序章 その先は?
畳の上に、大きな地図が広げられていた。
緑色の山。青い川。黒く細い道。
その上に、赤と黒の小さな木の駒が並んでいる。
丸い駒は兵隊さん。
細長い駒は馬。
四角い駒は荷車。
五歳の神代琳斗は、祖父に教えられた名前を思い出しながら、赤い兵隊を一つつまんだ。
「琳斗は赤だね」
「おじいちゃんは黒?」
「そうだよ。おじいちゃんは、この丘を守る」
祖父が太い指で、地図の中央にある小高い丘を示した。
丘の上には、黒い兵隊が三つ置かれている。
その手前には川が流れ、橋が一本だけ架かっていた。
「ここを取ったら、僕の勝ち?」
「そうだね。取れたら、琳斗の勝ちにしよう」
琳斗は地図へ身を乗り出した。
丘まで続く道を指でなぞる。
「こっちから行く」
「どうしてだい?」
「一番近いから」
「うん。近いね」
琳斗は赤い兵隊を道に沿って進めた。
橋を渡り、丘のすぐ下へ置く。
「着いた」
「早かったね」
琳斗は二つ目の駒をつまんだ。
祖父が橋を指す。
「でも、その橋は狭いんだ」
「狭いの?」
「兵隊さんは、一人ずつしか渡れない」
琳斗は橋の上へ一つ置き、その後ろにもう一つ並べた。
まだ赤い兵隊は残っている。
「いっぱいになった」
「みんなが渡るまで、少しかかりそうだね」
琳斗は丘の下に置いた赤い駒を見た。
「この兵隊さんは待つ」
「待つのかい?」
「だって、一人だと黒い兵隊さんが三人いるから」
「なるほど」
祖父は黒い兵隊を一つ動かした。
丘から橋の近くまで下ろす。
「あっ」
「おじいちゃんが黒い兵隊さんだったら、橋の近くまで見に行くかもしれない」
「ずるい」
祖父は声を立てずに笑った。
「黒い兵隊さんは、琳斗の兵隊さんが全員そろうまで待ってくれるかな」
琳斗は少し考えた。
「待たない」
「そうだね。黒い兵隊さんにも、考えがあるからね」
祖父は黒い駒を橋の手前に置いた。
「おじいちゃんが黒い兵隊さんなら、どうしたら琳斗の兵隊さんが困るかを考える」
「僕も、おじいちゃんが何をするか考える」
「うん。それがいい」
琳斗は橋の近くにいる黒い駒を見た。
赤い兵隊を進めれば、黒い兵隊が来る。
止めれば、後ろの兵隊が橋を渡れない。
「じゃあ、こっちからも行く」
琳斗は川沿いに続く別の道へ赤い駒を動かした。
道は大きく遠回りして、別の橋へつながっている。
「ずいぶん遠いね」
「でも、黒い兵隊さんはいないよ」
「本当にいないかな」
祖父は黒い駒を一つ、山の絵に半分隠れるように置いた。
「そこにいる」
「見つかったか」
「隠したでしょう」
「黒い兵隊さんも、見つからないようにするかもしれないよ」
琳斗は赤い駒を止めた。
「見えないところも見ないと駄目?」
「どうだろうね」
祖父は答えを言わなかった。
琳斗は山の周りへ顔を近づけた。
ほかにも隠れる場所がないか、一つずつ確かめていく。
祖父はその様子をしばらく見てから、赤い兵隊の後ろへ四角い駒を置いた。
「これは?」
「荷車だよ」
「何が入ってるの?」
「兵隊さんが食べる物や、使う武器が載っている」
「おにぎり?」
「おにぎりもあるかもしれないね」
琳斗は荷車の駒を橋へ置こうとした。
四角い駒は兵隊より大きく、橋の端から横へはみ出した。
「通れないよ」
「困ったね」
「小さくする」
「荷車をかい?」
「うん」
「小さくしたら、食べ物や武器を少ししか運べなくなるかもしれない」
琳斗は荷車を橋から戻した。
「じゃあ、橋を大きくする」
「誰が大きくするんだい?」
「兵隊さん」
「丘へ行く兵隊さんが作るのかな」
琳斗は赤い駒を一つ取り、川の横へ置いた。
丘へ向かう兵隊は一人減った。
「この人が作る」
「その兵隊さんは、丘へ行かなくてもいいのかい?」
「橋を作るから」
「丘では戦わないけれど、大切な仕事だね」
琳斗は小さな木片を川へ置いた。
二本目の橋になった。
「これで荷車も通れる」
「うん。食べ物も武器も運べそうだ」
琳斗が荷車を動かそうとすると、祖父は黒い駒を橋へ近づけた。
「おじいちゃんが黒い兵隊さんなら、この荷車を止めるかもしれない」
「どうして兵隊さんじゃないの?」
「荷車が来なくなったら、丘へ行った兵隊さんはどうなるだろう」
「お腹がすく」
「武器も足りなくなるかもしれない」
「じゃあ、荷車も守らないと駄目?」
「どうだろうね」
祖父は、また答えを言わなかった。
琳斗は赤い兵隊を一つ、荷車の隣へ置いた。
「この兵隊さんが守る」
「丘へ行く兵隊さんが、また一人減ったね」
琳斗は丘の下を見た。
橋を作る兵隊。
荷車を守る兵隊。
黒い兵隊を見張る兵隊。
丘へ行ける赤い駒は、最初より少なくなっていた。
「みんな丘に行けない」
「うん」
「でも、いないと困る」
「そうだね」
祖父は丘の近くにいる赤い駒を一つ、静かに横へ倒した。
「あっ」
「この兵隊さんは怪我をした」
「起こしていい?」
「手当てをしたら、起きられるかもしれない」
「お医者さんは?」
「川の向こう側にいるよ」
琳斗は倒れた駒を持ち、橋へ戻そうとした。
橋には、丘へ向かう兵隊と荷車が並んでいる。
「帰れない」
「行く兵隊さんが使っているからね」
「どいてもらう」
「そうすると、丘へ行く兵隊さんと荷車は止まる」
琳斗は橋の駒を前へ動かし、倒れた駒を後ろへ戻した。
今度は荷車が進めなくなった。
「また止まった」
「みんなを一度に動かすのは難しいね」
琳斗は倒れた駒を見つめた。
「この兵隊さん、痛い?」
「痛いだろうね」
「早く帰りたい?」
「琳斗がこの兵隊さんだったら、どうだい?」
「早くお医者さんのところに行きたい」
「そうだね」
琳斗は赤い兵隊の駒を一つ、倒れた兵隊の隣へ置いた。
「この人が連れて帰る」
「その人も、丘には行けなくなるよ」
「でも、一人じゃ帰れないから」
祖父はゆっくりとうなずいた。
「うん。それなら二人で戻ろう」
琳斗は二つの駒を橋の手前で止めた。
丘へ行く兵隊。
荷車を運ぶ人。
橋を作る人。
怪我をした人を連れて帰る人。
地図の上には、赤い駒があちこちに分かれていた。
「戦う兵隊さんが、一番大事なの?」
琳斗が尋ねた。
祖父はすぐには答えなかった。
「丘を取るには、戦う兵隊さんがいないといけないね」
「うん」
「でも、橋を作る人がいなければ、川を渡れない。運ぶ人がいなければ、食べ物も武器も届かない。怪我をした人を連れて帰る人がいなければ、その兵隊さんは帰れない」
祖父は赤い駒を一つずつ指した。
「誰かが止まれば、ほかの誰かも困る。軍は、前にいる兵隊さんだけで動いているわけじゃないんだ」
琳斗は祖父の指を目で追った。
「みんなで動かすの?」
「そうだよ」
祖父の声が、少しだけ強くなった。
「上から地図を見ていると、赤と黒の駒にしか見えなくなることがある。けれど、本当は一人ずつ違う人間だ。疲れるし、腹も減る。怖がることもある。命令が正しくても、道がなければ進めない。武器があっても、使う人が動けなければ――」
そこまで言って、祖父は琳斗の顔を見た。
琳斗は黙って聞いていた。
けれど眉間には、小さなしわが寄っている。
祖父は口を閉じた。
「……少し難しかったね」
琳斗は首を横へ振った。
「難しくないよ」
「本当かい?」
「少し難しい」
祖父は笑った。
「そうか。すまなかったね。おじいちゃんは、少し話しすぎた」
「どうして?」
「琳斗がよく考えるから、もっと先まで話したくなったんだ」
「僕、分かるよ」
「何が分かった?」
琳斗は地図を見た。
丘の前にいる兵隊。
橋の横にいる兵隊。
荷車を守る兵隊。
怪我をした兵隊を連れて帰る兵隊。
山の陰に隠れている黒い兵隊。
「赤い兵隊さんだけ見てたら、駄目」
祖父は黙って聞いている。
「黒い兵隊さんも考えてる」
「うん」
「丘に行かない人も、いないと困る」
「そうだね」
琳斗は少し考えてから、言葉を足した。
「一人だけ頑張っても、みんなは動かない」
祖父の目が、わずかに細くなった。
「よく分かったね」
「全部は分からないよ」
「それでいいんだ」
祖父は黒い兵隊を丘から一つずつ退けた。
「赤い兵隊さんが丘を取った。琳斗の勝ちだ」
「勝った」
琳斗は笑った。
しかし祖父は、赤い駒を地図から片づけなかった。
丘にも、橋にも、川の向こう側にも、兵隊や荷車が残っている。
「終わりじゃないの?」
「どうだろうね」
「勝ったのに?」
「黒い兵隊さんが、また来るかもしれない」
琳斗は丘の上の駒を押さえた。
「じゃあ、守る」
「残った兵隊さんには食べ物がいるね」
「荷車で運ぶ」
「壊れた橋も直さないといけない」
「橋を作る人が直す」
「怪我をした兵隊さんも帰さないといけない」
琳斗は倒れた駒を、川の向こう側まで運んだ。
「お医者さんのところに着いた」
「よかった」
「ほかの兵隊さんは?」
「丘に残る人もいる。別の場所へ行く人もいる。家へ帰る人もいるだろうね」
琳斗は丘から道をたどった。
橋を渡る。
荷車の横を通る。
川の向こうを進み、地図の端まで指を動かす。
そこから先は畳だった。
道も山も、何も描かれていない。
「この外にも、人がいるの?」
「たくさんいるよ」
「何をしてるの?」
「さて、何をしていると思う?」
琳斗は地図の外へ指を置いた。
まだ見えない人。
まだ知らない場所。
丘を取った後にも、何かが続いている。
誰かが橋を直す。
誰かが食べ物を運ぶ。
誰かが怪我をした兵隊を連れて帰る。
その人たちがどこへ行くのか、琳斗にはまだ分からなかった。
「みんな、この後どうするの?」
「どうすると思う?」
祖父はまた、琳斗へ問いを返した。
琳斗は地図の外を見つめた。
「……どうなるんだろう」
それは祖父に尋ねた言葉ではなかった。
琳斗は答えを待たず、地図の外へ置いた自分の指を見ていた。
祖父も答えなかった。
ただ、まだ描かれていない場所を見つめる孫を、静かに見守っていた。
この稿を、序章の完成版として扱えます。




