第一話 入校
八紘第一高等軍学校の正門は、神代琳斗が思っていたよりも大きかった。
黒い鉄扉の左右に、灰色の石柱が立っている。その向こうには、桜の若葉に挟まれた長い坂道が続き、坂の上には白い校舎と赤煉瓦の講堂が見えていた。
正門前には、琳斗と同じ年頃の少年少女、その家族、学校職員が集まっている。
新しい制服の布が擦れる音。荷車の車輪。名前を確認する声。遠くで鳴る号笛。
人が集まり、別れ、門の中へ流れていく。
「琳斗、本当に忘れ物はない?」
母が言った。
「ないと思います」
「思います、じゃなくて。薬は?」
「入っています」
「着替えは?」
「入っています」
「手紙を出すための封筒は?」
「それも入っています」
「お菓子は皆さんと分けて――」
「母さん、そのくらいで」
父が穏やかに声を挟んだ。
「琳斗も、何がどこにあるのか分からなくなってしまうよ」
「私が分かるように分けてあります」
「母さんに分かっても、琳斗に分からなければ困るだろう」
父は少し笑った。
母は言い返しかけ、琳斗の足元へ目を落とす。
革の鞄が二つと、大きな布包みが一つ置かれていた。
周囲の入学生と比べても、明らかに多い。
肩に鞄を一つ掛けている者もいる。小さな行李だけを持っている者もいる。家族から荷物を受け取ると、短く頭を下げ、そのまま門へ向かう者もいた。
その姿が目に入るたび、琳斗は自分の荷物を見下ろす。
母が用意した物の中には、必要な物もある。
予備の肌着。薬。裁縫道具。手拭い。便箋。石鹸。
ただ、小さな菓子箱が二つ必要なのかは分からない。厚手の靴下を六足も使うだろうか。母が念のためと言って入れた、湯を入れるゴム袋に至っては、寮で使ってよいのかどうかも知らない。
「使わない物は、持って帰りましょうか」
琳斗が言うと、母は布包みを守るように手を置いた。
「でも、必要になった時にないと困るでしょう」
「学校から支給される物もあります」
「学校から出る物が、琳斗に合うとは限らないわ」
「困った時には、自分で工夫すればいい」
父が琳斗へ目を向ける。
「それでも足りなければ、知らせなさい。必要な物まで我慢することはないからね」
「はい」
「ただし、最初から自分だけ特別にしてもらおうとは思わないこと」
叱る口調ではなかった。
「皆と同じ場所で暮らすんだ。まずは、そこでのやり方を覚えておいで」
「はい」
父は少し間を置いた。
「分からないことは、そのままにしないように」
「分かりました」
「まあ、琳斗なら尋ねる方は心配ないかな」
父が笑う。
琳斗もわずかに笑った。
母が琳斗の襟へ手を伸ばす。
「少し曲がっているわ」
「母さん」
「これで最後だから」
襟元を直す母の指が、なかなか離れない。
琳斗は周囲を見た。
誰もこちらを気にしてはいない。それでも、顔が熱くなる。
すぐ近くでも、入学生らしい少年が父親と向かい合っていた。
少年の荷物は、小さな鞄が一つだけだった。黒髪を短く整え、同年代の中ではやや背が高い。引き締まった顔立ちで、背筋をまっすぐ伸ばしている。父親は軍服姿で、少年の正面に立っていた。
「ここでよく学び、精進しなさい」
「はい」
「あとは、自分の思うようにやってみればいい」
「分かりました」
父親は、わずかに表情を緩めた。
「母さんには、着いたら手紙を書いてやれ」
「……分かりました」
少年が敬礼する。
父親も答礼した。
琳斗は二人を見続けないように、母へ視線を戻す。
「足りない物があったら、すぐ知らせてね」
「はい」
「無理をしてはいけませんよ」
「はい」
「具合が悪くなったら――」
「大丈夫です」
口にしてから、自分でも何が大丈夫なのか分からない。
母は安心したようには見えなかった。それでも、小さくうなずく。
琳斗は革の鞄を両手に持ち、布包みを肩へ担いだ。
重さで身体が少し傾く。
「それでは、行ってきます」
父へ頭を下げ、母へも下げる。
「行っておいで」
父が言った。
隣では、先ほどの少年も父親へもう一度敬礼し、小さな鞄を持って門へ向かっている。
琳斗も歩き始めた。
正門へ数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
母はまだ立っていた。
父もその隣にいる。琳斗と目が合うと、笑って軽く手を上げた。
母は胸元で何度も手を振っている。
琳斗もわずかに手を上げる。
それから前を向き、八紘第一高等軍学校の門をくぐった。
◇
正門から受付までは、緩い上り坂になっている。
坂の途中には案内板が立ち、二名の上級生が入学生を振り分けていた。
「新入生は所属予定科にかかわらず、右手の受付へ進め。書類を手元に準備しておけ」
低い号令が坂道へ響く。
琳斗は肩からずり落ちかけた布包みを直した。
前方には、正門前で父親と話していた少年がいる。小さな鞄を提げ、坂を上っていた。
歩調は速くも遅くもない。背筋は変わらず伸びている。
琳斗も荷物を持ち直し、その後を進んだ。
受付前には二列の人の流れができている。
右の列では入学許可書と身分証明書を確認し、左の列では荷物札を渡しているらしい。
「右で書類を出した後、左へ移るのですか」
前方で、細身の少年が質問した。きちんと撫でつけた髪と、まだ幼さの残る顔立ちが、妙に几帳面な印象を与えた。
「そうだ」
少年は二つの列を見比べる。
「分かりました」
返事をして前へ進みながらも、まだ受付の流れを目で追っていた。
琳斗の前では、別の少年が書類を差し出している。
すらりと背が高く、黒髪には一本の乱れもない。整った顔立ちと姿勢のためか、新入生の制服を着ていても、すでに人前へ立つことへ慣れているように見えた。
受付係から受け取った紙へ目を通し、次に進む方向を確かめている。
「皇一真」
受付係が名を確認した。
「はい」
皇は短く答え、書類を鞄へ収める。
「次」
声をかけられ、琳斗は我に返った。
鞄を置き、書類を取り出そうとする。
目的の書類が見つからない。
母が分けた布袋を一つ開ける。便箋と薬包が出てきた。
別の袋には手拭いが入っている。
「後ろ、待ってるよ」
すぐ近くから声がした。
責める言い方ではなかった。
「すみません」
琳斗は三つ目の袋を探す。
ようやく入学許可書を見つけ、差し出した時には、後ろに数人が並んでいた。
「神代琳斗」
「はい」
「次からは、提出する書類を先に出しておけ」
「はい。申し訳ありません」
許可書へ印が押される。
琳斗は書類を一つの袋へまとめ、荷物を抱え直した。
受付を離れようとした時、風が坂を吹き抜ける。
案内板が大きく揺れ、支柱の片方が浮き上がった。
近くにいた少年が手を伸ばし、倒れかけた板を押さえた。
茶色を帯びた明るい赤毛は癖が強く、風を受けてあちこちへ跳ねている。細身だが動きは軽く、案内板が傾くより先に身体が動いていた。
「危ない危ない」
少年は板を支えながら、外れかけた紐を結び直した。
「天城迅」
荷物札を渡す係が呼ぶ。
「はい」
天城は案内板が安定したのを確認してから手を離し、受付へ向かった。
風がやむ。
案内板は元の位置に立っている。
琳斗は自分の荷物札を見た。
鞄二つと布包み一つ。同じ番号が記されている。
なくさないよう、結び目を一つずつ確かめた。
◇
入学式は、赤煉瓦の講堂で行われた。
高い天井には太い梁が渡され、正面には大きな皇国旗が掲げられている。
新入生は列ごとに指定された席へ座った。
琳斗は荷物を講堂脇の預かり所へ置き、ようやく肩の重さから解放された。
それでも、座っていると荷物のことが気になってくる。
札はきちんと結ばれていただろうか。
菓子箱は潰れていないか。
薬の瓶は割れていないか。
母が入れた物を初日から壊したと知られれば、余計に心配させる。
壇上では、校長が式辞を読み上げていた。
「諸君は、本日より皇国軍人たるための教育を受ける」
落ち着いた声が講堂へ響く。
「軍人に求められるものは、勇気だけではない。規律、責任、奉公の精神、そして己の無知を知る謙虚さである」
周囲の学生は正面を向いている。
背筋を伸ばしている者。
肩に力が入っている者。
ほとんど瞬きをしない者。
琳斗も姿勢を正した。
しばらくすると、左足が痺れてきた。
気づかれないよう、靴の中で指を動かす。少し姿勢を変えたいが、周囲が動かないので動きにくい。
「国家のために学び、国家のために働き、国家のために責任を負う者となれ」
責任。
奉公。
国家。
家でも聞いたことのある言葉だった。
講堂で聞くと、どれも自分の身体より大きく感じる。
やがて式辞が終わり、来賓の祝辞が続いた。
咳を我慢する音がする。
椅子の脚がわずかに鳴る。
誰かの腹が、小さく鳴った。
前方に座っている学生の肩が少し揺れた。笑いを堪えたらしい。
隣の学生が横目で見ると、その学生は何事もなかったように正面を向いた。
式が終わる頃には、琳斗の左足はすっかり痺れていた。
起立の号令がかかる。
周囲が一斉に立ち上がった。
琳斗も立とうとしたが、左足に力が入らない。
身体がわずかに傾く。
隣の椅子へ手をつきかけ、どうにか踏みとどまった。
誰かに見られたかどうかは分からない。
琳斗は何事もなかったように姿勢を直す。
顔だけが熱かった。
◇
入学式の後、新入生は講堂に残された。
通常学級の編成が順に発表され、学生たちが列ごとに退出していく。
最後に、二十五名が残った。
講堂の空席が急に広く見える。
壇上へ、一人の教官が上がった。
年齢は四十代半ばほどだろうか。濃い軍服を着ているが、胸元に勲章はない。背も特別高くはない。
教官は中央へ立つと、名簿を開いた。
「これより、特別教育学級の編成を発表する」
小さく残っていた話し声が止まる。
「本学級は二十五名をもって編成する。選抜理由は、学業成績、身体適性、特殊技能、感覚適性、専門資質、その他、本校が将校教育に有用と認めた能力による」
琳斗は正面を見た。
「ただし、選抜理由は同一ではない。成績上位者のみを集めた学級ではないことを、最初に理解しておけ」
教官は名簿へ目を落とした。
一人ずつ、名前が呼ばれる。
「天城迅」
「はい」
受付で案内板を押さえていた少年が答えた。
「皇一真」
「はい」
受付で見た少年が、落ち着いた声で返事をする。
「九条蒼真」
「はい」
正門前にいた少年が、短く返事をした。
短く整えた黒髪と、まっすぐな背筋は、講堂の中でも変わらなかった。
「白瀬怜」
「はい」
「神代琳斗」
「はい」
自分の声が、思ったより高く聞こえた。
教官はその後も、二十五名の名前を一人ずつ読み上げていった。
篠原透。
受付で二つの列を見比べていた細身の少年が返事をした。
宮原征治。
相良文彦。
久保田英治。
すべての名前を一度で覚えることはできない。
それでも、見たことのある顔と名前が、少しずつ結びついていく。
名簿を読み終えると、教官は顔を上げた。
「担任は、真田宗一郎。陸軍歩兵科出身だ」
真田は名簿を閉じた。
「まず一つ、誤解を解いておく」
二十五名を見る。
「ここに選ばれたからといって、諸君が完成しているわけではない」
声は大きくなかった。
それでも、講堂の端まで届いた。
「得意なことがある者ほど、自分の苦手を見落としやすい。できることが多い者ほど、できない時に理由を外へ求める」
誰も動かない。
「本学級では、諸君が何を持っているかだけではなく、どこで崩れるかを見る」
琳斗は、その言葉を覚えておこうと思った。
「今日のところは、名前と所属だけを覚えればよい。能力の確認は明日から行う」
明日。
琳斗は少しだけ肩に力が入るのを感じた。
「これから教室へ移動する。荷物は預かり所から受け取り、指定された座席へ着け。移動中の私語は控えろ」
「はい」
返事が重なった。
真田が壇上を降りる。
二十五名も、順に席を立った。
琳斗はまだ少し痺れの残る左足へ力を入れ、教室へ向かった。




