第三話 最初の夜 一
運ばれてきた木箱は、琳斗が想像していたよりも大きかった。
二人の上級生が箱を床へ下ろすと、廊下に鈍い音が響いた。
「第三室、受領者は前へ」
久保田が一歩出る。
「第三室室長、久保田英治です」
上級生は帳面の名簿と久保田の顔を確かめた。
「室員全員で確認しろ。室長だけで受領を済ませるな」
「はい」
もう一人の上級生が、二つの木箱を順に示した。
「被服・寝具、洗面具・生活用品。箱は二つだ。番号と数量を確認し、不足があれば受領後に申し出ろ。勝手に他室と交換するな」
「はい」
四人で箱の側面を確認する。
第三室。
三一七。
三二一。
玄関前で聞いた番号だった。
「さっき足りないと言っていた箱ですね」
琳斗が言った。
「聞いてたの?」
白瀬が尋ねる。
「列の近くで話していましたから」
「番号まで覚えてるんだ」
「二つだけでしたから」
久保田が箱を見下ろす。
「間違いないな。開けるぞ」
白瀬が蓋へ手を伸ばし、途中で止めた。
「釘で閉じてる」
「そうだな」
久保田が箱の縁を確かめる。
「道具は?」
四人が周囲を見回した。
上級生はまだ廊下に立っている。
白瀬が顔を上げた。
「開ける道具は、どこで借りられますか」
「箱の横だ」
箱と壁の間を覗くと、釘抜きが一本置かれていた。
「あった」
白瀬が手を伸ばす。
「箱の周りも見ろ。必要な物は近くに置いてある」
久保田が言った。
「箱が大きくて見えなかったんだよ」
白瀬は釘抜きを持ち上げた。
「貸せ」
「僕がやる」
「蓋まで割るなよ」
「釘を抜くだけだよ」
白瀬は箱の縁へ釘抜きを差し込んだ。
力を入れると、蓋がわずかに浮く。
「そっち、押さえて」
相良と久保田が箱を押さえた。
琳斗も反対側へ手を添える。
一人なら動いたかもしれない箱が、四人で押さえるとほとんど動かない。
白瀬が順に釘を抜いていく。
最後の一本が外れ、蓋が持ち上がった。
中には、灰色の布で包まれた制服が四組入っていた。
それぞれに名前札が付いている。
「神代。白瀬。相良。久保田」
久保田が読み上げる。
「間違いないな」
琳斗は自分の名札が付いた包みを持ち上げた。
思ったより重い。
上衣。ズボン。シャツ。下着。靴下。帽子。
さらに、帯革と小さな布袋が入っている。
「全部、今日着るのかな」
白瀬が上衣を広げた。
「今着ている制服は入学用だ。こっちが学校の制服だろ」
久保田が自分の上衣を身体へ当てる。
「少し大きい」
「成長する分じゃない?」
「三年後まで同じ物を着るつもりか」
「破れたら替えるだろうけど」
相良は袖へ腕を通し、長さを確かめていた。
「俺のは合ってる」
「早いね」
「着てみないと分からないだろ」
白瀬も上衣へ腕を通した。
右袖は手首まで届いているが、左袖は指の付け根近くまで隠れている。
「左右で長さが違う」
「腕の長さが違うんじゃないか」
久保田が言った。
「そんなに違わないよ」
「立ってみろ」
白瀬が立つ。
相良が背中側から上衣を引いた。
「ずれてるだけだ」
襟を直すと、袖の長さが揃った。
「本当だ」
「着方の問題だな」
「制服って難しいね」
「今まで着たことないのか」
「あるけど、こんなに固くない」
琳斗も上衣を羽織ってみた。
肩が少しきつい。
腕を前へ伸ばすと、背中の布が引っ張られる。
「神代のは小さいな」
久保田が言った。
「そうでしょうか」
「腕を上げてみろ」
琳斗が両腕を上げる。
裾も一緒に持ち上がった。
「小さいね」
白瀬が言った。
「交換してもらった方がいい」
「でも、名前が付いています」
「名前が付いてても、小さい物は小さいだろ」
相良が答えた。
廊下では、ほかの部屋からも声が聞こえている。
「袖が長い」
「靴が入らない」
「それは俺のだ」
「番号を見ろ」
上級生が廊下の中央で声を上げた。
「寸法違いは被服交換票へ記入しろ。勝手に他人の物を着るな」
「交換票はどこですか」
白瀬が扉から顔を出す。
「箱の底だ」
四人で箱の中を探した。
制服をすべて出した下に、紙の束が敷かれている。
「何でも箱の底ですね」
琳斗が言った。
「上に置いたら、制服を出す時に飛ぶだろ」
久保田が紙を取る。
「それもそうか」
白瀬が交換票を覗き込む。
琳斗は名前と希望寸法を書こうとして、手を止めた。
寸法の欄には、胸囲、肩幅、袖丈と並んでいる。
自分の数値は分からない。
「肩幅って、どう測るんでしょう」
「巻き尺があるんじゃないか」
相良が廊下へ目を向けた。
「聞いてくる」
相良が部屋を出る。
少しして、巻き尺を手に戻ってきた。
「被服係があとで回収する。それまでに測って書けって」
「ありがとう」
琳斗が言った。
「ありがとう」
久保田も続く。
「ありがとう」
白瀬も言った。
相良は巻き尺を持ったまま、三人を見た。
誰も手を伸ばさない。
琳斗は交換票を持っている。
久保田は鉛筆を持っている。
白瀬は壁際を指し、測る場所だけを空けていた。
「……俺が測るのか?」
三人は答えなかった。
しかし、誰も巻き尺を受け取ろうとはしない。
相良は三人の顔を順に見た。
「ありがとう」
白瀬がもう一度言った。
「ありがとうございます」
琳斗も言う。
「頼む」
久保田が言った。
相良はしばらく黙っていたが、諦めたように巻き尺を広げた。
「神代から」
「はい」
琳斗は壁際へ立った。
相良が巻き尺を肩へ当てる。
「力を抜いて」
「はい」
「抜いてない」
「どうすれば」
「普通に立てばいい」
「普通に立っているつもりです」
白瀬が横から琳斗を見る。
「神代、式の時より固いよ」
「黙ってろ。測りにくい」
相良が数値を読み、久保田が交換票へ書き込んだ。
「次、白瀬」
「なんで?」
「左右で腕の長さが違うんだろ」
「上衣がずれてただけだよ」
「念のためだ」
相良が巻き尺を広げたまま言う。
白瀬は三人の顔を見た。
琳斗は壁際を空ける。
久保田は交換票へ目を落としたまま、鉛筆を構えている。
「本当に測るの?」
「早く立て」
相良が言った。
白瀬は不満そうな顔をしながら、琳斗と入れ替わった。
相良が左右の腕を測る。
「同じだ」
「だから言っただろ」
「念のためだ」
「相良、少し楽しんでない?」
「次、久保田」
「俺もか」
「全員分、書くんだろ」
「……そうだな」
久保田も壁際へ立った。
最後に相良の寸法を、久保田が測った。
四人分を書き終える頃には、巻き尺を借りた時よりも時間が経っていた。
「制服だけで、こんなにかかるんだね」
白瀬が言った。
「まだ寝具と洗面具が残ってる」
久保田が二つ目の箱を見る。
「続けるぞ」
◇
二つ目の箱には、畳まれた毛布、敷布、枕覆い、手拭い、石鹸、歯磨き粉、歯刷子、金属製の洗面器が入っていた。
それぞれに小さな番号札が付いている。
「名前はないんだ」
白瀬が石鹸を持ち上げる。
「番号があるだろ」
「石鹸にも名前を書くのかな」
「書けるのか?」
相良が尋ねる。
「削れば」
「使うたびに消えるぞ」
「じゃあ、箱に書く?」
「混ぜなければいい」
久保田が洗面具を一人分ずつ分けていく。
「神代、二十三。白瀬、二十五。相良、二十八。俺が三十一」
琳斗は自分の番号札を見た。
二十三。
頭の中で三度繰り返す。
二十三。
二十三。
二十三。
「神代、聞いてるか」
「はい。二十三です」
「なら、自分の分を持て」
「はい」
琳斗は洗面器と手拭いをまとめて持ち上げた。
毛布は、寝台へ広げるだけではなかった。
上級生が一度だけ、折り方を見せる。
「端を揃えろ。昼間はこの形に畳む。私物を寝台の上へ放置するな」
上級生が去ると、四人はそれぞれ自分の寝台へ毛布を運んだ。
琳斗は見た形を思い出しながら折る。
端を揃える。
半分にする。
もう一度折る。
寝台の足元へ置く。
久保田は一度で上級生と同じ形にした。
相良の毛布も、角が揃っている。
白瀬の毛布だけが、片側へ少し寄っていた。
「これ、左右で違わない?」
白瀬が自分の毛布を見る。
「片方が長い」
久保田が答える。
「毛布の長さが?」
「置き方がだ」
白瀬は毛布を広げ直す。
「どこを基準にするの?」
「端」
「どの端?」
「寝台の端だ」
「四つあるよ」
「足元」
「左右は?」
「揃えろ」
「どっちに?」
久保田が一度黙った。
相良が白瀬の毛布を持ち上げ、寝台の中央へ置いた。
「両方だ」
「なるほど」
白瀬がうなずく。
琳斗は自分の毛布を見る。
中央から少し右へ寄っていた。
白瀬に言われる前に、位置を直した。
次は生活用品だった。
久保田が箱の底から、小さな規則書を取り出す。
「私物と支給品には、決められた場所へ氏名か番号を記入する」
「全部に書くの?」
白瀬が生活用品を一つずつ取り出した。
「名前のない物は紛失扱いになるそうだ」
久保田は生活規則へ目を落としたまま答える。
白瀬が洗面器を持ち上げる。
「これにも?」
「書けとある」
今度は石鹸箱を持ち上げた。
「これにも?」
「書けとある」
「手拭いにも?」
「書けとある」
白瀬は最後に、石鹸そのものを見る。
「これは?」
久保田も規則書から顔を上げた。
「そこまでは書いてない」
「じゃあ、書かなくていいんだ」
「書けるのか?」
白瀬は石鹸を裏返した。
「無理だね」
相良が洗面器を裏返し、番号を書く場所を確認する。
「底でいいだろ」
「使う時に見えないよ」
白瀬が言った。
「誰の物か分からなくなった時だけ見ればいい」
「使うたびに見えた方が便利じゃない?」
「洗面器の内側に書くのか」
久保田が尋ねる。
「水で消えるね」
「なら底だ」
「そうする」
白瀬も洗面器を裏返した。
鉛筆では書けないため、箱に入っていた油性の記名具を使う。
二十三。
二十五。
二十八。
三十一。
同じ形の洗面器が、番号だけで四人の物に分かれた。
手拭いには、小さな布札を縫いつける。
白瀬が裁縫道具を見た。
「さっき閉めたのに、もう使うね」
「今は裁縫の時間だ」
相良が言った。
「そういう時間だったんだ」
「支給品を整理する時間だ」
久保田が訂正する。
白瀬は糸を針へ通そうとして、目を細めた。
「穴が小さい」
「貸せ」
相良が針を受け取る。
一度で糸を通した。
「上手だね」
「見れば入る」
「僕も見てるよ」
「手が動いてない」
相良は針を白瀬へ返した。
琳斗も自分の手拭いへ番号札を縫いつける。
針目は揃わなかったが、引っ張っても外れなかった。
四人分の支給品を並べ終える。
床に残っているのは、空になった二つの木箱だけだった。
久保田が室内を見回す。
「交換票を出して、箱を返すぞ」
「はい」
琳斗は交換票を持ち上げた。
白瀬が箱の上へ置かれていた蓋を戻そうとする。
「釘も戻すの?」
「箱を返すだけなら、蓋を載せればいいだろ」
久保田が答えた。
「途中で落ちない?」
「運ぶ人に聞け」
「分かった」
白瀬が廊下へ顔を出した時、窓の外が急に暗くなった。
春の風が、先ほどより冷たくなっている。
窓枠に小さな音が当たった。
一滴。
続いて、二滴。
やがて細かな雨が、寮の屋根と窓を叩き始めた。
「降ってきた」
白瀬が窓へ近づいた。
「洗濯物を出してなくてよかったな」
久保田が言った。
「まだ何も洗ってないよ」
「だからよかったんだろ」
相良が開けてあった窓を閉める。
「さっきまで晴れてたのに」
琳斗は窓越しに空を見た。
校舎の向こうは灰色に変わり、練兵場を走っていた上級生たちが、足を速めて建物へ戻っていく。
「春の天気って、変わるんだね」
白瀬が言った。
「変わる時は変わるだろ」
久保田は床の支給品を、雨の吹き込まない側へ寄せた。
二
雨は、夕食の時間になっても止まなかった。
寮から食堂までは屋根のある渡り廊下が続いている。それでも、風に押された雨が横から吹き込み、石床の端を濡らしていた。
「走るな」
久保田が言った。
前を行く白瀬が振り返る。
「走ってないよ」
「さっきから歩幅が違う」
「濡れたくないだけ」
「滑ったら余計に遅れる」
白瀬は一度足元を見て、歩く速さを戻した。
相良は列の外側を歩いていたが、雨が吹き込む場所へ来ると、黙って内側へ半歩寄る。
琳斗もそれに合わせて位置を変えた。
食堂へ入ると、湿った制服と湯気の匂いが混じっていた。
長机が何列も並び、学生たちは部屋ごとに指定された席へ着いている。
配膳口では、麦飯、汁、煮物、漬物が順に渡されていた。
「第三室、四人そろってるな」
上級生が確認する。
「はい」
久保田が答えた。
「受け取ったら、奥から詰めろ。通路を塞ぐな」
四人は盆を受け取り、指定された卓へ向かった。
琳斗は一番奥へ座る。
隣に相良、その向かいに白瀬、斜め向かいに久保田が座った。
号令がかかるまで、誰も箸を取らない。
食堂全体が静まる。
「いただきます」
声が重なった。
琳斗は麦飯を一口食べた。
家で食べていたものより硬い。
汁を飲む。
家より薄い味だった。
でも、温かい。
冷え始めていた身体へ、熱が広がっていく。
向かいでは、白瀬が煮物を箸で割っていた。
「これ、何だろう」
「大根だろ」
久保田が言った。
「色が濃い」
「煮てあるからだ」
「味も濃いかな」
「食えば分かる」
白瀬は小さく割った一片を口へ入れた。
「薄い」
「さっき濃いって言っただろ」
「色が」
「紛らわしい」
相良が麦飯を食べながら言った。
琳斗は食堂の奥へ目を向ける。
配膳口から器が出る。
空いた器は反対側へ戻される。
上級生が卓の間を歩き、食べ残しがないかを見ている。
入口では、遅れてきた学生が名前を記録されていた。
「神代、遅いな」
相良が言った。
「そうでしょうか」
「周りを見すぎだ」
琳斗は箸が止まっていたことに気づいた。
「見ていると、食べるのを忘れます」
「忘れるな」
相良が答える。
「冷めるよ」
白瀬も言った。
琳斗は麦飯を口へ運んだ。
卓の向こう側では、別の部屋の学生たちが食べ終え始めている。
盆を持って立つ者が増え、返却口の前に短い列ができた。
久保田が壁の時計を見る。
「あと少しだ」
白瀬の皿には、煮物が一つ残っている。
「食べないのか」
久保田が尋ねた。
「食べるよ」
「もう時間だ。早く食べろ」
「分かってる」
白瀬は煮物を口へ入れた。
急いで飲み込もうとして、喉に引っかける。
「んぐっ……」
白瀬が咳き込み、慌てて口元を押さえた。
汁を飲もうとしたが、咳と重なって噴き出しかける。
琳斗と相良が、同時に器を遠ざけた。
「急ぐからだ」
久保田が白瀬の背中を二度叩いた。
「久保田が急がせたんだよ」
白瀬が涙目で言う。
「飲み込んでから喋れ」
食事終了の号令がかかった。
白瀬は返事をせず、咳を堪えながら残りを飲み込んだ。
「第三室、立て」
久保田が盆を持つ。
四人で返却口へ向かう。
食器を重ねる場所、箸を戻す場所、残飯を入れる桶が分かれていた。
琳斗は前の学生の動きを見て、それに従う。
白瀬は盆を返した後も、残飯桶を覗き込んでいた。
「何を見てる」
久保田が尋ねる。
「残ってる量」
「戻るぞ」
「毎日これくらい残るのかな」
「今日しか見てないだろ」
「だから明日も見る」
「列を止めるな」
白瀬は横へ避けた。
後ろの学生が盆を返していく。
食堂を出ると、雨音がさらに強くなっていた。
渡り廊下の屋根を、大粒の雨が絶え間なく叩いている。
◇
寮へ戻ると、入浴の準備を命じられた。
手拭い、石鹸、着替え。
洗面器は部屋番号ごとにまとめて運ぶ。
「自分の番号を確認しろ」
久保田が言った。
「混ぜると分からなくなる」
「僕は二十五」
白瀬が札を見る。
「今は覚えてるんだな」
相良が言った。
「見てるからね」
「浴場でも覚えてろ」
相良は自分の洗面器を持ち上げた。
琳斗も二十三番を確かめる。
二十三。
二十三。
二十三。
廊下には、入浴を待つ学生が並んでいた。
浴場は学年ごとに時間が分けられ、さらに寮室単位で順に入るらしい。
「第三室、前へ」
上級生に呼ばれ、四人が列を進む。
「脱衣所では籠の番号を確認しろ。脱いだ物は籠へ入れ、床へ置くな。浴場内を走るな。湯船へ入る前に身体を洗え」
「はい」
返事が重なる。
脱衣所には、番号札の付いた籠が何列も並んでいた。
湿った空気と石鹸の匂いがこもっている。
学生たちは急いで服を脱ぎ、籠へ収めていた。
琳斗は二十三番の籠を見つける。
上衣を畳む。
ズボンもその上へ置く。
帯革は丸めた方がよいのか迷い、隣を見る。
相良は帯革を籠の端へ沿わせて置いていた。
琳斗も同じようにする。
「神代、遅い」
久保田が言った。
「今行きます」
「畳み直すのは戻ってからでいい」
「でも、崩れます」
「籠の中ならなくならない」
琳斗は手を止めた。
「分かりました」
白瀬はすでに服を脱いでいたが、自分の籠を何度も覗いている。
「何してる」
「どこまで入れたか確認してる」
「全部脱いだだろ」
「靴下が片方ない」
相良が床を指した。
「足元」
白瀬の踵に、片方の靴下が引っかかっていた。
「あった」
「早くしろ」
久保田が言う。
四人は手拭いと石鹸を持ち、浴場へ入った。
中は湯気で白く曇っている。
湯の流れる音。
桶を置く音。
学生たちの話し声。
壁際には洗い場が並び、中央に大きな湯船があった。
「広いね」
白瀬が周囲を見る。
「前を見ろ」
久保田が言った。
「滑るぞ」
床は濡れている。
白瀬は慎重に歩き始めたが、その直後、隣を走った学生が足を滑らせた。
大きな音を立てて尻餅をつく。
「走るなと言っただろ!」
上級生の声が浴場へ響いた。
白瀬が久保田を見る。
「本当に滑るね」
「だから言った」
四人は空いている洗い場へ並んだ。
琳斗は桶へ湯を入れる。
手を入れると、思っていたより熱い。
少し水を足す。
隣では相良が無言で身体を洗い始めていた。
久保田も手早い。
白瀬だけが、石鹸を手の中で回している。
「番号、消えないかな」
「石鹸には書いてないだろ」
久保田が言った。
「箱の番号」
「濡らす前に籠へ置いた」
「そうだった」
「自分で置いただろ」
白瀬は石鹸を泡立てた。
琳斗は髪を洗いながら、周囲の音を聞いた。
桶の音が重なる。
水の音。
笑い声。
上級生の注意。
雨音は浴場の中までは届かない。
「神代、目を閉じたまま止まるな」
久保田の声がした。
「石鹸が入っています」
「流せ」
「はい」
琳斗は桶の湯で顔を洗った。
四人が身体を洗い終え、湯船へ入る。
湯が肩まで届いた。
足先から力が抜ける。
「熱い?」
白瀬が尋ねる。
「少し」
琳斗が答えた。
「食堂の汁より?」
「比べるものですか」
「温度なら比べられるよ」
「測ってないだろ」
相良が言った。
「感覚で」
「なら人によって違う」
「相良は熱くない?」
「普通」
「久保田は?」
「静かに入れ」
「答えてない」
「浴場は話す場所じゃない」
近くでは、別の学生たちがもっと大きな声で話している。
白瀬がそちらを見る。
「みんな話してるよ」
「お前は声が通る」
「普通に話してる」
「普通で通るんだ」
相良が言った。
白瀬は少し声を落とした。
「これくらい?」
「まだ聞こえる」
「それは近いからだよ」
入浴終了を知らせる声がかかった。
「上がるぞ」
久保田が湯船から出る。
「もう?」
白瀬が言った。
「時間だ」
「今日は時間ばっかりだね」
「学校だからな」
四人は身体を拭き、脱衣所へ戻った。
湯気で籠札が見えにくくなっている。
琳斗は並んだ番号を確認した。
二十三。
三度繰り返していた番号は、すぐに見つかった。
隣では、白瀬が籠札を順に見ている。
「二十なんだっけ」
白瀬が一つの籠へ手をかけた。
「それ二十八、俺のだ」
相良が言った。
白瀬は手を離し、琳斗を見る。
「神代、何番だっけ?」
「二十三です」
琳斗が自分の籠を示した。
「覚えてたんだ」
「三回、繰り返しました」
「声に出して?」
「頭の中でです」
「僕の番号は?」
「知りません」
「見てなかったの?」
「自分の番号を覚えていたので」
「白瀬のは、その隣だ」
相良が二つ先の籠を示した。
札には、二十五と書かれている。
「あった」
白瀬が籠を引き出す。
「次から自分で覚えろ」
久保田が帯革を締めながら言った。
「分からなくなったら、開ける前に聞け。人の制服を着て戻ることになるぞ」
「それは嫌だな」
白瀬は自分の籠から上衣を取り出した。
琳斗も制服へ袖を通す。
湯上がりの身体には、肩のきつさがさっきより強く感じられた。
交換品は、まだ届いていない。
「神代、引っかかってる」
相良が背中を指した。
琳斗の下着が、上衣の裾から少し出ている。
「あ」
「直せ」
「はい」
琳斗は裾を入れ直した。
四人が着替え終えると、上級生が入口で人数を確認した。
「第三室、四名」
久保田が答える。
「戻れ。次は夕点呼だ」
「はい」
脱衣所の戸が開く。
外から、雨の匂いを含んだ冷たい空気が流れ込んできた。
三
寮へ戻る頃には、雨脚が少し弱まっていた。
それでも、渡り廊下の外では暗い空から細かな雨が落ち続けている。
第三室へ入ると、昼間に整えた寝台が並んでいた。
毛布。
枕。
棚。
洗面具。
全部、自分たちで置いたはずなのに、入浴前より部屋らしく見えた。
「点呼までに整えろ」
久保田が言った。
「何を?」
白瀬が尋ねる。
「服装。寝台。棚。通路」
「全部?」
「全部だ」
相良は自分の寝台へ向かい、毛布の端を直した。
琳斗も棚を確認する。
菓子箱。
便箋。
薬。
湯袋。
決めた場所へ入っている。
洗面器は棚の下へ置いた。
手拭いは濡れたまま畳まず、掛ける場所へ広げてある。
「石鹸は?」
白瀬が言った。
「箱の中だろ」
久保田が答える。
「濡れたまま入れたら、柔らかくならない?」
「蓋を少し開けておけ」
「落ちない?」
「棚から落とさなければな」
白瀬は石鹸箱の蓋を少しずらし、棚へ置いた。
「これでいい?」
久保田が一度見る。
「ああ」
「最初からそう言えばいいのに」
「聞かれたから言った」
「聞かなかったら?」
「そのまま溶かしてただろ」
白瀬は石鹸箱を見た。
「危なかった」
「そこまででもない」
相良が言った。
廊下から足音が近づく。
「点呼準備!」
上級生の声が響いた。
久保田が室内を見回す。
「並べ」
四人は寝台の前へ立った。
久保田が先頭。
その隣に相良。
琳斗。
白瀬。
「白瀬、襟」
「曲がってる?」
「片方だけ立ってる」
白瀬が手で直す。
「これで?」
「まだだ」
相良が白瀬の襟を引き下げた。
「ありがとう」
「動くな」
琳斗も自分の上衣を確かめる。
肩がきつい。
胸を張ると、背中側が引かれる。
「神代、無理に伸ばすな」
久保田が言った。
「姿勢を正そうと」
「服が小さいんだ。余計に崩れる」
「はい」
「交換品が来るまで、そのままでいい」
廊下の足音が、第三室の前で止まった。
「第三室!」
「はい!」
久保田が答える。
扉が開いた。
上級生が一人、帳面を持って入ってくる。
室内を一度見渡し、四人の前へ立った。
「氏名」
「室長、久保田英治」
「相良文彦」
「神代琳斗」
「白瀬怜」
上級生は帳面へ印を付ける。
「全員いるな」
「はい」
「支給品の不足は」
「神代の上衣が寸法違いです。交換票を提出しました」
「ほかは」
久保田が三人を見る。
「ありません」
相良が答えた。
「僕も」
白瀬が言う。
上級生の視線が白瀬へ向く。
「返事は、あります、だ」
「あります」
「神代は」
「ありません」
「分かった」
上級生は寝台へ目を向ける。
琳斗の毛布。
相良の毛布。
久保田の毛布。
白瀬の毛布。
白瀬の毛布だけ、端が少し浮いていた。
「白瀬」
「はい」
「そこ」
白瀬が自分の寝台を見る。
「どこですか」
「毛布の端だ」
「あ」
白瀬が動こうとする。
「今は動くな」
白瀬は止まった。
「点呼中は勝手に列を離れない。終わってから直せ」
「はい」
「室長、確認しておけ」
「はい」
上級生は帳面を閉じる。
「消灯まで私語は控えろ。明朝は起床号令後、寝具を整え、洗面を済ませ、朝点呼へ出る。遅れるな」
「はい」
上級生が退出する。
扉が閉まる。
足音が隣室へ移っていく。
白瀬がすぐに寝台へ向かった。
「ここ?」
浮いていた毛布の端を押さえる。
「そこだ」
久保田が答える。
「これくらいでも分かるんだね」
「見れば分かる」
久保田は一度言ってから、白瀬の毛布を指した。
「端が一か所だけ上がってた。揃ってないと目立つ」
「なるほど」
白瀬は端を折り直した。
「今度は?」
「いい」
相良が先に答えた。
「相良も見てたの?」
「見えるだろ」
白瀬は自分の寝台と三人の寝台を見比べた。
「同じにしたつもりだったんだけどな」
「つもりじゃなく、最後に見ろ」
久保田が言った。
「それ、今日何回目?」
「何が」
「最後に見ろ」
「お前が何回も見ないからだ」
白瀬は反論しかけたが、毛布をもう一度確かめた。
◇
点呼が終わると、廊下の話し声は少しずつ減っていった。
第三室でも、四人は寝る準備を始める。
上衣を脱ぐ。
帯革を外す。
明日の制服を畳む。
寝具を広げる。
昼間に折った毛布を解くと、まだ新しい布の匂いがした。
琳斗は敷布を寝台へ広げた。
片側を押さえながら反対側を伸ばす。
端が斜めになる。
直す。
今度は足元が余る。
「神代」
久保田が言った。
「はい」
「全部を一度で直そうとするな。頭側を合わせてから、足元を引け」
「分かりました」
琳斗は頭側の角を揃える。
そこを動かさず、足元だけを引いた。
今度はまっすぐになる。
「できました」
「声に出さなくていい」
「はい」
相良はすでに寝具を整え終え、枕元へ明日の服を置いていた。
白瀬は毛布を広げたまま、裏表を見ている。
「どっちが上?」
「同じだろ」
相良が言った。
「縫い目が違う」
「寝れば見えない」
「でも、決まりがあるかもしれない」
「上級生は何も言ってない」
久保田が答える。
「なら、好きな方でいい」
「後で違うって言われない?」
「言われたら直せ」
「今、分かるなら今直したい」
「分からないから言ってる」
白瀬は毛布を裏返した。
少し考え、もう一度裏返す。
「どっちでも同じだね」
「最初からそう言ってる」
相良が寝台へ腰を下ろした。
琳斗は上衣を畳む。
昼間、久保田が畳んだ形を思い出す。
袖を内側へ折る。
左右を揃える。
裾を折る。
枕元へ置く。
「神代、それ明日着るの?」
白瀬が尋ねた。
「はい」
「小さいのに?」
「交換品がまだなので」
「寝てる間に伸びないかな」
「布がですか?」
「神代が」
「寝ている間に身体が伸びたら、もっと着られなくなるだろ」
久保田が言った。
「あ、そうか」
白瀬は自分の上衣を畳み始めた。
「なら縮んだ方がいい?」
「神代が?」
相良が尋ねる。
「上衣が」
「余計なことするな」
久保田が即座に言った。
「何もしてないよ」
「考えただろ」
「少しだけ」
「考えるだけにしておけ」
白瀬は口を閉じた。
しかし、畳んだ上衣をしばらく見ていた。
◇
消灯前を知らせる鐘が鳴った。
廊下の灯りが一段暗くなる。
窓の外は、もうほとんど見えない。
昼過ぎから降り続いている雨が、寮の屋根を一定の間隔で叩いていた。
琳斗は寝台へ入る。
新しい毛布は少し硬い。
家の寝具より薄く、枕も低い。
身体を仰向けにすると、天井の板目が暗がりに浮かんでいた。
向かいの寝台では、久保田がすでに毛布を肩まで掛けている。
相良は壁側を向いた。
白瀬だけが、まだ枕の位置を直していた。
「白瀬」
久保田が言う。
「もう寝るよ」
「さっきから三回動かしてる」
「高いんだよ」
「裏返しても高さは変わらない」
「向きで少し違うかもしれない」
「変わらない」
白瀬は枕をもう一度動かした。
少しして、廊下から声が響く。
「消灯!」
灯りが消えた。
部屋が暗くなる。
雨音だけが、はっきり聞こえた。
「暗いね」
白瀬が言う。
「消灯したからな」
久保田が答える。
「明日の朝、何時?」
「号令が鳴る」
「鳴る前に起きる?」
「起きられるなら起きろ」
「久保田は起きるの?」
「寝ろ」
「相良は?」
返事はない。
「もう寝た?」
「白瀬」
久保田の声が少し低くなる。
「分かったよ」
しばらく静かになった。
琳斗は目を閉じる。
雨が屋根を叩く。
遠くで扉の閉まる音がした。
誰かの咳。
寝台がわずかに軋む音。
家とは違う音ばかりだった。
「窓、閉まってる?」
暗闇の中で白瀬が尋ねた。
「相良が閉めた」
久保田が答える。
「確認した?」
「閉めるところを見た」
「なら大丈夫だね」
「早く寝ろ」
今度こそ、白瀬も答えなかった。
雨音だけが、寮の屋根を叩いていた。




