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第四話 測れるもの――精度


 翌朝、琳斗は起床号令が鳴るより少し前に目を覚ました。

 雨音がする。

 昨夜よりも弱い。窓硝子を細い雫が伝い、軒から落ちる水が一定の間隔で地面を叩いていた。

 向かいの寝台では、久保田がすでに制服へ着替えている。

 相良も起きていた。毛布を剥がし、昨日見た上級生の寝台と同じ形になるよう、端を折り込んでいる。

 白瀬だけが、毛布から顔を半分出していた。

「まだ鳴ってないよ」

「もうすぐ鳴る」

 久保田が帯革を締めながら答えた。

「鳴ってから起きれば間に合う」

「鳴ってから考えるから間に合わなくなるんだ」

「起きるのに考えることある?」

「白瀬、起きろ」

「聞いてるよ」

「起きて聞け」

 廊下から号笛が鳴った。

 白瀬は毛布の中で目を閉じる。

「今、鳴ったね」

「起きろ」

 琳斗は寝台から下りた。

 昨日交換を申し出た制服はまだ届いていない。肩の少しきつい上衣へ腕を通すと、背中の布が引かれた。

「神代、先に着替えろ」

 久保田が言った。

「はい」

「毛布は後だ」

 見ると、琳斗は寝台の端を直しかけたまま、上衣の釦を一つしか留めていなかった。

「すみません」

「謝る前に着ろ」

 後ろで、白瀬がようやく起き上がる。

 柔らかな色の髪が、片側だけ大きく跳ねていた。

「久保田、毎朝、僕を起こすつもり?」

「お前が毎朝起きないならな」

     ◇

 朝食後、特別学級の二十五名は校舎東側の実習棟へ集められた。

 雨はほとんど止んでいる。

 濡れた石畳を、灰色の制服を着た学生たちが二列で進んだ。

 服装が揃うと、昨日より名前と顔を見分けにくい。

 ただし、歩き方は違った。

 濡れた場所でも歩幅がほとんど変わらない者がいる。

 前を歩く者との距離を、測ったように一定に保つ者もいる。

 列の中にいながら、雲の切れ目へ何度も目を向ける者がいる。

 隣の学生と話しながら、後ろから来る者のために半歩だけ位置を変える者もいた。

 誰も同じようには歩いていない。

「神代、前」

 久保田に言われ、琳斗は視線を戻した。

 列が進んでいる。

「すみません」

「昨日も言ったな」

「はい」

「今日は置いていくぞ」

「気をつけます」

 後ろから白瀬が顔を出す。

「何を見てたの?」

「歩き方です」

「誰の?」

「皆さんの」

「面白い?」

「違うので」

「違うだろうね」

 白瀬も前の学生たちを見る。

「でも、同じ場所に行くんだよね」

 列の前方から、大きな腹の音がした。

 何人かがそちらを見る。

 頭一つ大きな少年が腹へ手を当てた。肩幅が広く、支給された制服が少し窮屈そうに見える。

「もう腹減ったなぁ」

 黒木豪だった。

「さっき食ったばかりだろ」

 隣を歩く少年が言った。

 日に焼けた顔に、硬い髪が少し跳ねている。

「朝飯は朝飯だ」

「今も朝だぞ」

「歩いたから減った」

「実習棟まで百歩もねえよ」

「数えたのか?」

「見れば分かる」

「なら、百歩分減った」

 黒木は悪びれる様子もなく答えた。

 近くにいた学生が笑う。

 先頭の上級生が振り返ると、黒木も隣の少年も口を閉じた。

 ただし黒木は、まだ腹をさすっていた。

     ◇

 実習棟の一階には、長い廊下を挟んで複数の検査室が並んでいた。

 壁は白く、窓は大きい。

 薬品の匂いはしない。代わりに、油を差した金属と、新しい紙の匂いが混じっている。

 廊下の端には、色の違う木片、数字を書いた札、大小の球、重り、歯車、紐、棒などが載った棚があった。

 琳斗は棚を見ながら歩いた。

 何に使うのか分からない物が多い。

「触るなよ」

 久保田が言った。

「触っていません」

「顔が触りそうだった」

 学生たちは広い待機室へ通された。

 正面に机が一つあり、その前に三十脚ほどの椅子が並んでいる。

 机の横に立っていたのは、白衣を着た細身の男だった。

 年齢は三十代後半ほどに見える。髪を後ろへ撫でつけているが、軍人らしい硬さはない。

 男は学生たちが着席するのを待ち、一人ずつの顔を確かめるように見渡した。

「おはようございます」

 穏やかな声だった。

 学生たちの返事が、少し遅れて重なる。

「それほど緊張しなくて構いません。今日は、皆さんを落とすための試験ではありませんから」

 白瀬の肩がわずかに下がった。

 男はそれを見たのか、目元だけで笑った。

「ただし、気を抜いてよいという意味でもありません」

 白瀬の肩が元へ戻る。

「私は能力学研究部の藤堂です。本日の検査を担当します」

 藤堂は黒板へ、三つの言葉を書いた。

 精度。

 変化。

 負荷。

「本日、皆さんには同じ検査を受けてもらいます」

 教室の中で、数人が視線を交わした。

「特殊技能を持つ者だけに、別の課題を与えることはありません。技能を持たない者も、技能を持つ者も、ここでは同じです」

 藤堂は一つ目の言葉を指した。

「まず、何がどの程度できるかを測ります」

 次に、二つ目。

「条件を変えた時、結果がどう変わるかを見ます」

 最後に、三つ目。

「情報や作業が増えた時、どこから精度が落ちるかを確認します」

 琳斗は黒板の三語を手帳へ書いた。

 藤堂がそれに気づき、少し待つ。

「書き終わりましたか?」

「あ、はい。すみません」

「構いません。記録の取り方も、人によって違います」

 藤堂は学生全体へ視線を戻した。

「この検査に、万能な高得点はありません」

 誰かが小さく息を吐いた。

「速い者は、速さの中で何を見落とすか。正確な者は、どの条件で正確さを失うか。多く覚えられる者は、不要な情報まで保持してしまわないか」

 藤堂は淡々と続ける。

「皆さんの技能や適性は、すでに複数の体系に整理され、研究されています。しかし、人間は分類表どおりには育ちません」

 黒板の端へ、一本の横線を引く。

「結果から分かるのは、現在地です」

 その先へ、短い線を何本か枝分かれさせた。

「どの能力を伸ばすか。どの訓練を組み合わせるか。どの負荷に慣らすか。それを考える材料にします」

 前列に座る皇が手を挙げた。

 背筋はまっすぐで、黒髪は乱れなく整えられている。

「結果によって、所属兵科が決定されるのでしょうか」

 藤堂は即答しなかった。

 皇が問い終えるまで待ってから、静かに答える。

「検査結果だけで、将来を決めることはありません。本人の希望、学業、訓練成績、身体の成長、教官の観察。すべてを継続して見ます」

「では、今回の結果は」

「訓練を始めるための仮の地図です」

 藤堂は黒板の枝分かれした線を示した。

「地図が正しくても、歩く人間は変わります。道そのものが変わることもある」

 皇はわずかに目を細めた。

「理解しました」

「良い質問でした」

 藤堂は机の上の名簿を閉じる。

「もう一つ、先に伝えておきます」

 学生たちを見る表情は、変わらず柔らかい。

「できなかった時に、取り繕わないでください」

 琳斗は鉛筆を止めた。

「途中で分からなくなった。目が疲れた。音が混ざった。手に力が入らなくなった。そういう変化も、結果の一部です」

 藤堂は軽く手を広げた。

「失敗するまで続ける検査もあります。失敗したから、能力が低いという意味ではありません」

 白瀬が小さく手を挙げる。

「どこまでできるかより、どこからできなくなるかを見るんですか?」

「その両方です」

「できなくなった後も続けます?」

「安全な範囲で」

「安全な範囲は誰が決めるんですか?」

「私たちです」

「それは安全なんですか?」

 教室の何人かが白瀬を見る。

 藤堂は嫌な顔をしなかった。

「その疑問を持つことは大切です。検査器具と手順は、事故例を含めて毎年見直されています。それでも不安があれば、始める前に質問してください」

 白瀬はうなずいた。

「分かりました」

「では、五人ずつに分かれます。ただし、受ける検査は全員同じです。順番だけが異なります」

 補助員が番号札を配り始めた。

 琳斗の札には、三と書かれていた。

     ◇

 最初の部屋には、床へ白い線が引かれていた。

 線の先には、低い台が一つ置かれている。

 左右の壁からは、先端に布を巻いた細い棒が何本も伸びていた。

 棒は一定の間隔で前後へ動く。

「線から台まで進み、台の上で向きを変え、戻ってきてください」

 補助員が説明した。

「棒に触れても構いません。避けることだけを目的にしないでください」

 九条が棒の動きを見ている。

 短く整えた黒髪の下で、目だけが左右へ動いた。

「速さを競うんですか」

 九条が尋ねる。

「時間も測ります。ただし、接触回数、足の置き方、姿勢の乱れも記録します」

「分かりました」

 最初の学生が線へ立った。

 合図と同時に進む。

 一本目の棒を避け、二本目で肩に触れ、台へ乗ったところで足を滑らせかけた。

 補助員は止めない。

 学生が戻ると、別の係が時間と接触回数を書き込んだ。

 九条の番になった。

 合図が鳴る。

 速かった。

 しかし走ってはいない。

 棒が動くより先に避けているように見えた。身体を大きく振らず、足を置く場所もほとんど迷わない。

 台の上で向きを変えた時だけ、靴底が短く鳴った。

 戻ってきた九条へ、補助員が尋ねる。

「途中で見えにくくなった棒はありましたか」

「ありません」

「最初から、すべて見ていましたか」

「はい」

「一本ずつですか。それとも全体を?」

 九条は少し考えた。

「動き始めるところを見れば、次の位置は分かります」

 補助員が記録する。

「ありがとうございます」

 九条はそれ以上説明せず、列の後ろへ戻った。

 次に琳斗の名が呼ばれた。

 白い線の前へ立つ。

 動く棒は六本。

 速さは同じではない。

 一本目と四本目は一定。二本目は途中で少し遅くなる。三本目と五本目は逆方向に動き、最後の一本だけ間隔が長い。

「始めてください」

 琳斗は一歩進んだ。

 最初の棒を避ける。

 二本目の前で少し待つ。

 後ろから来る棒の位置を確かめてから、三歩進む。

 肩へ何かが触れた。

 四本目だ。

 そちらを見たため、足元の白線から片足が外れた。

 台へ着き、向きを変える。

 戻る時には、往路で見た動きが頭に残っていた。

 今度は接触せずに戻る。

「終了です」

 琳斗は息を吐いた。

「往路と復路で、動き方が変わりましたね」

 補助員が言った。

「一度見たので」

「最初から速く進もうとは思いませんでしたか」

「全部の動きが分からなかったので」

「接触した後は?」

「四本目だけを見すぎました」

「なぜ、それが分かりましたか」

 琳斗は床の白線を見る。

「その後、足が線から外れたので」

 補助員が記録する。

「よく自己観察できています」

 褒められたのか、単に事実を言われたのか分からない。

 琳斗は一礼し、列へ戻った。

 九条が壁際に立っていた。

「遅いな」

「はい」

「でも、帰りは当たらなかった」

「一度見ましたから」

「そうか」

 九条はそれだけ言い、次の学生へ視線を戻した。

 琳斗も検査器具を見る。

 同じ道を進んだ。

 同じ棒が動いていた。

 それでも、九条と自分では、見ていたものがまるで違っている。



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