警察車両が待機していた。運転席から降りてきたのは、トレンチコートを着た新田だった。彼は周囲を鋭く見回した後、折原に近づいてきた。
「折原さん、よく無事で」
新田が手を差し出す。
「データは?」
折原は車のボンネットに寄りかかり、煙草に火をつけた。煙が夜の海風に流されていく。
「新田、その前に一つ聞かせてくれ。お前が本庁のサーバーから盗み出したっていうログ、誰のアカウントからアクセスされていた?」
新田はわずかに視線を泳がせ、すぐに生真面目な顔に戻った。
「交通局長直属の参事官です。あの男は三年前まで九条院財団の肝煎りの外郭団体に出向していました。繋がりは間違いありません。さあ、一刻を争うんです。データを」
折原は煙草の灰を落とし、静かに新田の「靴」に目を落とした。ピカピカに磨かれた、高級なイタリア製の革靴。泥臭い現場を這い回る交通捜査課の人間が、決して履かないような代物だった。さらに、新田の背後の倉庫の影。かすかに、車の電子機器が発する特有の「高周波のノイズ」が耳の奥を刺激している。
「新田。お前、いつから九条院に飼われている?」
折原の声は、夜の海よりも冷たかった。新田の身体が一瞬、硬直した。だが、すぐに歪んだ笑みを浮かべ、懐の手をゆっくりと外に出した。その手には、警察支給のニューナンブではなく、消音器が装着された海外製のオートマチック拳銃が握られていた。
「……さすがは折原先輩だ。どこで気づかれました?」
「お前の声だよ」
折原は落ち着いた調子で言った。
「新田、お前は本当に追い詰められたとき、必ず左の眉をピクリと動かす癖がある。さっきの電話のときからだ。それに、その靴。交通課の薄給で買えるものじゃない。何より、この倉庫の裏、超指向性スピーカーを積んだ工作車が潜んでいるな? 俺が車ごと海に突っ込む『悲惨な自責事故』の準備は万端というわけだ」
新田は銃口を折原の胸元にピタリと向けた。
「仕方がなかったんです。警察という組織自体が、すでに九条院の資金と権力なしには維持できない構造になっている。あの老人が進める『完全管理都市』が完成すれば、犯罪も事故も消える。それは正義ですよ、折原さん。あなたのやっていることは、時代の進歩を邪魔する老害の足掻きに過ぎない」
「正義だと?」
折原は一歩前へ出た。
「身内の情報を売り渡し、木津川蓮さんや、お前の担当弁護士だった榊原さんを『事故』に見せかけて殺す手助けをすることが、お前の正義か!」
「データを渡し、木津川楓の居場所を吐いてください。そうすれば、先輩の命だけは助けるよう、上へ取り計らいます」
「残念だが」
折原は不敵に笑った。
「お前が今、俺から奪おうとしているその胸ポケットのUSBには、俺が今日食べた定食の画像データしか入っていないよ」
「何……!?」
「そして」
折原は自身のスマートフォンの画面を新田に向けた。画面には、通話状態のまま「録音・同時配信中」の文字が光っていた。
「この会話は全て、今この瞬間も、楓さんと、彼女が待機している海外の独立サーバーへリアルタイムで送信されている。お前が俺を撃てば、その瞬間に九条院の全暗殺リストと、現役警部・新田康介の自白動画が世界中に公開される仕組みだ」
「貴様……!」
新田の顔が驚愕と怒りで引きつる。組織の猟犬として完璧に立ち回っていたはずの男が、今、元上司の古典的だが確実な情報戦の罠に完全に嵌められていた。
「撃てるものなら撃ってみろ、新田」
折原が静かに告げたその時、背後の倉庫の影から、不気味なエンジン音が轟いた。九条院の息がかかった工作員のバンが、折原のハフ(ブラフ)を察知したのか、あるいは九条院からの直接の指令を受けたのか、凄まじい勢いで急発進してきたのだ。バンのルーフに設置された巨大な超指向性スピーカーが、折原たちに向けて照準を合わせる。
「くっ……!」
新田は折原を撃つことを躊躇い、一歩後退した。その隙に見計らい、折原は自身のセダンへと飛び乗った。
キィィィッ!
折原はギアをバックに入れ、猛烈な速度で芝浦埠頭の岸壁を駆け抜けた。背後からは、工作員のバンと、新田の警察車両が猛追してくる。埠頭から海岸沿いの高速道路へ。深夜の首都高速を、三台の車が時速百キロを超える速度で疾走する。
突然、折原の車の全ての計器が狂い始めた。カーナビの画面が砂嵐になり、オーディオからは、あの脳波を破壊する「低周波の拍動」が鳴り響き始める。高速道路のETCゲートや路側帯に設置された通信機器から、九条院の権力によって「対・折原用」のジャミング音波が照射されたのだ。
「う、ぐ……あ……」
視界が急激に狭窄し、脳の奥が焼け付くように痛む。バックミラーを見ると、新田の車がすぐ背後に迫っていた。新田は完全に理性を失い、折原の車を側壁へと押し付けようと体当たりを仕向けてくる。
『折原さん! 聞こえますか!』
車内のノイズの隙間から、楓の声が微かに響いた。彼女は折原のスマートフォンの通信を維持し、音声の周波数を逆位相で打ち消すノイズキャンセリング・プログラムをリアルタイムで送信してきたのだ。
キィィィィン!
突如として脳内の霧が晴れる。
「助かった、楓さん!」
折原は確実な意識を取り戻した。前方に迫るは、急な右カーブ。新田の車は、未だ九条院の音波と、自身の焦燥によって脳波を乱され、速度のコントロールを失っていた。
「新田! 組織の犬になったお前には、この轍は見えない!」
折原はカーブの手前で完璧なブレーキングを見せ、車体を滑らかにインコースへと滑り込ませた。一方、時速百二十キロのまま減速を怠った新田の警察車両は、遠心力に耐えきれず、外側のガードレールへと激しく激突した。火花を散らしながら、新田の車はスピンし、中央分離帯に叩きつけられて停止した。大破したボンネットから煙が上がる。工作員のバンは、それを見て戦意を喪失したのか、次のインターチェンジで闇へと逃げ去っていった。
折原は車を止め、煙の上がる新田の車へと近づいた。運転席のドアをこじ開けると、新田はエアバッグに圧迫されながら、血を流して意識を失いかけていた。
「新田……」
折原が声をかけると、新田はかすかに目を開け、自嘲気味に微笑んだ。
「……負け、ましたよ、先輩……。俺の……負けだ……」
「お前が持っていた本庁のアクセスログのデータ、あれは本物だな?」
「ええ……。俺の、最後の……警察官としての、未練だったのかも、しれない……。ダッシュボードの、中に……」
折原が助手席のダッシュボードを開けると、そこには一枚のSDカードが入っていた。そこには九条院に買収された警察上層部、公安、そして検察の幹部たちの実名と、資金移動の確実な証拠が記録されていた。
新田は完全に魂を売っていたわけではなかった。組織の巨大な闇に絶望し、抗いきれずに従いながらも、どこかで折原に止めてもらうことを望んでいたのかもしれない。
「新田、お前の罪は重い。だが、この証拠は必ず生かす」
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。折原が呼んだ、まだ汚染されていない本物の警察官たちの音だった。
一週間後。新田が残した決定的な内部証拠と、楓が世界へ発信した音響心理データの波紋は、日本政府を根底から揺るがした。
警察庁長官を含む幹部三名が更迭、九条院財団への強制捜査が入り、総帥・九条院頼道には殺人教唆および組織犯罪処罰法違反の容疑で逮捕状が出た。
夕暮れの東京。折原と楓は、あのすべての始まりの場所である「神坂ストレート」のブナの木の前に立っていた。
「これで、本当に終わったんですね」
楓が静かに言った。
「いや、目に見える組織は潰せても、利便性のために人の命を切り捨てるような『歪んだ思想』は、形を変えてまた現れるさ」
折原はブナの白い幹に手を当て、亡き友に語りかけるように呟いた。
「だが、その度に、俺たちはブレーキを踏み続ける。どれだけ完璧な直線を突きつけられても、立ち止まって、引き返す強さが人間にはあるからな」
二人が車に乗り込み、エンジンをかける。夕日に照らされた国道を走るシルバーのセダンは、今度は何者にも邪魔されることなく、ごく普通の、しかし確かな日常の速度で、ゆっくりと走っていった。




