第二話
液晶画面の境界線を無視して、モニターの内側から這い出てきた泥と血にまみれた人間の手。それはネルのデスクに置かれたキーボードのキーをじわじわと押し潰しながら、現実の空間へとしがみついていた。
ゲームの画面が強制的に切り替わり、歪んだフォントで、リスナー全員に向けたメッセージが表示された。
『協 力 者 を 募 集 し ま す。次 の 部屋 の 鍵 を 開 け る に は 44 人 の 贄 ( コ メ ン ト ) が 必 要 で す』
画面の右上にプログレスバーが出現する。[0 / 44]。その数字の下に、リアルタイムで書き込まれるリスナーたちの名前とコメントが、血の滴るような赤文字で固定され始めた。
タカシ@配信中毒:おい待て、俺のキーボード勝手に動いてる!! 止まらない!!
ゆきうさぎ:いやあああ! スマホが熱い! 画面から黒い煙が出てる!!
kenta_07:ねる助けてネル助けてネル助けてネル助けて
みなみん:【警告:デバイスの所有権が移行されました】って何!? 閉じられない!
画面のカウンターが勢いよく跳ね上がる。[4 / 44]。
「書き込むな!!! みんな、コメントを打つな!!!」
ネルは床を這いながら、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。
「みんな、チャットに何も打つな! ブラウザを閉じろ! 端末の電源を切れ!! これ、ゲームがリスナーのアクセスを利用して、こっちの世界に実体化しようとしてる! コメントを打ったら、ゲームのエネルギーにされるぞ!!」
しかし、ネルの警告は届かない。チャット欄には、彼らの意志とは無関係に、狂ったような速度で文字が自動生成され、書き込まれ続けていた。
たろー:あいうえおあいうえおあいうえお
ミサキ:ネルネルネルネルネルネルネルネルネル
Gamer_X:ひらけひらけひらけひらけひらけひらけ
[12 / 44]……[28 / 44]……[39 / 44]……。
「やめろ……やめてくれ! 俺のせいで、みんなが……!」
ピピッ、という無機質な電子音とともに、ネルの部屋のエアコンが勝手に起動した。設定温度は極限まで下げられ、部屋の中に、まるで墓場のような凍てつく冷気が立ち込め始める。ネルの吐く息が、白く染まっていく。
突如、配信の音声に、スパチャの通知音が響いた。しかし、画面に表示されたのは赤や青の華やかなエフェクトではない。どす黒い漆黒の枠。金額は『¥66,666』。
送信者の名前は『あなたの後ろのクローゼット』。メッセージ欄には、こう書かれていた。
『もうすぐ、44人。鍵が開くよ。ネルくんの部屋の、ドアの鍵。誰も逃げられないように、僕が内側から閉めてあげたからね』
ネルは弾かれたように、自分の部屋の出入り口のドアを見た。そこには、いつの間にか、ゲーム内のあの荒いローポリゴンで描かれた黒いデジタルノイズの霧が、現実のドアノブを包み込むようにして、ベタリとへばりついていた。
[44 / 44:COMPLETE]
文字が画面に浮かび上がった瞬間、チャット欄の動きが、ピタリと止まった。
完全な静寂。世界から音が消えたかのような、不気味な沈黙が数秒間、配信を支配する。ネルの部屋のPCのファンも、ノイズも、全てが静まり返った。
いや、違った。ヘッドホンの向こう側から、ジワジワと何十人もの人間の、すすり泣くような声が、地鳴りのように響いてきていた。それは配信の音声ではない。ネルの部屋の壁、天井、床、あらゆる場所から、スピーカーを通さずに響いてくる、このゲームに巻き込まれたリスナーたちの意識の残骸だった。
『寒いよ、ネル……』
『スマホから手が出てきて、顔を掴まれてる……』
『助けて、消される、ゲームの中に引っ張られる……』
「みんな……ごめん……俺が、あんなゲームを始めなきゃ……っ」
ネルは膝から崩れ落ち、頭を抱えた。涙がボロボロと溢れ、床に染み込んでいく。だが、ゲームは彼に絶望する時間さえ与えない。
パキィン!!! と、ついに激しい音を立てて、デスクの上の27インチモニターが真っ二つに割れた。液晶のガラスの破片が飛び散る中、モニターの中から、『顔のない真っ黒な男』の頭部が、ヌッと現実の世界へ突き出された。
その顔のない頭が、ゆっくりと、床にへたり込んでいるネルの方へと向いた。目も鼻も口もない、ただ滑らかな黒い肉の塊。しかし、ネルには確実に分かった。それが、自分を見て、嘲笑っているということが。
黒い男の、口があるべき場所の皮膚が、裂けるようにして横に開いた。中には、ギチギチに詰め込まれた、人間のものと思われる歯が並んでいる。それは、先ほど生贄にされたリスナーたちの歯なのかもしれない。
『ーーさ ぁ 、 次 の ス テ ー ジ だ』
割れたモニターから、ノイズ混じりの大音量で、ゲームの新しいステージのBGMが鳴り響いた。それは、狂ったようなテンポの、不協和音の電子オルガン。そして、ネルの部屋の壁全体が、ベキベキと音を立てて、あのゲーム内の薄暗い廊下のテクスチャへと、急速に変貌を始めていた。
ネルが気がつくと、彼は自分の部屋の床ではなく、カビ臭い、古びたじゅうたんの上に座り込んでいた。壁を見上げる。壁紙は剥がれかけ、粗いドットで描かれたシミがいくつも浮き出ている。
ここは、ゲームの最初のステージだった『終わらない廊下』だ。しかし、完全に現実の肉体を持って、ここに存在している。
「ここは……ゲームの、中……?」
背後を振り返る。そこには、彼が先ほどまで座っていたゲーミングチェアと、真っ二つに割れたモニターが、まるで空間に埋め込まれたオブジェのように不自然に転がっていた。
そして、そのモニターの割れた画面には、まだ生配信のチャット欄が、あり得ない方法で投影され続けていた。チャット欄は、まだ生きていた。いや、それどころか、さらに異常な変貌を遂げていた。
マヨネーズ侍:え? ネルが画面から消えた?
ひよりん:待って、ゲームの画面の中にネルがいるんだけど!!!
ケンジ:これCG? 実写? ネル、お前どこにいるんだよ!!
あやね:たすけてたすけてたすけて、私の部屋の壁も、その廊下と同じになってきた
「みんな、聞こえるか!? 俺はゲームの中にいる! いや、俺の部屋がゲームに飲み込まれたんだ! 頼む、誰か警察か、救急車か、誰でもいいから呼んでくれ!!」
ネルがモニターに向かって叫ぶ。しかし、チャット欄に返ってきたのは、絶望的な現実だった。
タカシ@配信中毒:警察に電話したけど繋がらない。『現在、電波の信号がありません』ってアナウンスが流れるだけだ
ゆきうさぎ:外に出ようとしたら、玄関のドアの向こうが『砂嵐』になってる……世界が消えてる……
kenta_07:NO_SIGNAL... NO_SIGNAL... NO_SIGNAL...
世界が、配信を見ている人間を起点に、外側から消滅し始めている。このゲーム『NO_SIGNAL.exe』の目的は、配信者一人を呪うことではない。ネットという巨大な神経網を通じて、世界そのものの信号を消去し、ゲームのデータで上書きすることだったのだ。
ベタ、ベタ、ベタ……と、廊下の奥から足音が近づいてくる。あの『顔のない黒い男』だ。しかし、今度は一人ではない。男の後ろから、無数の、ドロドロに溶けたローポリゴンの人影が、ゾロゾロと這い出てきていた。その人影たちの頭の上には、緑色の文字で、見覚えのある名前が浮かんでいた。
【タカシ@配信中毒】【ゆきうさぎ】【kenta_07】
「あ……ああ……みんな……なのか……?」
ゲームに取り込まれたリスナーたちが、ゲーム内の敵キャラクターへと作り変えられ、ネルを殺すために迫ってくる。彼らの顔は一様にノイズで潰され、ただ悲痛な呻き声だけをあげていた。
『ネル……ネル……どうしてこんなゲームやったの……』
『いたいよ……くるしいよ……お前のせいだ……』




