二話目
昭和五十八年、十月十一日。
外は激しい秋雨が、大正生まれの我が邸宅の窓を叩いている。
私は書斎の安楽椅子に深く腰掛け、部屋の壁一面を占める、特注の巨大水槽を凝視していた。
水槽の中には、まだ何も入っていない。ただ、南方のあの忌まわしくも美しい島から、あらゆる隠蔽工作を経て持ち帰った「透明な液体」だけが、並々と満たされている。
地元の人間や警察の連中は、私を「奇妙な骨董品とアクアリウムに狂った資産家」と呼んでいるらしい。
狂っている?
逆だ。狂っているのは、乾いた大地の上で、自分たちが「個」として独立していると信じ込んでいる、あの一人歩きする水袋(人間)どものほうだ。
私の胸元には、南方の島――かつて大日本帝国海軍が極秘裏に設置した『第七特殊資源研究所』の廃墟から盗み出した、真鍮製の羅針盤が下がっている。
針のないその羅針盤の中央には、私の血が数滴、文字盤を汚すようにこびりついていた。
あれはただの泥ではない。あの島で、死に瀕した研究主任が私に遺した「原液」の痕跡だ。
『藤堂くん……人間は、進化の過程で大きな過ちを犯した』
耳の奥で、梅毒と高熱に侵され、肉体が崩壊しかけていた主任の、あの粘ついた声が蘇る。
『我々は海を見捨て、陸に上がった。だが、その代償として、孤独という不治の病を得た。皮膚という名の強固な檻に閉じ込められ、他者と交わることもできず、ただ老いて腐っていく。……だが、あの島の水は違う。あれは、すべての個体を一つに溶かし込む、完璧な「母胎の残り香」だ』
当時の私は、その言葉を錯乱だと笑った。
だが、日本へ帰国し、戦後の混乱期を乗り越え、巨万の富を築いた後も、私の頭からあの島の「音」が消えることはなかった。
ザー、ザー。
頭の髄まで響く、波の音。
そして一ヶ月前、私はついに、あの島から密輸した数トンの「原液」を、この書斎の水槽へと流し込んだ。
その日から、私の体に異変が始まった。
十月十四日。
風呂に入っている時、ふと自分の腕を見た。
湯気の中で、私の皮膚がわずかに「透けて」見えた。血管の青い筋が、まるで水草のようにゆらゆらと揺れ、肉そのものが、湯の中に溶け出そうとしているかのような錯覚を覚えた。
いや、錯覚ではない。
私は急いで書斎に戻り、水槽のガラスに手を当てた。
その瞬間、頭の中に凄まじい「歓声」が流れ込んできた。
それは言葉ではなかった。何百、何千という人間の、喜びに満ちた叫び。苦痛も、老いも、孤独もない、圧倒的な質量を持った「意識の海」が、ガラスの向こう側から私を引っ張っている。
「藤堂さん、お茶をお持ちしました」
背後で、若い家政婦の女が声をかけた。
彼女の声を聞いた瞬間、私は激しい嫌悪感を覚えた。なんと耳障りで、不完全な、個体の雑音だろうか。彼女は私の許可なく、この完璧な世界の調和を乱そうとしている。
「そこに置いて、すぐに出て行きなさい」
私は振り返らずに言った。
自分の声が、まるで水底から響くように、酷く低く、こもっていることに気づいた。 女は恐怖を感じたのか、トレイを机に置くと、逃げるように部屋を出て行った。
彼女には見えなかったのだろう。私の足元、高級な絨毯の上に、私の体から滴り落ちた「純水」が、小さな水たまりを作っていたことが。その水は絨毯を濡らすことなく、まるで生き物のように、水槽の方向へとじわじわと這って移動していた。
十月十六日。
いよいよ、その時が近づいている。
私の肉体は、すでに半分以上が液体としての性質を帯びていた。鏡を見ると、私の顔はかろうじて輪郭を保っているものの、常夜灯のオレンジ色の光を透過して、背後の壁が透けて見えていた。
不思議と、恐怖はなかった。
あるのは、長い旅を終えて、ようやく我が家に帰ることができるという、深い安堵感だけだった。
私は最後の力を振り絞り、万年筆を握った。
この机、この椅子、この衣服。これらは私が「藤堂一臣」という個体であったことの、ただの抜け殻、皮膚の痕跡に過ぎない。
これらをここに残していく。なぜなら、あの完璧な海に入るには、人間が作った「不純物」は一切持ち込めないからだ。
『我々の肉体は、本質的に水袋に過ぎない……』
手記を書き終えた時、私の指先は完全に透明な水へと変わり、万年筆がカランと音を立てて床に落ちた。
水槽のガラスが、内側から激しく脈打っている。
鍵はすべて閉めた。窓も、扉も。この部屋は今、世界から完全に隔離された「フラスコ」だ。
「さあ、還ろう」
私は三つ揃えのスーツを着たまま、水槽へと歩み寄った。
いや、歩いたのではない。私の肉体そのものが、水槽に向かって「流れて」いったのだ。
ガラスに触れた瞬間、抵抗はなかった。
私の肉体は、衣服の隙間から、ワイシャツの袖口から、ズボンの裾から、一滴の残らず溢れ出し、ガラスを透過して、中の液体へとダイレクトに混ざり合っていった。
ジワリ、と衣服が重力に従って、その場に崩れ落ちる。
ネクタイが外れ、腕時計が床に落ち、財布が転がる。
だが、次の瞬間、水槽の中の「私」――いや、私であった巨大な意思が、それらの衣服を優しく掬い上げた。
まるで、かつて自分が人間という不自由な形をしていたことへの、最後の愛着を示すかのように。
私は、自分の衣服、時計、すべての持ち物を、水槽の底の砂の上に、綺麗な「人型」を保つようにして、静かに配置した。
ああ、なんと素晴らしい。
私は今、部屋を満たす水であり、街を包む湿気であり、いつかこの場所を訪れるであろう、未来の哀れな「水袋たち」を待ち受ける、広大な海そのものだ。
扉の向こうで、誰かがノックしている。
警察か、あるいは親族か。
開けてやることはできない。だが、いつでも待っている。
この美しい、常夜灯の歪みの中で――。




