二話目
御子柴衛が「神坂ストレート」の闇の中で自身の犯行を絶叫し、逮捕されてから一週間が経過していた。
超指向性スピーカーを用いた「音響心理ハッキング」による殺人。警察庁も前代未聞の凶悪犯罪として、世間の耳目を集めないよう極秘裏に取り調べを進めていた。
だが折原圭一郎の胸中には、晴れ間は訪れていなかった。東京・谷中にある古い自宅の書斎で、折原は壁一面に貼られた日本地図と、何枚もの交通事故現場の写真を睨みつけていた。
「折原さん、お呼び立てしてすみません」
ドアを開けて入ってきたのは、喪服姿の木津川楓だった。兄の葬儀を終えたばかりの彼女の顔は蒼白で、しかしその瞳には以前にも増して鋭い知性の光が宿っていた。
「楓さん、体調は大丈夫ですか」
「ええ。悲しんでいる暇はありません。これを見てください」
楓が机の上に広げたのは、過去三年間、日本全国の「見通しの良い直線道路」で発生した、単独交通事故の調書や新聞記事のスクラップだった。
「兄の事故を解決した後、私なりに過去の事例をデータベース化して、心理学的・統計学的に解析してみたんです。そうしたら、恐ろしい共通点が浮かび上がりました」
楓は赤ペンで、四つの事故例を丸で囲んだ。
二年前・北海道オロロンライン:大手IT企業『メビウス』の最高技術責任者(CTO)が、直線道路で時速六十キロのままガードレールを突き破り崖下に転落。即死。
一年前・静岡県伊豆スカイライン:次世代バッテリーの特許を持つベンチャー企業社長が、直線区間で対向車線の大型トラックに正面衝突。即死。
半年前・熊本県阿蘇ミルクロード:環境省の若手キャリア官僚が、緩やかな直線の先にあるコンクリート壁に減速せず激突。即死。
そして三日前・神奈川県西湘バイパス:御子柴の弁護を担当するはずだった人権派弁護士・榊原が、直線の側壁に時速八十キロで直進し激突。即死。
折原は写真を一枚ずつ手に取った。どれもブレーキ痕はない。そして、大破した車両の車載オーディオは、いずれも「最大音量」に設定されていた。
「榊原弁護士までやられたか……。御子柴が逮捕され、警察の監視下にあるというのに」
「御子柴はただの『道具』だったんです」
楓の声が震える。
「彼は音響心理学の天才ですが、これほど大規模なターゲットの選定や、事故現場へのスピーカー設置に必要な警察の動きの把握、そして何より、被害者たちの莫大な『資産や権利』の移動を一人で制御できるはずがありません。御子柴の背後には、彼に技術を与え、標的を指示していた『真の黒幕』がいます」
折原は深く息を吐き出し、煙草に火をつけた。
「確かに、御子柴が逮捕された翌日、彼のサロンの口座から、海外のペーパーカンパニーを経由して五十億円もの資金が洗浄され、消えている。現役の後輩が愚痴をこぼしていたよ。上層部から『これ以上追うな』と圧力がかかったとな」
「その資金の行き先、私、掴めました」
楓がノートパソコンを開き、複雑な資金移動のルートを示した。いくつものダミー会社を迂回した金は、最終的に一つの巨大な実体に吸い込まれていた。
『九条院財団』
その名を目にした瞬間、折原の背筋に冷たい戦慄が走った。
九条院。明治時代から続く華族の血を惹き、現代においては政界、財界、そして法曹界の頂点に君臨する、日本最大のコンツェルン「九条院グループ」の頂点だ。
現総帥の九条院頼道は、首相の指南役とも噂される「影の最高権力者」だった。
「木津川蓮、メビウスのCTO、バッテリーの権威、環境省官僚……。全員、九条院グループの利権、あるいは彼らが進める『スマートシティ開発計画』に最後まで反対していた人物たちです」
楓の言葉が、闇の中に散らばっていた点と点を、一本の血塗られた「完璧な直線」へと繋ぎ合わせていく。
「御子柴の逮捕で、黒幕はトカゲの尻尾切りを行った。そして、口を割りそうだった榊原弁護士を、同じ手口で消したんだ」
折原は煙草を灰皿に押し付けた。
「今度は、俺たちの番かもしれないな」
「望むところです。兄を殺し、多くの人の命を『効率的な障害物排除』として処理した人間を、私は絶対に許しません」
元捜査官の執念と、若き心理学者の復讐心が、夜の書斎で静かに共鳴した。
九条院頼道への接触は、予想外に容易だった。というより、「招かれた」と言うべきだった。折原の携帯電話に、見知らぬ番号から連絡が入ったのは、榊原弁護士の事故から二日後のことだった。
「折原元警部補、そして木津川准教授。我が主人が、お二人を晩餐に招待したいとのことです」
厳かな老紳士の声。指定された場所は、鎌倉の山奥にひっそりと佇む、広大な敷地を持つ九条院家の本邸だった。罠であることは百も承知だった。しかし、行かなければ次の「事故」が彼らを襲うだけだ。
折原と楓は、決死の覚悟で黒塗りの送迎車に乗り込んだ。重厚な鉄門をくぐり、執事に案内された先は、総ガラス張りの巨大な温室のような広間だった。そこには、無数の珍しい熱帯植物が咲き乱れ、中央に置かれた車椅子に、一人の老人が座っていた。
白髪を綺麗に整え、高価な毛布を膝にかけた老人——彼こそが、九条院頼道だった。
「よく来てくれたね、勇敢な迷い人たちよ」
頼道の声は、枯れ木の擦れ合うような音でありながら、不思議な威厳に満ちていた。
「九条院さん、単刀直入に伺います」
折原は椅子に座ることなく、老人の前に立った。
「御子柴衛に命じて、木津川蓮さんをはじめとするプロフェッショナルたちを暗殺させたのは、あなたですね」
頼道は悪びれる様子もなく、むしろ愛おしそうに周囲の植物を見つめた。
「暗殺? 人聞きが悪いな。私はただ、庭の手入れをしていただけだよ。美しい庭を作るためには、不揃いな雑草や、成長の遅い枝を『剪定』しなければならない。彼らは、日本の未来という巨大な庭園において、少しばかり我が強すぎたのだ」
「人間の命を、雑草と同じように扱うなんて……!」
楓が激しい怒りを込めて一歩前に出た。
「木津川准教授、君なら理解できるはずだ」
頼道は濁った、しかし底知れないエネルギーを孕んだ目を楓に向けた。
「人間の脳は、極めて不完全な生体コンピューターだ。わずかな『音』と『視覚刺激』だけで、自己防衛の本能すら簡単に書き換えられてしまう。御子柴の技術は素晴らしかった。だが、彼はただの技術者に過ぎん。その技術を『社会の最適化』のために正しく運用する視座を持っていなかった」
頼道は、車椅子の手元にあるリモコンを操作した。すると、温室の壁一面に、巨大なホログラムの日本地図が投影された。そこには、九条院グループが推進する、全国数箇所の大規模スマートシティ(完全自動運転・人工知能管理都市)の構想図が描かれていた。
「自動運転の世界に、人間の不確実な運転は不要だ。年間数万人もの人間が、交通事故で命を落としたり傷ついたりしている。私は、この国から『交通事故』を完全に根絶したいのだよ。そのための完全管理社会、完全自動運転都市だ。だが、君の兄や、あの愚かな技術者たちは、利権や個人の自由を盾に、その進歩を阻もうとした。だから、私は彼らに『最後の交通事故』をプレゼントしたのだ。人間の不完全さが生み出す、皮肉な結末としてね」
折原は拳を握りしめた。
「あなたの言っていることは、ただの大量殺人だ。法があなたを裁く」
「法かね?」
頼道はくくくと喉を鳴らして笑った。
「警察の上層部、検察、裁判所。すべて我が九条院の血と金が流れている。御子柴は近々、拘置所内で『精神を病んだことによる自殺』を遂げるだろう。証拠はすべて消える。君たちがいくら叫ぼうと、世間は耳を貸さない。なぜなら、彼らは全員、完璧な『直線道路での不注意事故』として処理されているのだから。物理的な証拠は、どこにもないのだよ」
頼道は冷酷な微笑を浮かべ、執事に合図を送った。
「さて、おしゃべりは終わりだ。君たちの処遇だが……君たちは優秀だ。特に折原君、君の現場検証の眼力は素晴らしい。私の『安全対策顧問』として迎えてもいい」
「断る」
折原は即答した。
「そうか、残念だ。では、帰り道を気をつけることだ。日本の道路は、どこも危険に満ちているからね」
その言葉は、明確な「死刑宣告」だった。
鎌倉の屋敷を出たとき、夜の十一時を回っていた。折原のシルバーのセダンは、不気味なほど静まり返った国道を走っていた。東京へ戻るには、山あいのワインディングロードを抜け、海岸沿いの「西湘バイパス」を通るルートが最短だった。
「折原さん、九条院の言葉、誇張ではありません。あの男は本気で私たちを消すつもりです」
助手席の楓が、タブレット端末の画面を見ながら緊迫した声を上げた。
「分かっている。奴らの手口は分かっている。超指向性スピーカーを積んだ工作車両が、この先のどこかで待ち伏せしているはずだ」
折原はバックミラーを何度も確認した。だが、後方に追走する車の気配はない。
「いえ、違います!」
楓が突然、叫んだ。
「九条院は『御子柴の技術を社会の最適化のために運用する』と言いました。御子柴は車外からスピーカーで音を照射していましたが、九条院グループなら、もっと『効率的』な方法が取れるはずです」
「効率的? どういうことだ」
「西湘バイパスは、九条院傘下の建設会社が最近、路面改修とITインフラの整備を行ったばかりです。もし、工作車両ではなく、道路そのものに仕掛けがあったとしたら……!」
折原はハッと息を呑んだ。車はすでに、西湘バイパスの直線区間に進入していた。左手には漆黒の太平洋が広がり、右手には防音壁が続く。見通しの良い、完璧な直線。そのとき、車のラジオから流れていた音楽が、突如として激しいノイズに変わった。
「始まったか!」
折原は即座にオーディオのスイッチを切った。しかし、ノイズは止まらない。それどころか、車内全体が、不気味な重低音で微振幅を始めた。
「オーディオじゃありません!」
楓が耳を塞ぎながら叫ぶ。
「路面です! 『メロディーロード(音響道路)』の技術が悪用されています!」
メロディーロード。アスファルトの表面に細かい溝を刻み、その上を車が特定の速度で通過することで、タイヤとの摩擦音が音楽として車内に響く仕組みだ。通常は観光地などで安全運転を促すために使われる。しかし、この西湘バイパスの直線に刻まれていたのは、そんな生易しいものではなかった。時速七十キロで走行する折原の車のタイヤが、路面の溝を高速で引っ掻く。その振動が、車体を通じて、直接座席から二人の身体へと伝わっていた。
「くっ……あ、頭が……」
折原の視界が、急激に狭くなっていく。脳を直接揺さぶるような、超低周波の拍動。人間の認知機能を強制的に遮断し、強烈な催眠状態へと誘う「死の旋律」だった。さらに、前方の道路脇に設置された最新型のLED街灯が、一定の周期で高速点滅を始めた。
「視覚と聴覚の同時ハッキング……! 脳波を『θ波』へ強制同期させている……!」
楓は猛烈な吐き気と睡魔に襲われながらも、必死で噛み切った唇から血を流し、意識を保とうとしていた。折原の足が、アクセルを踏み込んだまま硬直していく。彼の目は開いているが、意識は急速に混濁していた。
脳が「直進せよ」「速度を維持せよ」「すべてを委ねよ」という偽りの絶対命令に支配されていく。前方の防音壁が、まるで吸い込まれるような美しい光の渦に見えた。
このまま、時速七十キロで滑らかに壁へと激突する。ブレーキ痕一つ残さず、完璧な「前方不注意」として、海沿いの直線で二人の命は塵になるはずだった。
「折原さん! 目を覚まして! 脳の命令に逆らって!」
楓が最後の力を振り絞り、ダッシュボードから冷たいミネラルウォーターのボトルを掴むと、折原の顔面に叩きつけるように浴びせた。
「ぶはっ……!?」
冷水の衝撃で、折原の脳内に一瞬の亀裂が生じた。長年の警察官としての本能が、死の淵で目覚める。
「おおおおお!」
折原は叫び声を上げながら、硬直した右足をアクセルから引き剥がし、渾身の力でブレーキペダルを踏み込んだ。同時に、ハンドルを左へと大きく切る。キィィィィィィィィィィッ!!!夜の西湘バイパスに、これまでどの被害者も残すことの出来なかった、猛烈な長さの黒いタイヤ痕が刻まれた。
車体は激しくスピンし、ガードレールに火花を散らしながら激突し、ようやく停止した。エアバッグが作動し、車内に白い煙が満ちる。
「楓……さん……生きて、いるか……」
折原は額から血を流しながら、助手席の楓を見た。彼女は打撲を負いながらも、しっかりと頷いた。
「生き……て、います。そして、やりました、折原さん」
楓の手には、録音機能を作動させ続けたスマートフォンと、車の走行データをリアルタイムで記録していたタブレットが握られていた。
「路面から発生した異常周波数のデータ、街灯のパルス発光の周期、そして今の、兄たちの事故には存在しなかった『ブレーキ痕』。これが、この道路が殺人兵器であるという、動かぬ物理的証拠です」
折原は歪んだ車のドアを蹴り開け、夜の空気を吸い込んだ。アスファルトに深く、生々しく刻まれた黒い轍を見つめる。それは、九条院頼道が作り上げた「完璧な犯罪」のキャンバスを、根底から破壊する真実の線だった。
一ヶ月後。車椅子の老人、九条院頼道は、警視庁の取調室にいた。折原と楓が命懸けで持ち帰った西湘バイパスのデータは、警察内部の良識派(折原の現役時代の信頼できる仲間たち)の手によって、上層部の圧力を飛び越え、直接検察の特捜部へと持ち込まれた。さらに、楓がそのデータを国内外の音響心理学会およびメディアに一斉に公開したことで、九条院グループによる「事故を装った暗殺」の疑惑は、もはや国家権力でも揉み消せないほどの巨大変動へと発展した。
家宅捜索を受けた九条院の本邸からは、過去の被害者たちの選定理由や、御子柴への指示書、さらには全国の道路に音響細工を施すための計画書が網羅された、極秘ファイルが押収された。
「……私は、間違っていない」
取調室のライトに照らされた頼道は、以前の威厳を失い、ただの老いさらばぼれた老人のように呟いた。
「私は、この国を最適化したかっただけだ。愚かな人間がハンドルを握るから事故が起きる。私は、その不確実性を排除したかった……」
マジックミラーの向こう側からその姿を見つめていた折原は、静かに首を振った。
「奴は最後まで、自分が神にでもなったつもりでいたんだな」
隣に立つ楓が、静かに言った。
「人間は不完全です。間違えるし、感情に流される。でも、だからこそ、私たちは他者を思いやり、ブレーキを踏むことができる。兄は、安全を愛していたからこそ、九条院の冷酷な計画に反対したんです。自動運転の未来に、人の心を犠牲にしてはならないと」
「ああ、その通りだ」
折原はコートのポケットに手を突っ込み、取調室を後にした。二人が警視庁のロビーへ出ると、外は雲一つない青空が広がっていた。
正面の大きな通りを、数多くの車が行き交っている。そこには、家族を乗せた車、仕事に向かう車、それぞれの人生を乗せた、不完全で、愛おしい日常の光景があった。
「折原さん、これからどうしますか?」
楓が尋ねる。
「そうだな。まずは、神坂ストレートのあのブナの木に、報告に行かないとな。木津川蓮さんに、すべてが終わったと」
折原は歩き出し、ふと立ち止まって振り返った。
「それから……もしまた、どこかの直線道路で『不自然なブレーキ痕のない事故』が起きたら、いつでも俺を呼んでくれ。定年退職の身だが、目に見えない殺意の轍を見つけ出すことくらいは、まだ現役でやれる」
楓は深く微笑み、元刑事の隣に並んで歩き出した。彼らが歩む道の先には、もう歪んだ直線など存在しなかった。ただ、未来へと続く、確かな人間の足跡だけが刻まれていくのだった。




