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『アスタリス』

 

 ガレスの街に行ったその日の深夜。

 レイは薄暗い書庫にて調べ物をしていた。

 頭上に“ライト”の魔法を浮かべて手元だけを見えるようにしている。何故明かりを点けないかというと、ただそちらの方が燃費がいいという理由のためだ。


「アスタリス、アスタリス……ないな」


 レイは分厚い本のページをパラ、パラ、と本当にそれで読めているかというハイペースでめくり続ける。


 彼女は今、ソウマの実の親、その家名である『アスタリス』その名前をレイは各国の歴史書に掲載されていないか調べていた。

 もし一般の家系であればそんな本に載っている可能性は皆無であるのだが、そもそも引き篭もり気質なレイが調べれる範囲での情報がこれくらいしかないのだ。


 そして厄介なことにレイが持っている本を買ったのは一番最近で数十年前ーー尚これはソウマのために買った絵本や料理本を除外するーーである。

 もし貴族であったとしても新興貴族であればその情報が載っているはずもない。

 そして歴史に残す価値もないような力の振るわない零細貴族であっても同じことが言える。

 今レイのしていることは勝率の悪い賭けをしているようなものである。


 この件は数年前から始めて未だに見つからず今に至るところである。

 このレイ自慢の書庫で貴族及び有名な冒険者が載っている書物をかたっぱしから調べているがその情報の欠片も掴めていない。


「シャルの方はどうかな?」


 レイはこの件、ソウマの生家の調査をシャルにも頼んでしてもらっている。

 シャルはレイの親友兼弟子兼娘のようなものであるが今の魔王という立場を使ってもらって仕事の合間などに調べてもらっている。

 魔法関連の本なら充実しすぎるくらいに所有しているレイだが貴族関連の本はあまりにも少ない。

 あるものといえば今利用している歴史書、もしくは貴族に対する一般常識を書いてある本などしか置いていない。

 今でも現役で国王として活躍しているシャルならばレイよりも幅広い情報を調べることが可能になるだろう。


 その為シャルは直接ソウマとは関係がないのにレイが頼んだばかりに無駄な仕事を増やしてもらっている。それなのに迷惑なそぶりを一つ見せずに調べてくれるのだからレイはシャルには頭が上がらなくなってきてきた。

 当のシャルはその借りを使ってどうレイに返してもらうかを妄想したりしているがそれは余談である。


「ハァ……」

(そもそもソウマが貴族である可能性も低いというのに、探すのも土台無謀な話しとも言えるな)


 レイはソウマが来てから数年、子育ての合間合間に外へと赴き、アスタリスという名に聞き覚えはないか聞いていた。

 しかし答えはどこへ行っても「知らない」だった。

 もしかしたら大きな街に訪れていたらそれに聞き覚えのある者がいたかもしれないが街に入るための許可証を以前は持っていなかったためそれが出来なかった。


 今読んでいた本を棚へと戻し、その隣にある本に手を伸ばそうとするがその背表紙に書いてある国名を見て一瞬手を止める。

 そして一瞬止めた手を再び伸ばして、その列に並んでいる本の中で一番分厚いそれをグイッと引っ張り出すようにして取り出す。


「あとは……帝国かぁ」


 レイが今の今まで後回しにしていた国。

 その歴史書に薄っすらとかぶった埃をパンパンと手で払いながら近くに置いてある椅子に座る。

 その歴史書に書いてある題名、それは『フィランシェ帝国史』。

 フィランシェ帝国、それは人族が治める国家の中でも最大であり、最古の歴史を誇る大国である。


 そしてレイ個人としても関係の深い国でもある。


 レイはその顔を少し顰めながら本をパラリと捲り始めた。




 ☆★☆




『お姉様! 夜分遅くにすいません。つい先程例の件の調査が終わりました!』


 胸に付けてあるブローチが光り、唐突に入ってくるシャルからの連絡。その内容はソウマの両親についての調査が終わったという内容。

 本来ならその朗報に諸手を挙げて喜んでいたであろうレイ。


「ああ、シャル。わざわざありがとう。丁度こちらも見つけたところだ」


 だがそのレイの返事は微妙なもの。

 つい先程までならその報を素直に喜ぶことができただろう。

 しかし今となってはそれも微妙な気分になる。

 シャルが見つけたところに折良く自分も見つけてしまったからではない。

 その国が問題だった。


「まさか、これに載ってたとは……」


 レイはフィランシェ帝国の歴史書に書いてある『アスタリス』という項目を見つめて顔を歪める。

 レイはアスタリス家に書いてあるところをシャルにも聞いてそれが彼女の情報と一致するかどうか確かめるべく声を出して読む。


「『アスタリス家、我が帝国の五大公爵家の内の一つである。貴族の中では比較的若い部類ではあるがその歴史の厚さは他のどの貴族にも劣っておらず帝国の代表する大貴族の一つとしてその名が知られている』」


 想像の遥か上を行っていたことにレイは珍しく目を見開き絶叫する。


「ってか思ったよりも大物だった。公爵家!?」


『ですよねっ! 驚きですっ!』


 シャルも相当に驚いたようで向こうで興奮しているのが魔道具越しでもわかる。

 この世界の貴族制度は大体どこも同じであり一番下から騎士爵、準男爵、男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵、そして一番上に王家がくる順となっている。

 例外としてティニアの家のような辺境伯や国王の兄弟が大公という地位についたりするがそれはあくまで例外である。

 つまり帝国においてアスタリス家は王家に次ぐ権力を持つ家ということである。


「『アスタリス家の歴史は数百年前に遡る』思ったよりも最近なんだな。帝国にしては」


『そうなんですか? じゅうぶんな歴史があると思いますが』


 レイの言葉にシャルが疑問の声を上げる。


「いや、帝国の歴史は千年を超える。帝国ができた当初からある貴族家に比べれば結構最近だ。てか古いといえば魔国が筆頭だろう?」


『まあ、それはそうですけども。そんな歴史を重んじる気風じゃありませんし』


「まあ、それはそうだがな」


 魔国は良くも悪くも実力主義な国家。

 それはミスティリア王国のいうような『実力主義』ではない。

 魔国という国は今でこそ多種族が住む国家となっているが元々は魔族たちが立ち上げた国である。


 まず、魔族というのはこの世界でも少々特殊な生態を持つ種族である。

 普通は種族ごとに凡そのラインとなる寿命が定められている。例えば人族は百歳前後、獣人族は約百五十歳、そしてエルフ族は五百歳から六百歳ほどである。

 しかし魔族はそれが曖昧であり、その寿命の長さが魔力の多さによって決まる。

 ヒトによっては人族と同じ歳しか生きられない者もいればエルフ族を越す年月を生きる者もいる。

 一概にそうだとは言えないが強いものほど長く生きる、こういっても良いだろう。

 そしてその魔族の多くは気性が荒い。


 そしてそんな魔族が作り上げた国がどうなるか。

 それは即ち強き者が上に立つ『脳筋国家』の出来上がりである。


 魔族がバカというわけではない。

 口よりも先に手が出てしまうというだけで事務仕事も普通にできる。

 でないと国家が成り立たない。


 つまり、魔国ディートレスは力のあるものが絶対上位者となれる国でありその気風から世界から強者も集まりやすい。

 その癖、外敵が迫ると争いをピタリと止めどれだけの敵を倒したかで競い合うものだからタチが悪い。

 力を持つ者は敬われる。

 他者よりも逸脱した才能を持った者は尊重される。

 どんな出自であろうと実力があれば成り上がれる。

 もちろん他国でもそういった風潮は存在する。しかし魔国はそれが極端な国であり、早い話、そんな気質を持つ魔国は力を持つ者からしたら居心地が良いのだ。


 そのため滅びるようなこともなく嘗ての古くから今に至るというわけだ。

 最古の歴史を誇ると共に世界最強最大の国である魔国はある種一つの国家としての理想形とも言える。

 ただその気風から古きを重んじるではなく、強きを重んじる国でありそれ程歴史的なことには頓着していない。


「ていうか、そんな国の魔王なシャルは何で帝国の公爵家なんていうビッグネームを知らなかったんだ?」


『だって興味ありませんし、あくまで私は象徴的なやつですから。いつもの仕事も宰相たちが見てオッケーだったやつにハンコを押すだけのようなやつですし』


「そういえば、そうだったな」


 魔国の貴族は他の国と同じように基本世襲制である。

 しかし、魔王につく者は決まった家があるというわけではなく一番力が強い者ーーー他にも色々と決まりはあるがーーーがその当代の魔王を務めることになる。

 その為魔王が力の象徴として最上位に君臨したとしても、実務などは全て国に仕える武官及び文官の仕事となる。

 因みにシャルの場合は少々事情が異なるがそれはまた別の話。


『それに私もその名前を宰相から聞いて初めて知りましたから……』


「うん? ちょっと待て。私が頼んどいてあれだが、私がシャルに頼んだの、数年前だよな? その間に誰かに聞くとかはしなかったのか?」


『だって私がお姉さまの役に立つってことを見せたかったですし……誰かに頼ったら私じゃなくてそのヒトの成果になってしまいますもの。それに、お姉さまも昔のことを拘らず一度帝国に行けばすぐに済んだ話でもあるんでしょう』


 厳しいところを突かれてレイは「うっ!」とつまる。


「ま、まあそれはそうだがなぁ」


『それよりも続きを読んでください』


「あ、はい」


「『元は平民であったアスタリス家。代々特殊属性が遺伝されているというのはわかっていたが判明せず長い時を過ごしてきた。そしてある戦争の折遂にその属性が判明した』」


 今まで謎に包まれていたソウマの特殊属性、思わぬタイミングで手に入りそうなその情報にレイも心なし読む声が大きくなる。


 レイはページを一つパラリと捲り読み進める。


「『アスタリス家の遺伝特殊属性《鏡》、その絶大な力により大きな戦果を挙げたアスタリス家は貴族に叙されることになる。それからも国の防衛線として国に多大な貢献を齎したアスタリス家は《鏡のアスタリス》としてその名が世界に轟くことになった』」


 思わぬ情報が手に入り、説明に一区切りついたところでレイはパタンとその本を閉じる。

 そして二人揃って微妙な雰囲気になりながら黙り込んだ。

 少々の沈黙の後、レイが少し遠い目をしながら訥々と話し出す。


「……なんか、すごい有名だったらしいな。アスタリスっていうのは」


『そうですね』


 思わず判明したソウマの特殊属性。

 そしてソウマが有名な冒険者どころか大貴族の嫡男だったことがこの本でわかった。

 しかも小国であるならばまだしも、帝国というのは人族が治める国家の中では最大なのにである。


 二人は数年かけて探していた情報が手に入った満足感と共に、少し手段を変えてればほんの少しの時間でその情報が手に入っていたということに少し切なさを感じていた。


「なんか私たち、思いっきり空回りしてたみたいだな……」


『そうですね……』


 なぜ数年かけてそれに辿り着けなかったのか二人して疑問に思う。

 何ということはない。ただ二人が妙な面で意地を張り、その結果無駄な遠回りをしてしまっただけである。


「何だったんだろうな、この数年間……」


『そうですね〜(私はお姉さまに連絡する理由ができてよかったですけど)』


 そう嘆くレイに対して何処か適当な相槌になるシャル。シャルとしては顔も知らないソウマのことよりもレイとしゃべる口実ができたことの方が重要だった。


「それよりも、ありがとうな、シャル。こんなすぐ分かるようなことに数年間も付き合ってもらって」


『それ程でも有りますけどっ! 一つ、お願いが!』


 レイがシャルに礼を言ったところで彼女は待ってましたとばかりに急にテンションがアップする。

 いつもならば上げないであろう声量に思わずレイは体をびくりとさせる。


「お、おう。何だ?」


 前もって自分がそう言うのを予期していたシャルに彼女がどんな願い事をするのか少し身構える。


『今度、また私に稽古をつけてくださいませんか?』


「ム?」


 思わぬ言葉にレイが小首を傾げる。

 思っていたよりも至極簡単な願いだったからだ。


 レイとしては少々予想外なシャルの願いに一瞬返答が詰まってしまうが、その後すぐに「ああ、それくらいなら別にいいぞ」と返す。


「しかし、どうしてだ?」


『えっと、それはですね』


 シャル曰く、最近余りに動いてなさすぎて何かに発散したいとのこと。魔国では自分が一番強いために渡り合えるだけならそれなりにいるが、全力でできるとなると一気に減ってしまうのだそうな。

 長くレイに付き添ってきたシャル、その戦闘狂の部分は彼女にもしっかり受け継がれているようだ。


「まあ、元より断るつもりもなかったから構わないが、場所はどうするつもりなんだ?」


『実はうちの城の地下に新しい訓練場が建設されまして、強度実験も兼ねてそこでいかがでしょうか?』


 そうシャルに問われたレイ。否があるはずもなく即座に了承する。


「なら、そこにしようか。いつそちらに行けばいい?」


『えー、出来れば一週間後の今くらいの時間でどうでしょうか?』


「こんな遅い時間でいいのか?」


 レイは外を眺めるが明かりは僅かしか入っていない。深夜だから当然である。


『ええ、けど、日中だといろいろしなければならないこともありますし、夜だとこちらも時間が取れますので』


 レイはそのシャルの説明に納得する。

 シャルは魔王のやる仕事にやる気があまりないだけでサボってるというわけではない。昼間は色々と忙しいだろう。

 それにそれを考えたらレイにしても日中はソウマの修行を見なければいけない。


「すまないな。その程度も気づけなくて」


『いえいえ! いいですよ! 謝罪なんて』


 なんとなしに謝ったレイに思いっきり恐縮がるシャル。

 そこで、レイはなんとなしに少し気になっていた別の話題を振ることにする。


「それで、話は変わるが最近国内の様子はどうなんだ? 前に少し不安定になってるみたいなことを言ってただろう?」


『うーん、まあ、怪しい動きというか、それを掴めてはいるんですけど……』


 どこか詰まったようなシャルの物言いにレイは首を傾げる。


『正直、勢力の規模はそこそこ大きいんですけど、戦力が微妙なんですよね〜』


「ああ、そういう」


 基本的に質が量に勝つことはできない。

 しかしそれはあくまで基本的にでありこの世界は質が量に勝利するということが多々ある。

 ヒト族という括りにおいて最高位の一人に名を連ねるシャル。彼女もそんな量を質で覆すことのできる強者の一人。

 彼女からしたら大体のものが戦力として微妙だと感じるだろう。


『それに、うまく身を隠せてはいるんですけど、そこからの対応がお粗末で、あらゆる面で脅威とは言えないレベルなんですよ』


「ふーん、それならすぐに潰せばいいじゃないか?」


 それが可能であると信じるがための軽い口調。

 しかしシャルは『別に潰すまでもありません』と返す。


『それにこのままいくと、私としても結構いい方に転がりそうなんです。だから現状は放置、です』


 不安定であるのに良い方に転がるとはどういうことだ? と思いながらも口には出さないレイ。

 彼女としてもなんとなく出した問いでありそこまで詳しく知りたいというわけではなかった。


「まあ、それならそれでいいんだ」


『それで、どうするんです? そのソウマ君の親が見つかったのだったら親元に戻したりするんですか?』


 そのシャルの問いかけにレイは「そこだよな〜」と返しながら苦い顔をする。


「ふーむ」


 レイはしばし考え込む。ここは帰すというのが一番かもしれないがようやく修行を始めた途中。才能があるとわかっていて帰すのが少々惜しく感じられる。

 しかし子供はちゃんとした親の元で育ったほうが良いのではないかという気持ちもある。


「けどなぁ、やっぱりそこには一回行ったほうがいいよなぁ」


 “そこ”とは勿論ソウマの実家のことである。


『私も一応言っておいたほうがいいと思いますけどね。親御さんも心配してるでしょうし』


「だよなぁ。てか親はまだソウマが生きていると知っているのか?」


 ソウマがこの蠱毒の島にやってきたのは魔道具が不良品だったことによる誤作動。その誤差によっては転移した時点で死亡というのは十分にあり得る。寧ろそちらの確率の方が遥かに高い。

 試作型転移珠、それによって飛ばされる場所は地上だけではない。雲の上という遥かな大空に転移してしまったり、人の生きれない深海に転移するということもざらにある。

 その当時赤子だったことを考えれば生存はもはや絶望視しているだろうと言ってもいい。


『そこまでは流石に分かりませんよ』


「だよなー。ま、時間があれば一回行ってみるわ」


『それがいいと思います』


 それで二人の会話は一旦打ち切られる。


『それで、お姉様は最近どうなんですか? 先程から私ばっかり話していて全然お姉様の話を聞いてません』


「ん? そうか、じゃあ私からも何か話すか。そうだな、今日はソウマと一緒に前にも一度行ったミスティリア王国のガレスという街に行ったんだがな・・・」


 二人はいつものように深夜の長い時間を会話で楽しみながら過ごす。

 そうして二人は朝まで他愛もない穏やかな時を過ごすのだった。




 ☆★☆




「おやすみなさい! 父さま、母さま!」


「ああ、おやすみ」


 帝国某所にて。

 とある邸の一室にいる男女の二人組。彼らは手を振りながら使用人に連れられ寝室へと向かう娘を見送る。


 扉がバタンと閉まり先ほどまで娘が居て賑やかだった空間が静寂へと戻る。

 使用人もおらず、部屋にいるのは二人だけ。

 丸テーブルに向かい合いながら座る二人はまだ小さいながらも元気に育ってくれた娘のことを思う。


「本当に、スィーアは大きくなったわね」


「ああ、もう五歳だ……」


 二人でそう笑いながら娘の成長を喜び合う。


 しばらく紅茶を楽しみながら静かな時を楽しむ二人。言葉を交わすことはないが二人はそんなゆったりとした時間を楽しむ。


 突如、母親の紅茶の入ったカップを持つ手が小刻みに震えだす。

 その美しい顔は未だ笑顔に保たれているがその目には涙が溜まり始め、瞳がふるふると震えだす。

 それを見た父親はすぐさま立ち上がり母親の方へと駆け寄り背中をさすった。

 慌てることなく動いたその様子からは、その発作が今日初めてではなく日常的なものであることを示していた。

 それを受け、ついに箍が外れたのか母親は椅子から崩れ落ち膝をつく。そして両手で顔を覆いながら嗚咽を漏らし始めた。


「うっ、うぅっ!!」


 その漏れる掠れたような声からは先ほどまでの穏やかな状態からは想像もできないような悲壮が漂っている。

 妻である彼女の状態を見て背中をさする彼、夫の方もそんな彼女の気持ちがわかるのか顔を伏せながら沈痛な面持ちをする。

 顔を覆う手から溢れ出す大粒の涙。それが床の絨毯に無数に落ち、その絨毯の赤い明るい色を滲んだ暗い色へと変化させる。


「うぅっ! 何処へ行ったのよぉっ!」


 慟哭と共に張り裂けそうになる喉から一つの名前を絞り出す。

 嘗て信じていた、新たな命をその腕に包み最愛の夫とこれからの幸せな日々を夢見ていたあの頃。

 今でも鮮明に覚えている。

 幸せの絶頂だったあの日々を、その後に起こった悲劇を。

 そして今でも忘れない。

 些細なミスでその腕から零れ落ち行方不明となったまだ幼い我が子のことを。



「何処へ行ったのよぉっ、ソウマぁっ!!」



 未だ、再会の日は訪れない。




誤字脱字や文章の違和感などの指摘大歓迎です。

次話の投稿時期は未定です。

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