(サスペンス)常夜灯の歪み 一話目
その街の夜は、常に灰色を帯びた湿気の中にあった。地方都市の片隅、かつては炭鉱で栄え、今はただ老いていくだけのベッドタウン。街灯の多くは LED に切り替わることもなく、古いナトリウム灯がオレンジ色の、どこか病的な光をアスファルトに落としている。
私、乾は、その街の警察署で刑事課に籍を置いている。といっても、華々しい捜査一課の連中のように凶悪犯を追い詰めるような役回りではない。私の主な仕事は、未解決事件の書類整理と、時折舞い込む「奇妙だが事件性の薄い」相談事の処理だった。要するに、窓際だ。
「乾さん、またこれですか」
後輩の若手刑事、佐々木が私のデスクに置かれた茶封筒を見て眉をひそめた。封筒の端は擦り切れ、何度も開封された跡がある。中身は一冊の古いノートと、数枚のモノクロ写真だ。
「ああ。例の『水槽の家』の件だ」
私は眼鏡を指で押し上げながら、写真を一枚手に取った。
昭和五十八年の秋。その家で、一人の男が消えた。
男の名は藤堂一臣。当時四十二歳。地元の名士であり、奇妙な骨董品やアクアリウムを趣味とする資産家だった。彼はある夜、施錠された自邸の書斎から忽然と姿を消した。
この事件が「未解決」と呼ばれるのは、単に行方不明だからではない。
藤堂が消えた書斎には、部屋の壁一面を占める巨大な水槽があった。幅三メートル、高さ一・五メートル。その水槽の中に、彼の「衣服」と「持ち物」のすべてが、まるで人間がそのまま溶けて消えたかのような形で沈んでいたのだ。
三つ揃えのスーツ、ネクタイ、下着、靴下。さらには腕時計や、ポケットに入っていたはずの財布、小銭、鍵の束にいたるまで。それらは水底の砂の上に、綺麗な人型を保つようにして配置されていた。だが、肉体だけがどこにもなかった。水槽のガラスはすべて内側から施錠された部屋の中で無傷であり、水が濁った様子も、血痕の一滴すらも見つからなかった。
「もう四十年以上前の話でしょう。当時、散々捜査して、結局『自発的な失踪』か『狂言』ってことで片付いたんじゃないんですか」
佐々木が呆れたように言う。
「いや、公式には『行方不明』のままだ。藤堂の資産は、奇妙な遺言状によってすべてそのまま凍結されている。そして何より、この事件には『続き』があるんだ」
私はノートを開いた。それは当時の捜査を独自に行っていた、私の前任者――すでに故人となった老刑事の備忘録だった。
そこには、事件から十年後、二十年後に、その家を訪れた人間が「同じように消えた」という都市伝説めいた噂話が、克明な日付と共に記録されていた。
「そして昨日、その『水槽の家』の現在の管理会社から連絡があった。また一人、人間が消えたとね」
佐々木の顔から軽薄な笑みが消えた。
藤堂邸は、街外れの丘の上にひっそりと佇んでいた。大正時代に建てられたという洋館は、蔦に覆われ、まるで巨大な植物の塊のようだった。
管理会社の担当者である沼田という男が、震える手で鍵を開け、私たちを中に案内した。
「消えたのは、うちの若い社員の坂口です」
沼田は額の汗を拭いながら言った。
「この物件、近々解体されることになりましてね。その前の遺品整理と、内部の確認のために、一週間前から坂口が一人で通っていたんです。ところが、一昨日の夕方、彼から『妙なものを見つけた』と電話があって以来、連絡が取れなくなりました」
「妙なもの?」
「はい。電話口で彼は、妙に興奮した声で『水槽が動いている』と言ったんです。何を馬鹿なことを、と思って昨日の朝、様子を見に来たら……車は庭に置いたままで、本人の姿だけがありませんでした」
私たちは、一階の奥にある書斎へと向かった。
重厚なマホガニーの扉を開けると、カビと、それから微かな「潮の香り」が鼻を突いた。
部屋の中央には、埃を被った机と椅子。そして正面の壁には、事前に写真で見ていた通りの巨大な水槽が鎮座していた。
水槽はすでに干上がっているはずだった。四十年の歳月が流れているのだ。当然、水など残っているわけがない。
だが、私たちの目の前にある水槽には、並々と水が満ちていた。
いや、それは水と呼ぶべきなのだろうか。光を全く反射しない、不自然なほど透明な液体。その底に、何かが沈んでいた。
私は思わず息を呑んだ。
水底の砂の上に、現代的なポリエステル製のスーツ、青いワイシャツ、そしてスマートウォッチと、社員証の入ったネックストラップが、やはり綺麗な「人型」を模して沈んでいた。
「坂口……」
沼田が悲鳴のような声をあげて、へたり込んだ。
佐々木が素早く水槽に近づき、ガラスに手を触れようとした。
「待て、触るな!」
私の制止の言葉より一瞬早く、佐々木の指先がガラスに触れた。
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
ガラスの向こうの水が、ゴボリ、と大きな気泡を一つ上げた。沈んでいたスーツの袖が、まるで水流に煽られたかのように、ゆらりと動いた。
「乾さん、これ……冷たくないです。温かい」
佐々木が怪訝そうな顔で言った。
「いや、温かいっていうか、生ぬるい。人間の体温みたいだ」
私は周囲を観察した。
部屋の窓はすべて内側から鍵がかかっている。空調は動いていない。そもそも、この家に電気は通っていないはずだ。では、この数トンの水を、一体誰が、どうやってここに運び込んだのか?
そして、なぜ坂口の衣服だけが、四十年前の藤堂一臣と全く同じスタイルで水底に沈んでいるのか。
私は机の上に残されていた坂口のスマートフォンを回収した。ロックはかかっていなかった。最後に開かれていたのは、録音アプリだった。
「これを聞いてみよう」
再生ボタンを押すと、酷いノイズと共に、坂口の声が流れ出した。
『……おかしい。水が入っている。昨日までは空だったはずだ。どこから水が? いや、これは水じゃない。匂いが……。 何か聞こえる。水槽の中から、誰かが俺の名前を呼んで……。藤堂さん? いや、違う。これは、俺の……』
そこで音声は途切れていた。最後の方の声は、まるで水中から喋っているかのように、酷くこもって歪んでいた。
翌日から、本格的な捜査が始まった――と言いたいところだが、警察上層部の動きは鈍かった。
死体がない。事件性を証明する証拠もない。あるのは、水槽の中に沈んだ衣服と、不可解な録音だけだ。上層部は、坂口が何らかの理由で自作自演の失踪を遂げたか、あるいは借金か女性トラブルによる逃亡だと決めつけた。衣服については「現場にあった古いものを着替えて、自分の服を水槽に投げ入れたのだろう」という、呆れるほど雑な見立てがなされた。
「納得いきませんよ」
署の屋上で、佐々木が缶コーヒーを握りしめながら毒づいた。
「あの水槽の液体、鑑識に回したら何て言われたと思います? 『ただのH2O、極めて純度の高い蒸留水だ』ですよ。不純物が一切混ざっていない。水槽の底の砂から出た微細な塵すら、液体の中には浮遊していないんです。そんな水、自然界にも、あんな放置された廃屋にも存在するわけがない」
「純水、か」
私は前任者のノートをめくっていた。
「四十年前の事件でも、当時の鑑識が同じことを言っていたよ。『水が綺麗すぎる』とね」
「乾さん、何か知ってるんですか。この事件の裏について」
「裏、というほどのものじゃないがね。藤堂一臣という男の経歴を調べていたんだ。彼は若い頃、南方のある島に渡っていた時期がある。当時の日本軍の秘密研究所があったとされる島だ」
「秘密研究所?」
佐々木が食いついてきた。
「そこで彼が何を研究していたのか、あるいは何を『持ち帰った』のかは分からない。ただ、帰国後の彼は、急速に資産を増やし、同時にアクアリウムに異常な執着を見せるようになった。彼は周囲にこう漏らしていたそうだ。『完璧な環境を作れば、世界はその中に収まる』と」
「意味がわかりませんね」
「私にも分からんよ。だが、彼が消える直前に書いたとされる、未発表の手記が、このノートの記述の中に抜粋されている」
私はノートの一節を指でなぞった。
『我々の肉体は、本質的に水袋に過ぎない。海から生まれた我々は、常に内なる海を抱えて歩いている。もし、その内なる海を、外なる「完璧な海」と同期させることができたなら、境界線は消失する。衣服という名の皮膚の抜け殻を残して、我々は本来あるべき広大なるものへと還るのだ』
「オカルトですよ、そんなの」
佐々木は鼻で笑ったが、その声は少し震えていた。
「ああ、オカルトだ。だが、現に二人の人間が、同じ部屋で、衣服だけを残して消えた。これは厳然たる事実だ」
その夜、私は一人で再び藤堂邸を訪れた。
なぜそんな行動をとったのか、自分でもうまく説明できない。ただ、あの水槽の液体が、私を呼んでいるような、奇妙な焦燥感に突き動かされていた。
夜の藤堂邸は、昼間よりも一層不気味だった。常夜灯のオレンジ色の光が、窓ガラス越しに書斎へと差し込み、部屋の中に長い、歪んだ影を作っている。
扉を開け、書斎に入る。
驚いたことに、昼間よりも水槽の水位が上がっているように見えた。いや、上がっているのではない。水槽のガラスそのものが、わずかに「膨らんでいる」ように見えた。
私は机に近づき、藤堂一臣が残したという骨董品の中に、何か手がかりがないか探した。
引き出しの奥から、古い真鍮製の羅針盤のようなものが出てきた。しかし、針はない。代わりに、中央に小さなガラスの器があり、そこには乾いた、黒い物質がこびりついていた。
「……乾、さん?」
背後から声がした。
振り返ると、そこに佐々木が立っていた。
「佐々木? なぜここに」
「気になって、先輩の後を追ってきたんですよ」
佐々木は笑っていたが、その目はどこか虚ろだった。
「ねえ、乾さん。昼間、俺、あの水に触りましたよね」
「ああ、触るなと言ったのに触ったな」
「あの時から、ずっと耳鳴りが止まらないんです。ザー、ザーって。波の音みたいな、あるいは、大勢の人間が同時に囁いているような音が」
佐々木が一歩、水槽に向かって歩を進めた。
「佐々木、離れろ!」
「綺麗だと思いませんか、あの水。見てください、坂口の服の隣に、もう一つ、別の服が見えます」
私は水槽に目を凝らした。
確かに、そこにはもう一着分の「人型」が形成されつつあった。それは古い、すり切れたトレンチコート。……私の前任者、あのノートを遺した老刑事が、現役時代に愛用していたものと酷似していた。
「まさか……あいつも、ここに……」
「みんな、ここにいるんですよ」
佐々木が水槽のガラスに両手をペタリと押し当てた。
「藤堂も、坂口も、あの古い刑事も。みんな、溶けたんじゃない。広がったんだ。この水の中に。乾さん、ここは狭すぎます。俺たちの体は、あまりにも狭い器だ」
「佐々木!」
私は彼の肩を掴んで引き剥がそうとした。
しかし、佐々木の体は、驚くほど軽かった。いや、軽いのではない。まるで、中身が急速に「液体化」しているかのように、手応えがなかった。彼の服の上から触れた肉体は、ぐにゃりとした不自然な柔らかさを持っていた。
パキ、と音がした。
水槽のガラスに、一本の亀裂が入った。
そこから、あの「純水」が、一滴、また一滴と床に滴り落ちる。
水が床に触れた瞬間、それは激しく気化するわけでもなく、ただ床の木材を「透過」するようにして、消えていった。いや、木材そのものが、その水に浸食されて、透明に変質していくようだった。
「ああ、始まる」
佐々木が恍惚とした表情で呟いた。
彼の皮膚から、微かな湯気のようなものが立ち上った。いや、それは湯気ではない。目に見えないほどの微細な液滴の霧だ。
佐々木の顔の輪郭が、常夜灯の光の中で歪み始める。彼の目から、鼻から、口から、無色透明な液体が溢れ出してきた。それは涙でも血でもなく、あの水槽と同じ、完璧な純水だった。
「佐々木! しっかりしろ!」
私は彼を抱きとめようとしたが、私の手は彼の衣服を突き抜け、ただ虚空を掴んだ。 彼の着ていた警察の制服、ワイシャツ、ネクタイが、そのままの形で床に崩れ落ちた。
そして、その衣服の中から、大量の「水」が溢れ出し、床を濡らすこともなく、そのまま水槽の亀裂へと吸い込まれるようにして、ガラスの向こう側へと移動していった。
ほんの数秒の出来事だった。
私の目の前には、佐々木が着ていた服と、彼の警察手帳、そして腕時計だけが、床の上にぽつんと残されていた。
水槽の中を見ると、新たに四つ目の「人型」が、佐々木の制服の形で、静かに水底へと沈んでいくところだった。
私は恐怖のあまり、その場にへたり込んだ。
水槽のガラスの亀裂は、いつの間にか綺麗に塞がっていた。水位はさらに上がり、今や水槽の縁から溢れんばかりになっていた。
その水面は、鏡のように私の顔を映し出していた。
だが、映っている私の顔は、私の知っている顔ではなかった。それは、無数の人間の顔が、波打つ水面の中で混ざり合い、溶け合っているような、悍ましい何かだった。
翌朝、私は一人で署に出勤した。
佐々木の捜索願が出されたが、私は何も話さなかった。話したところで、誰が信じるだろうか。
「部下は水になって水槽に吸い込まれました」
などと言えば、真っ先に私が精神鑑定に送られるか、あるいは殺人容疑で逮捕されるだけだ。
事件は、結局「解決」しなかった。
坂口の失踪も、佐々木の失踪も、四十年前の藤堂一臣の失踪も、すべては「未解決の行方不明事案」として、警察のデータベースの奥底に埋もれていく。
数日後、藤堂邸は予定通り解体された。
私は解体作業の初日に立ち会った。あの巨大な水槽がどう処理されるのかを見届けるためだ。
しかし、作業員たちが書斎に入ったとき、そこには何もなかった。
水槽も、机も、床に残されていたはずの佐々木の衣服も。
部屋全体が、まるで最初から存在しなかったかのように、ただの空っぽの空間になっていた。壁のコンクリートは、不自然なほど滑らかで、湿気すら残っていなかった。
「最初から、何もなかったんじゃないですか?」
解体業者の親方が、首を傾げながら私に言った。
「図面には確かに『書斎』って書いてありますけど、これじゃただの物置ですよ」
私は何も答えず、ただ街を包む灰色の霧を見つめていた。
今でも、雨の降る夜には、耳の奥で音がする。
ザー、ザーという、あの波の音が。
そして、私の皮膚が、わずかに生ぬるく、湿気を帯びていくのを感じる。
私たちは、本当にこの肉体という器の中に収まっているのだろうか。
それとも、すでにあの「完璧な海」の一部であり、ただ自分が個体であるという錯覚を維持しているだけなのだろうか。
その答えを知る者は、もうこの世界には誰もいない。
彼らはみんな、あの常夜灯の光の向こう側で、豊かに、広大に、流れているのだから。




