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あなたの記憶に幸福あれ ~とある記憶管理士の日常~  作者: 緑青ケンジ
第二章 記憶に挟んだ日常の栞と共に
21/22

File2-11 楠木茉莉香の記憶


「どう、茉莉香?」


 ニイナは目を覚ました茉莉香に対して問いかける。それは、ニイナが補完して作り上げた記憶に違和感がないかどうかの確認であった。


「うん、ありがとう。大丈夫だと思う」


 茉莉香はそう言うと、不安げに茉莉香を見遣る正樹へと近づき、そっと彼を抱きしめた。


「ありがとう正樹……そしてごめんね。貴方を一人にしてしまって」


 その優し気な声を聞いて、正樹は感極まったように思わず目を細めていた。


「うんうん、いいんだ。いいんだよ姉ちゃん。思い出してくれて、ありがとう……」


 そこにはニイナが望んだ姉弟の姿が確かにあった。そしてその光景を、ニイナは確かに喜ばしいものとして眺めていた。


「茉莉香ちゃん、念の為だけれど何かおかしなことがあったらすぐに教えてね?」


 茉莉香の記憶地図には今のところ不具合は見られなかった。それ故に真弓としては今回の補完作業が上手く言ったように見えていたが、記憶は繊細であり、時に整合性の取れない違和感が生れる場合がある。それ故に、記憶媒介技術士として経過観察は必要な措置であることを真弓は理解していた。


「ありがとうございます。今まで靄掛かってずっと分からなかった部分を、今はしっかりと思い出す事ができるんです。霧が晴れた、というのはこういう気分のことを言うんですね。ただ……」


 茉莉香は心底嬉しそうに真弓に自分の状況を告げていた。しかし、一方で何か思うことがある様子を茉莉香は見せる。


「お母さまのことですね?」


 ニイナは茉莉香の言葉を引き取った。茉莉香はそれに頷くと共に、自分の胸に下げられたペンダントを取り出し、それを眺めていた。


「正樹の記憶の中にも、私がこのペンダントを受け取った時の記憶は無かった。お母さんがいたという事実は認識できても、どこかまだ遠い存在のように感じてしまう」


 そう、あくまでも正樹の記憶から補完が出来るのは、正樹という当事者の記憶のみであり、関節的に見聞きをした母親の記憶は、正樹の視点を通してのものでしかない。それは茉莉香にとってはあくまでも他者の記憶であり、記憶としてではなく、情報としての認識に未だ留まるに過ぎなかった。


「茉莉香、これお母様から預かってきたの」


 ニイナは、恵から託された薄紫色の封筒を開けると、一枚の栞が中には入れられていた。その栞には、四葉のクローバーが押し花されており、色褪せぬ様にラミネート加工されていた。


 それを見た、茉莉香とニイナはお互いに視線を交錯させる。


 駆け巡るのは遠い懐かしい夏の夕暮れ、そして茉莉香を探す最愛の人の声。


 走馬灯のような記憶の奔流が二人の記憶を確かなものへと変えていた。


「ニイナ、私、お母さんに会ってくる」


 茉莉香は金縁の丸眼鏡を取ると、目元を拭い、そして意を決したように駆けだして行った。


「いってらっしゃい、茉莉香」


 ニイナは茉莉香が思い出した記憶と同じものを想起していた。それは、どうしようもなく切なく懐かし思い出の匂いだった。





 お父さんと、お母さんの仲は決していいものでは無かった。


 私はお母さんの笑顔が好きだった。お母さんが泣きそうな時は慰めて上げたかった。幸せになって欲しかった。


 どんなに頑張っても、今のままではお母さんは幸せんはなれなかった。お父さんと一緒にいることがお母さんにとっては負担だったのだと思う。けれど、それはお父さんも一緒だった。だから二人は離れることを選んだ。それが二人にとっては一番の選択だったから……


 二人は私達を引き取りたがっていた。それはひょっとすると淋しさを紛らわす為だったのかもしれないし、お互いに責任感を持っていたからかもしれなかった……私が父親を選んだのは、母親と一緒に居たがる正樹の為だった。そうでなければ経済的に有利な父親は強硬に私達二人を引き取る事を主張したに違いなかった。


 それを母さんは分かっていたはずだった。


 私の記憶に溢れる幾つもの記憶、それはどううしようもない懐かしさを抱かせるものだった。この街に再び訪れた時以上に様々な記憶が思い出される。それは正樹と母さんの記憶が無ければ、得る事が出来なかったものであることは間違い無かった。


 街並みも、その空気も、匂いも、全てが過去の記憶と重なり合い、綯交ぜになって今の自分自身との比較の中で、思い出を美しいものへと昇華させて行く。それは私にとって苦い記憶であったはずの家族の離散という経験すらをも、その懐かしさの一部に取り込んでいく。


 正樹と遊んだ公園を過ぎて、母におぶられて通り過ぎた橋を通り、朝には笑顔を見せてくれた近所のおばあちゃんが住んでいた家を横切って、自分の家の近くに来たことを知らせる街灯が目を奪う。


 ようやく我が家に帰って来たという実感に胸が一杯になりながら、私はインターホンを振るえる指で押した。


『はい、どちらさまでしょうか?』


 インターホンから聞こえる声に、思わず感極まりそうになる。昨日は込み上げる事の無かった感情に今はどうにかなってしまいそうだった。


「お母さん、私です。茉莉香です……全部、思い出したの……」


 インターホンが切れると、直ぐに家の扉が開き、母が、口を抑えながら私を見つめていた。それは後悔と愛情が入り混じった声にならない思いの表れに見えた。


「ただいま、お母さん」


 昨日は言えなかった言葉が口を突いて出てくる。これは私の幸せを願ってくれた、私が幸せになって欲しかった母へどうしても言いたかった言葉だった。


「ああ……茉莉香……」


 気が付けば私は再び駆けだしていた。母の温もりを求めて、開かれた腕の中に飛び込んでいた。


「ごめんなさい、茉莉香……本当に、ごめんなさい……」


 ニイナの記憶から、母が泣いていたことを私は知っていた。それはひょっとすると歪んだ愛情なのかもしれない、自分に都合のいい解釈であったのかもしれない。けれど、それ以上に私へ向けられた愛を、私は知っている。


「ううん、いいの。私のこと、覚えていてくれてありがとう。ずっと、ずっと、私のこと覚えていてくれたんだね、それだけで今は嬉しいの……」


 私はニイナに渡された押し花がついた栞を取り出し、そして首から下げたペンダントと共に母へ見せた。この二つが、私にとっての記憶の鍵だった。母に渡し、そして母から貰った愛情の形だった。


「いつも悲しそうな顔をするお母さんの為に私は四葉のクローバーを探していた。必死になって探して、遅くまで探していた私を探しにお母さんが来てくれたのを覚えている。ようやく探し出したクローバーを、お母さんに渡した時、お母さんは私を抱きしめてくれた。ねえ覚えてる?」


 お母さんは強く頷きながら、溢れる涙を止める事ができないでいた。摺り寄せられた頬は涙で濡れているけれど、それが今は心地よかった。


「うん、うん……嬉しかったのよ、でも、一緒にはいれないと分かっていたから……あなたには何もしてあげられなかった」


「そうね、私がお父さんのところに行くことを選んだから……だからお母さんは自分のペンダントを代わりに私にくれたのね。私、お母さんのこともお父さんのことも大好きだったの」


 もし、許されるなら確かにあの時、家族のままでいることが出来たらと願わずにはいられない。けれど、それが不可能だってことぐらい私にもわかる。だけど、一つだけ我儘を聞いて欲しかった。母に今も愛されているという実感を求めていた。


「ああ……茉莉香、茉莉香……」


「だからね、言って欲しいんだ、お母さんに、お帰りって」


 私は精一杯の笑顔で、母を見た。母もまた、精一杯の笑顔を作って私を見ていた。


「茉莉香……お帰りなさい」


 過去の関係は二度とは戻らない、けれど新しい形を作ることはきっと出来る。


「うん、ただいま、お母さん」


 だから、私はこの記憶を二度と忘れることはないと思う。この記憶は、確かに私が愛されていた記憶に他ならないのだから。



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