第六話 測れるもの――不足
三つ目の検査室には、机も器具もなかった。
中央に椅子が五脚並び、正面の壁には白い幕が下がっている。
「次は視覚と記憶の検査です」
補助員が説明した。
「幕へ図形、数字、短い文章、人物の顔を順に映します。後で質問します」
部屋の灯りが落とされた。
白い幕へ、黒い円が三つ現れる。
次に、三角形と四角形が混ざった図。
数字の列。
短い文章。
帽子を被った男の顔。
髪を結った女性。
地図。
荷車。
橋。
倉庫。
一枚ごとの時間は短い。
琳斗は、すべてを覚えようとした。
数字は、七、二、九、四、四、一。
文章は、「東門は正午に閉鎖される」。
男の帽子には細い帯がある。
女性の左耳に小さな飾りがある。
地図には川が一本。
橋は二本だっただろうか。
次の絵が出るたび、前の絵が薄くなる。
最後の画面が消え、部屋が明るくなった。
机が運び込まれ、解答用紙が配られる。
一問目。
最初に出た円はいくつか。
三つ。
二問目。
数字列の四番目は何か。
四。
三問目。
文章中で閉鎖される門はどこか。
東門。
四問目。
男の帽子の帯は何色だったか。
映像は白黒だった。
色は分からない。
琳斗は「判別不能」と書いた。
五問目。
女性の耳飾りは左右どちらにあったか。
左。
六問目。
地図に描かれた橋はいくつか。
琳斗は手を止めた。
二本だと思う。
しかし、一方は橋ではなく、川を横切る境界線だったかもしれない。
二と書く。
七問目。
倉庫の前に置かれた箱はいくつか。
そこまで見ていなかった。
空欄にする。
「終了です」
解答用紙が集められた。
隣に座っていた有馬千景は、最後まで鉛筆を動かしていた。
艶のある黒髪を肩の辺りで揃え、姿勢は柔らかい。急いでいたようには見えない。
補助員が用紙を確認する。
「有馬さん。七問目は、箱が六つと?」
「はい」
「どのように並んでいましたか」
「手前に二つ、奥に四つです。奥の右端だけ、ほかより少し小さかったです」
「倉庫の扉は開いていましたか」
「右側だけ開いていました」
「地図の橋は?」
「一本です。もう一本に見えた線は、行政区分の境界だと思います」
琳斗は、自分の答えを思い出した。
二本と書いた。
「男の帽子の帯は何色でしたか」
「分かりません」
「覚えていない?」
「白黒の映像だったので、色は判別できません」
補助員が記録用紙へ目を落とす。
「女性の耳飾りは?」
「左です。ただ、耳飾りではなく、髪留めの一部かもしれません」
「なぜ、そう思いましたか」
「耳の後ろの髪にも、同じ形の光がありました」
有馬は穏やかに答えた。
自信を誇る様子はない。
「すべて覚えようとしましたか」
「最初は」
「途中からは?」
「あとで質問されそうな所を見ました」
「どこが質問されそうだと?」
「数、左右、違い、文章の主語と時刻です」
補助員の鉛筆が止まる。
「顔そのものは?」
「覚えています」
「人物をもう一度見た時、識別できますか」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「髪型や服装が変われば、間違えるかもしれません」
有馬は微笑んだ。
「顔だけを見たわけではないので」
琳斗は、幕が下りた壁を見る。
同じ映像だった。
見ている時間も同じだった。
それでも、自分が見落とした箱を、有馬は数えていた。
◇
次に幕へ映されたのは、簡単な物資表だった。
米袋十二。
水樽八。
毛布十五。
医薬箱六。
輸送に使える荷車は三台。
各荷車には、米袋四つ、水樽二つ、毛布五枚、医薬箱二つまで載せられる。
すべてを運ぶには、何往復必要か。
学生たちは計算用紙へ数字を書き始めた。
琳斗は品目ごとに必要な荷車数を出す。
米袋十二なら三台。
水樽八なら四台分。
毛布十五なら三台。
医薬箱六なら三台。
一度に三台を使える。
最大となる水樽が四台分なので、二回。
答えは二往復。
そう書こうとした時、斜め前の学生が手を挙げた。
「質問があります」
藤堂がそちらを見る。
「どうぞ」
「荷車一台につき水樽二つなら、三台で一度に六つです。二往復すれば十二まで運べます」
「そうですね」
「ですが、ほかの品物と一緒に積む場合の総重量が書かれていません」
教室が静かになる。
「この条件では、品目ごとの上限を同時に満たせるか判断できません」
学生は計算用紙を見た。
「荷車に、米袋四つと水樽二つと毛布五枚と医薬箱二つを、全部同時に積めるという意味ですか。それとも、いずれか一種類の上限ですか」
藤堂は答えず、補助員へ目を向けた。
補助員が手元の問題票を確認する。
短い沈黙があった。
「問題文の記載が不足しています」
藤堂が言った。
「正確には、すべて同時に積載可能という条件です」
数人が計算を再開する。
琳斗は、まだ答えを書いていなかった用紙を見る。
自分は、同時に積めるものとして計算していた。
疑問を持たなかった。
質問した学生は、主要な十人の一人ではない。
名前を呼ばれていたはずだが、琳斗は思い出せなかった。
藤堂は問題票の端に何かを書き込んだ。
「指摘を記録します。ありがとう」
「はい」
学生は静かに座った。
検査が再開される。
琳斗は二往復と記入した。
正解ではある。
しかし、条件が足りないことには気づかなかった。
◇
その次の問題では、条件が一つずつ加えられた。
一台は車輪に不具合があり、速度が半分になる。
一本の橋は、一度に一台しか渡れない。
医薬箱は、ほかの荷物より先に到着させる。
途中で雨が降った場合、毛布は覆いのある荷車へ積まなければならない。
学生たちは、荷車の組み合わせと順序を書き換えていく。
琳斗は表の端へ、行きと帰りの時間を書き足した。
一台目が橋を渡る。
二台目は待つ。
三台目も待つ。
最初の荷車が戻らなければ、次の荷を運べない。
紙の上で荷車を往復させる。
米袋が残る。
水樽が残る。
医薬箱は先に届いた。
しかし、空になった荷車の帰路が計算から抜けている。
書き直す。
隣では、皇が別の表を作っていた。
筆跡は細く、欄が整っている。
三台の荷車だけでなく、積み込み役、橋の誘導役、荷下ろし役へ人数を割り振っていた。
「人員数は条件にありません」
補助員が指摘する。
「はい」
皇は顔を上げた。
「仮に六名と置きました」
「なぜ六名ですか」
「三台に一名ずつ。積み込みと荷下ろしに二名。橋の誘導に一名です」
「その六名は、役割を交代できますか」
「できます」
「疲労は?」
皇の鉛筆が止まる。
「条件にありません」
「では、考慮しなくてよいと思いましたか」
皇はすぐには答えなかった。
「今回の計算上は」
「分かりました」
補助員が記録する。
皇は再び用紙へ目を落としたが、先ほどまでより長く、六名と書いた欄を見ていた。
琳斗は自分の紙を見る。
こちらには、人の数さえ書いていない。
荷車の動きだけを追っていた。
「残り一分です」
藤堂の声がする。
琳斗は最後の荷車が戻る時刻を書き込む。
そこで気づいた。
戻った荷車を、誰が次の積み込み場所へ動かすのか。
御者は同じ人間なのか。
交代するのか。
答えを書き終えた後も、空欄の外側へ小さく書き足した。
荷車は戻るか。
「終了してください」
鉛筆を置く。
用紙が集められた。
藤堂は琳斗の紙を見て、欄外の文字で手を止めた。
「これは、解答ですか」
「違います」
「では?」
「途中で気になったので」
「荷車が戻ることが?」
「戻らないと、次の荷を運べません」
「問題には、往復すると書いてあります」
「はい。でも、戻る時間と、戻った後に積む人が要ります」
藤堂は用紙を裏返し、何か記入した。
「最初から考えていましたか」
「いいえ」
「いつ気づきました?」
「最後です」
「それも記録しておきます」
琳斗はうなずいた。
もっと早く気づいた方がよかったのだろうか。
それとも、最後でも気づいたことが記録になるのだろうか。
正しい答えを書いても、足りないことがある。
条件が書かれていなければ、自分で補う。
しかし、補ったことに気づかなければ、それは最初からあった条件のように見えてしまう。
琳斗は回収されていく用紙を見た。
自分が見ていたのは、荷車だった。
皇が見ていたのは、荷車を動かす人だった。
質問した学生が見ていたのは、問題そのものに欠けている条件だった。
同じ問いを与えられても、誰も同じ不足には気づかない。
だから、一人で考えた正解だけでは、足りないのかもしれなかった。




