第七話 測れるもの――本人
次の検査室には、五つの椅子が横一列に並んでいた。
正面には薄い布の衝立が立ち、その向こう側は見えない。
壁際には蓄音機に似た装置が置かれ、何本もの線が隣室へ延びている。
「次は聴覚検査です」
補助員が言った。
「衝立の向こうから、複数の音を同時に聞かせます。聞こえた音の種類、回数、方向を用紙へ記入してください」
琳斗は椅子へ座った。
机はない。
膝の上に板と解答用紙を置く。
「最初は一種類ずつです」
部屋が静かになる。
右側から、鐘が一度鳴った。
続いて左側から、木を叩く音。
正面から、靴音が三つ。
後方から、水を注ぐ音がした。
琳斗は順に書き込む。
鐘。
木。
靴、三。
水。
「次は二種類を重ねます」
右側から鐘。
同時に正面から靴音。
鐘は二回。
靴音は四回だったと思う。
続いて、木を叩く音と人の声。
「東」
短い声だった。
琳斗は木の音を二回と書き、声の欄へ東と記した。
音が止まる。
「次は、複数の声を含みます」
衝立の向こうで、何人かが一斉に話し始めた。
「西門」
「荷車が二台」
「正午」
「橋は使用できない」
男の声。
女の声。
低い声。
少し掠れた声。
さらに、鐘と靴音と金属を擦る音が重なる。
琳斗は声を追おうとした。
西門。
荷車二台。
正午。
橋。
靴音はいくつだったか。
鐘は鳴っただろうか。
声を一つ拾うと、別の音が薄くなる。
金属音を数えようとすると、話の内容が抜ける。
「終了です」
琳斗は鉛筆を置いた。
用紙には、空欄がいくつも残っていた。
隣では、榊原宗介がまだ衝立を見ている。
補助員が解答用紙を確認した。
「榊原君。四人の発言を、すべて記録していますね」
「はい」
「話した順番も分かりますか」
「最初が低い男の声で『西門』。次が女性の声で『荷車が二台』。その後、少し掠れた男の声が『正午』。最後が高めの男の声で『橋は使用できない』です」
「同時に話していた部分も?」
「分けられます」
「鐘は何回鳴りましたか」
榊原は答えなかった。
わずかに眉を寄せる。
「……鐘も鳴っていましたか」
「二回です」
「聞いていませんでした」
「靴音は?」
「声の後ろにありました。五回だと思います」
「正解は六回です」
榊原は衝立へ目を向けた。
「声を聞いている間に、一つ落としました」
「どの声が、最も聞き取りにくかったですか」
「ありません」
「すべて同じように聞こえた?」
「違います。でも、分けられます」
「では、鐘を聞き落とした理由は?」
榊原は少し考えた。
「声を優先したからだと思います」
補助員が記録する。
「意識して優先しましたか」
「いいえ」
「分かりました」
琳斗は自分の用紙を見る。
自分は鐘が鳴ったことには気づいた。
しかし、話した順番も、靴音の回数も曖昧だった。
榊原は四人の声を分けて覚えていた。
代わりに、鐘を聞き落とした。
多く聞こえることと、すべてを聞けることは同じではないらしい。
◇
最後の検査室には、同じ形の金属片と小さな木箱が並んでいた。
金属片には、表裏で異なる刻印がある。
「金属片を一枚ずつ確認し、丸印を上にして箱へ入れてください」
補助員が説明した。
「一箱につき二十枚。終わったら隣の箱へ移ります」
白瀬が金属片を一枚持ち上げる。
「これだけですか?」
「最初は」
「最初は?」
「作業中に別の課題を加えます」
白瀬は金属片を戻した。
「やっぱり」
「速さだけでなく、正確さの変化を見ます。手や目に異常を感じた場合は、すぐ申告してください」
五人が席に着く。
「始めてください」
琳斗は最初の金属片を取った。
丸印。
箱へ入れる。
次は線印。
裏返して丸印を上にする。
箱へ入れる。
同じ作業を繰り返す。
一枚。
二枚。
三枚。
最初の箱は問題なく終わった。
二箱目の途中で、指先が少し冷たくなる。
三箱目に入る頃には、表裏を確認した直後なのに、箱へ入れる前にもう一度見直すことが増えた。
「続けながら答えてください」
補助員が言った。
「二足す七は?」
「九です」
「九から四を引くと?」
「五です」
「青、赤、黄。この順番を覚えてください」
琳斗は金属片を裏返す。
「青、赤、黄」
「四足す八は?」
「十二です」
「先ほどの色は?」
「青、赤、黄です」
作業は続く。
「次から、丸印ではなく線印を上にしてください」
琳斗の手が止まりかけた。
持っていた金属片は、すでに丸印を上にしている。
裏返して線印を上にする。
一枚。
二枚。
三枚。
「六足す九は?」
「十五です」
「黄色の次は?」
琳斗は一瞬考えた。
何の次だろう。
先ほどの三色か。
「ありません」
「正解です」
次の金属片を取る。
丸印が上を向いている。
反射的にそのまま箱へ入れかけ、止めた。
今は線印だ。
裏返す。
五箱目で、指先が重くなった。
金属片を一枚落とす。
硬い音が床へ響いた。
「続けられますか」
「はい」
拾おうとすると、補助員が制した。
「落とした物はそのままで構いません」
琳斗は次の一枚を取った。
「七、二、五。覚えてください」
「七、二、五」
「三足す六は?」
「九です」
「先ほどの数字は?」
「七、二……」
五。
そう思った時には、手が丸印を上にしていた。
箱へ入れた後で気づく。
「間違えました」
「作業を続けてください」
補助員は訂正させなかった。
琳斗は次の金属片を取る。
今度は線印を確認する。
しかし、先ほどの一枚が気になり、次の数字の問いを聞き逃した。
「終了してください」
手を止める。
指を開くと、関節が少し固くなっていた。
補助員が箱の中を確認する。
「四箱目までは、誤りがありません」
「五箱目で一枚間違えました」
「自分で気づきましたか」
「入れた後に」
「その前に何をしていました?」
「数字を覚えて、計算をしていました」
「作業そのものは難しかったですか」
「いいえ」
「では、なぜ間違えたと思いますか」
琳斗は金属片を見る。
「別のことを考えながら、同じ作業を続けたからです」
「疲れは?」
「指が少し重くなりました」
「いつ頃から?」
「三箱目の途中です」
「その時、申告しようと思いましたか」
「続けられたので、しませんでした」
補助員は記録用紙へ書き込んだ。
「続けられることと、精度が変わらないことは別です」
「はい」
立ち上がろうとした時、琳斗の上衣が肩へ引っ掛かった。
腕を動かすと、背中の布が強く張る。
補助員がその動きを見た。
「制服は、昨日交換を申し出た物ですか」
「はい。まだ交換品が届いていません」
「肩の動きに影響していますね」
「検査結果に入りますか」
「入れます」
「服が合っていないことも?」
「条件の一つです」
琳斗は上衣の肩を見た。
自分の能力だけを測っていると思っていた。
けれど、制服の寸法も、指の疲れも、同時に考えた数字も、結果を変える。
何が本人で、何が条件なのか。
その境目も、簡単には分けられないのかもしれない。
◇
すべての検査を終えると、二十五名は最初の待機室へ戻された。
窓の外に雨は降っていない。
厚い雲が、校舎の上へ広がっている。
朝には整っていた髪が乱れている者。
机へ肘をつきかけ、慌てて戻す者。
指を開いたり閉じたりしている者。
黒木は椅子へ深く座り、腹へ手を当てていた。
「今度こそ腹減った」
「今度は分かる」
隣の日に焼けた少年が答えた。
「朝も分かれよ」
「朝は早えよ」
「腹に早いも遅いもあるか」
黒木の声は大きくない。
それでも、近くの学生が笑った。
白瀬は机へ頬杖をつき、配られた検査器具の説明札を読んでいる。
「持って帰れないかな」
相良が隣から言った。
「何を」
「あの歯車」
「駄目だろ」
「聞くだけなら」
「聞くな」
久保田が前を向いたまま止める。
琳斗は自分の手帳を開いた。
精度。
変化。
負荷。
朝に書いた三つの言葉の下へ、検査中に自分ができなかったことを書き足していく。
動く棒を一つ見すぎて、足元を外した。
不完全な指示を、そのまま補ってしまった。
物資表の条件が足りないことに気づかなかった。
荷車の動きだけを追い、人の数を考えていなかった。
映像の箱を数えられなかった。
音が増えると、靴音を聞き分けられなくなった。
単純な作業でも、別のことを同時に考えると順番を間違えた。
書いてみると、できなかったことの方が多い。
それでも、検査を受ける前には気づいていなかったことばかりだった。
琳斗は最後に一行空け、その下へ書いた。
分からなかったことを、次はどう確かめるか。
そこで鉛筆を止めた。
扉が開き、藤堂が入ってきた。
朝と同じ白衣姿だったが、腕には何枚もの記録用紙を抱えている。
「お疲れさまでした」
学生たちが姿勢を直す。
「本日の検査は、これで終了です」
何人かが小さく息を吐いた。
「結果は、数値だけで返却しません。各検査で見られた傾向、精度が変わった条件、当面の訓練案をまとめます」
藤堂は記録用紙を机へ置いた。
「早ければ数日後、遅くとも今月中には、担当教官を通じて個別に説明します」
皇が手を挙げる。
「結果は、学級内で共有されますか」
「原則として、本人と担当教官までです」
「部隊編成に用いる場合は?」
「必要な範囲で共有します。ただし、検査結果を理由に、本人を一つの役割へ固定することは認められていません」
「なぜですか」
皇はまっすぐ藤堂を見た。
「適性が明らかなら、それに合った役割を与える方が合理的ではありませんか」
教室が静かになる。
藤堂はすぐに否定しなかった。
「合理的な場合もあります」
「では」
「ただし、今日の検査で分かるのは、今日、この場所、この条件での結果です」
藤堂は記録用紙の束へ手を置いた。
「身体は成長します。知識も増えます。訓練で変わる部分もあれば、疲労や負傷で失われる部分もある」
皇は黙って聞いている。
「何より、数値が高いことと、その役割を続けられることは同じではありません」
「本人の意思ですか」
「それも含みます」
藤堂は教室全体へ視線を向けた。
「検査は、人を使うためだけに行うものではありません」
少し間を置く。
「壊さないためにも行います」
白瀬が頬杖から顔を上げた。
皇も、それ以上は尋ねなかった。
「質問はありますか」
何人かが手帳を見る。
誰も手を挙げない。
「では、最後に一つだけ」
藤堂は黒板へ向かった。
朝に書いた三つの言葉が、まだ残っている。
精度。
変化。
負荷。
その下へ、新たに一行を書いた。
測定結果は、本人そのものではない。
「これだけは、覚えておいてください」
白墨を置く。
「今日、誰かより速かった。多く覚えた。正確だった。あるいは、遅かった。間違えた。途中で続けられなくなった」
藤堂は学生たちを見る。
「そのどれも、皆さんの一部です」
窓の外で、雲の隙間が少し明るくなった。
「一部を測って、全部が分かったと思わないことです。自分についても、他人についても」
琳斗は黒板の言葉を手帳へ写した。
書き終えた後、その下に空白が残る。
何かを書こうとしたが、言葉が浮かばなかった。
◇
実習棟を出ると、雨は完全に上がっていた。
石畳の窪みに水が残り、雲の切れ目から差した光を映している。
二十五名は、朝と同じように二列で寮へ戻る。
「神代、前」
白瀬が言った。
琳斗は手帳から顔を上げる。
列は止まっていた。
「進んでません」
「そうだね」
「なぜ言ったんですか」
「一度言ってみたかったから」
久保田が振り返る。
「白瀬」
「はい」
「帰ったら、寝台を直せ」
「朝、直したよ」
「毛布の端が出てた」
「見てたの?」
「室長だからな」
「毎日見るつもり?」
「お前が毎日出すならな」
相良が小さく息を吐いた。
「朝と同じ話をしてる」
白瀬は少し考える。
「じゃあ、明日は出さないようにする」
「最初からそうしろ」
列が再び進み始めた。
琳斗は手帳を閉じた。
今日測られたこと。
自分では、できると思っていたこと。
できなかったこと。
できなかった理由さえ、まだ分からないこと。
藤堂の言葉が、手帳の中に残っている。
測定結果は、本人そのものではない。
それなら、この結果をどう使うのか。
琳斗は前を向いた。
答えは、これから学ぶのだろう。




