三話目
その街の夜は、常に灰色を帯びた湿気の中にあった。地方都市の片隅、かつては炭鉱で栄え、今はただ老いていくだけのベッドタウン。街灯の多くは古いナトリウム灯のままで、オレンジ色の、どこか病的な光をアスファルトに落としている。霧が深く立ち込める夜など、その光はまるで水中に沈んだ常夜灯のように歪んで見えた。
宮下は、防寒用のトレンチコートの襟を立て、泥濘に足を取られながら坂道を登っていた。彼は民間の保険調査会社に籍を置く調査員であったが、それは表の顔に過ぎない。彼の真の目的は、警察のデータベースからも、人々の記憶からも消え去ろうとしている「説明のつかない集団失踪事件」のルポルタージュを完成させることだった。
彼がこの寂れた街にやってきたのは、一人の元刑事の足跡を辿るためだ。
名前は、乾。
数年前、この街の警察署から突如として姿を消し、公式には「自発的失踪」として処理された男である。しかし、宮下が闇ルートから入手した乾の『捜査備忘録』のコピーには、組織が隠蔽した悍ましい事実が克明に記されていた。
昭和五十八年の資産家・藤堂一臣の失踪。
数年前に起きた若手刑事・佐々木の失踪。
そして、それらを追っていた乾自身が体験した、自らの肉体が徐々に「透明な液体」へと変質していく不条理な恐怖。
「衣服と持ち物だけを完全に残し、人間が水に溶けて消える。あり得ない話だ」
宮下は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、彼の懐にある乾の手記のコピーは、冷たい夜気の中でも妙に生ぬるい湿気を放ち、触れる指先を絶えず湿らせていた。
坂を登り詰めた丘の頂上に、目的の場所はあった。
かつて大正時代に建てられたという洋館『藤堂邸』が佇んでいた空き地だ。洋館は数年前に業者の手によって完全に解体され、今はただ、腰の高さまで伸びた雑草が生い茂る荒地が広がっている。周囲には民家もなく、古いナトリウム灯のオレンジ色の光だけが、境界線を引くように敷地の入り口を照らしていた。
宮下は懐中電灯を照らしながら、敷地の中心部へと歩みを進めた。かつて藤堂一臣の「書斎」があり、壁一面を占める巨大な水槽が鎮座していたとされる場所だ。
一歩足を踏み入れた瞬間、宮下は違和感に足を止めた。
この街では、ここ数日間雨など一滴も降っていない。天気予報もずっと晴れを示していた。にもかかわらず、洋館の書斎跡地にあたる半径数メートルの一角だけが、まるで底なし沼のように酷くぬかるみ、踏みしめるたびに靴の底から不自然なほどの水分が染み出してくるのだ。
それだけではない。草むらの奥から漂ってくるのは、内陸の地方都市であるはずのない、濃厚な「潮の香り」だった。まるで、この地面の真下に広大な海が直結しているかのような、圧倒的な水の気配。
宮下はポシェットから、乾のノートの記述を頼りに古物商から買い取った『ある骨董品』を取り出した。
藤堂一臣が若い頃に南方の島から持ち帰ったという、真鍮製の羅針盤だ。
その羅針盤には針がない。代わりに、中央に小さなガラスの器が嵌め込まれており、かつては茶黒い泥のような物質がこびりついていたという。しかし今、宮下の目の前にある羅針盤のガラス器には、完全に無色透明な「液体」が満ちていた。しかも、宮下の手が震えているわけでもないのに、その液体はまるで独自の意思を持つかのように、器の中で細かく、激しく波打っていた。
ザー、ザー。
突如として、宮下の耳の奥で、轟々たる波の音が鳴り響いた。
空を見上げても、やはり星がいくつか見えるだけの曇り空で、風すら吹いていない。しかし、耳元では、何千、何万という大波が岩肌を噛むような、あるいは無数の人間が同時に水中で囁き合っているような、地鳴りに似た雑音が頭の髄を揺さぶっていた。
「うっ……!」
宮下は目眩を覚え、膝をついた。膝がぬかるんだ地面に没した瞬間、冷たい感覚ではなく、人間の体温に近い「生ぬるい」水分がズボンを透過して皮膚に触れた。
驚いて懐中電灯で足元を照らす。ぬかるみから、透明な水がじわじわと湧き出し、またたく間に小さな水たまりを形成していた。
その水面を見た瞬間、宮下は息を呑んだ。
水は不自然なほど透明で、光を一切反射していなかった。太陽やナトリウム灯の光を跳ね返す鏡としての機能を失った、完全なる純水。そして、懐中電灯の光がその水たまりの底を透過したとき、宮下はあり得ないものを目撃した。
浅い水たまりの底に、沈んでいるのだ。
古い眼鏡と、色褪せたネクタイ。そして、警察の紋章が入ったネクタイピン。
それらはまるで、目に見えない透明な人間がそこに仰向けに横たわっているかのように、綺麗な人型を保って泥の上に配置されていた。
「乾、刑事……?」
宮下の手が激しく震えた。彼は夢中でポシェットから一眼レフカメラを取り出し、その不条理な光景をファインダーに収めようとした。証拠を残さなければならない。人間が水に溶けるなどという狂った怪奇現象が、本当にこの現代日本で行われているという証拠を。
しかし、レンズのピントを合わせようとした瞬間、ファインダーの中の水面が、ゴボリと大きな気泡を上げた。
「宮下さん、そこにいたら危ない」
背後から、低く、こもった声がした。
それはスピーカーのノイズのようでもあり、あるいは深い水底からスピーカーを通して話しかけられているような、酷く歪んだ輪郭を持つ声だった。
宮下は弾かれたように振り返った。
ナトリウム灯のオレンジ色の光の中に、一人の男が立っていた。
いや、それを「男」と呼んでいいのか、宮下の理性が激しく拒絶した。
その存在の輪郭は、夏の道路に立ち上る陽炎のように絶えずゆらゆらと揺れていた。着ている服は、乾の備忘録にあった失踪当時の乾刑事の衣服――すり切れたトレンチコートにスラックスのようだったが、その衣服の隙間から見える首筋や手首の皮膚は、完全に透明だった。向こう側にある雑草の緑や、夜の闇が、彼の肉体を透過してはっきりと見えているのだ。
さらに悍ましいことに、その顔のパーツは、水流が形を変えるように絶えず変化していた。ある瞬間には四十代の疲れた男の顔に、次の瞬間には二十代の若い実務的な男の顔に、そしてまた次の瞬間には、大正期の絵画から抜け出たような厳格な老人の顔へと、波紋のように移り変わっていく。
「君が……乾刑事なのか?」
宮下はカメラを構えたまま、じりじりと後ずさりした。しかし、彼の靴はすでに溢れ出した透明な水によって完全に浸され、足の感覚が麻痺し始めていた。
「乾であり、佐々木であり、藤堂であり、あの南方のアニマ島で死んだ名もなき兵士たちだ」
その透明な存在は、静かに微笑むような仕草を見せた。声は相変わらず、どこか遠い水底から響いてくるようにこもっている。
「宮下さん、君は原因を究明しに来たのだろう。なぜ我々が消えねばならなかったのか。この現象の正体は何なのかを」
「そうだ!」
宮下は叫んだ。
「これは何なんだ? 未知のウイルスによる肉体の融解現象か? それとも、この土地の地下水に含まれる化学物質の仕業か!?」
透明な存在は、ゆっくりと首を振った。その動作に伴って、彼の頭部から数滴の透明な液滴が飛び散り、地面のぬかるみへと同化していった。
「どれも違う。これは病気でもなければ、呪いでもない。『帰郷』だよ」
透き通った腕が、ゆっくりと宮下に向かって伸ばされる。
「南方の島で藤堂一臣が見つけたあの液体は、地球上のすべての生命が個体に分化する前に存在した、『最初の海』の生き残りだ。我々人間は、皮膚という強固な檻の中に内なる海を閉じ込め、自分を個体だと錯覚して生きている。だが、その代償として、他者と決して交われない孤独と、老いと、腐敗を得た」
宮下は、その言葉が乾の手記にあった藤堂の狂信的な文章と完全に一致していることに気づき、戦慄した。
「あの水に触れたものは、個体を維持するためのシステムを解除される」
透明な存在は一歩、また一歩と宮下に近づいてくる。彼の足が泥を踏むたびに、足元から一切の濁りのない純水が湧き出す。
「皮膚が溶け、肉が溶け、意識が溶け、一つの巨大な『意識の海』へと統合される。そこには孤独もなければ、隠し事もない。すべての記憶と感情が、豊かに、広大に流れている。宮下さん、君が持っているその羅針盤は、針がないのではない。常に『中心』を指しているのだよ。我々という、一つの海を」
宮下は自分の手元を見た。
彼が握りしめていた真鍮の羅針盤の中で、透明な液体が沸騰したように激しく泡立っていた。そして、パキリ、と高い音が響き、中央のガラス器に微細な亀裂が入った。 器から溢れ出た一滴の無色透明な水が、宮下の親指の皮膚に触れた。
「あ――」
激痛を予期して身を硬くした宮下だったが、訪れたのは全く逆の感覚だった。
それは、母親の胎内に優しく包まれているかのような、あるいは凍える雪山から極上の温湯に飛び込んだかのような、強烈な「心地よさ」と「解放感」だった。
親指の先から始まった感覚の消失は、瞬く間に手首へ、そして腕へと駆け上がってきた。懐中電灯の光を自分の右手に当てると、宮下の皮膚は急速に不透明さを失い、ガラス細工のように透明に変質していた。爪も、指紋も、血管も、すべてが境界線を失って一本の透明な「流れ」へと変わっていく。
「素晴らしいだろう」
乾であったものが、宮下のすぐ目の前で囁いた。
「もう、他人の目を恐れる必要も、真実を追い求めて孤独に彷徨う必要もない。君の探求は、ここで海の一部となることで完成するんだ」
「私は……ルポを……」
宮下は残った左手でカメラを掲げようとしたが、指先がすでに水へと変わりつつあり、重い機械を支えることができなかった。一眼レフカメラが手から滑り落ち、水たまりの中に鈍い音を立てて転がった。水面はカメラを濡らすこともなく、ただその電子機器を泥の上に静かに沈めた。
宮下は最後の理性を振り絞り、トレンチコートのポケットからボイスレコーダーを取り出し、口元に近づけた。録音ボタンを押す指は、もう完全な水の塊と化していた。
「これは……病気じゃない……淘汰だ……我々は最初から、一つの器に戻るために……」
しかし、レコーダーの小さなマイクに向かって発せられた彼の声は、もはや人間の言語の形を成していなかった。ゴボゴボ、ザー、という、激しい水泡と波の音だけが、デジタル音声として記録されていく。
宮下の視界が急速に広がっていった。空き地を照らすナトリウム灯のオレンジ色の光が、彼の身体を透過して屈折し、美しいプリズムとなって周囲の雑草を照らした。彼は自分が「宮下」という狭い肉体から溢れ出し、丘の地面へ、街を包む霧へ、そして世界そのものへと拡大していくのを感じていた。
バサリ、と大きな音がした。
中身を完全に失った宮下のトレンチコート、シャツ、ズボンが、重力に従って地面の泥の上に崩れ落ちた。コートのポケットから転がり出た腕時計や財布、そして真鍮の羅針盤が、衣服の脇に綺麗に整列するように配置された。
宮下であった数リットルの純水は、足元のぬかるみへと吸い込まれ、すでにそこに存在していた「乾たち」の流れへと完全に同化していった。
後には、静かに回り続けるボイスレコーダーと、誰の姿もない静寂な空き地だけが残された。ナトリウム灯の光だけが、新しく増えた「衣服の抜け殻」を、哀れむように照らし続けていた。
宮下が丘の上の空き地で消え去ってから、ちょうど一か月が経過した。
都内にある小さな民間保険調査会社のオフィスは、夕暮れ時の忙しなさに包まれていた。電話の呼び出し音や、パソコンのキーボードを叩く音が響く中、宮下の同僚である小林は、自分のデスクの前に置かれた大きめの段ボール箱を前にして首を傾げていた。
箱には送り主の氏名がなく、ただ「地方発送」のスタンプと、宮下が調査に向かったあのベッドタウンの消印だけが押されていた。
「宮下さんの荷物かな……。あの人、一ヶ月も連絡がつかないと思ったら、こんなものを送りつけてきて」
小林はハサミで段ボールのテープを切り、中身を取り出した。
最初に目に入ったのは、酷く泥に汚れた一眼レフカメラだった。レンズの中にまで水が入った形跡があり、完全に壊れているように見える。次に、見覚えのある真鍮製の古い羅針盤。しかし、中央のガラス器は粉々に割れており、中には何も入っていなかった。
そして箱の底には、泥に塗れた一台のコンパクトなボイスレコーダーと、数枚の紙の束が入っていた。紙の束は何度も水に濡れたかのように波打っており、端が茶色く変色している。表紙には『常夜灯の歪み』と手書きで題されていた。
「何これ……心霊スポットのルポのつもり?」
小林は呆れたように息を吐きながら、ボイスレコーダーを手に取った。液晶画面は生きている。彼女は何気なく、再生ボタンを押した。
ザーーーーーーーーーー。
スピーカーから流れてきたのは、凄まじい音量の「波の音」だった。まるで、防波堤に巨大な台風の波が打ち付けているかのような、生々しく激しい音圧。小林は顔をしかめ、音量を下げようとした。
『……これは……病気じゃない……淘汰だ……我々は最初から、一つの器に戻るために……』
ノイズの向こうから、明らかに宮下のものと思われる声が聞こえた。しかし、その声はまるで水の中に潜りながら叫んでいるかのように、酷くこもって歪んでいた。小林の背筋に、冷たいものが走った。
「宮下さん……? 何言ってるの……?」
音がさらに乱れ、ゴボゴボという激しい水泡の音がスピーカーを揺らした。そして、ノイズが最高潮に達した瞬間、波の音がピタリと止み、完全に静寂が訪れた。
壊れたのかと思い、小林がレコーダーに耳を近づけたその時、スピーカーから、先ほどよりもはっきりと、しかし人間のものとは思えないほど冷徹で、こもった声が響いた。
『……次は、君の番だ』
「キャッ……!」
小林は悲鳴を上げ、ボイスレコーダーを机の上に放り出した。レコーダーはプラスチックの音を立てて転がり、デスクの端にあった彼女のマグカップに激突した。
ガシャリと音がして、マグカップが倒れ、中に並々と入っていた冷たい緑茶が机の上に広がった。
「最悪……」
小林は急いで引き出しからティッシュペーパーを取り出し、こぼれた液体を拭き取ろうとした。しかし、その手を途中で止めた。
オフィスの蛍光灯の光の下で、奇妙な現象が起きていた。
倒れたマグカップから溢れ出た緑茶は、机の木目や書類を濡らして広がるはずだった。しかし、その液体は一切デスクの表面に染み込むことなく、まるで水銀のように完璧な丸い水滴となり、机の上を「自らの意思で這うように」移動していたのだ。
しかも、その水滴は、ティッシュを持っている小林の指先に向かって、じわじわと、確実に距離を詰めるように流れてきていた。
「嘘……何これ……」
小林は椅子ごと後ろに下がろうとした。しかし、なぜか身体が思うように動かない。全身が妙に重く、同時に、内側から細胞の一つ一つが「弛緩」していくような、奇妙な感覚が彼女を支配し始めていた。
ふと見ると、デスクの上にこぼれた緑茶の水滴は、いつの間にか緑色を完全に失い、光を一切反射しない「完璧な純水」へと変質していた。
小林は恐怖に震えながら、自分の右手を見つめた。
ティッシュを握っている彼女の人差し指の爪の付け根が、蛍光灯の光を透過して、うっすらと、しかし確実に透明へと変わりつつあった。彼女の皮膚の境界線が、オフィスの乾燥した空気の中に、湯気のような微細な液滴となって溶け出し始めている。
オフィスの窓の外では、いつの間にか季節外れの濃い灰色の霧が立ち込め、都会のビル群を静かに、跡形もなく包み込み始めようとしていた。耳の奥で、あのザー、ザーという波の音が、再び大きく鳴り響き始めていた。




