第十話 生徒指揮者の役目 Ⅲ
「……あの、お話は終わりましたか?」
降って沸いたように上がった声を聞き取った瞬間、俺と淑乃は肩を震わせる。いつの間にか準備室の扉が開いていた。そこに立つのは――。
「董弥……」
姉に名前を呼ばれた董弥は、そのまま俺達のもとに歩んでくる。
「姉さん。もう昼休みは終わってるんだけど」
「あ」
「え」
俺達は、二人揃って間抜けな声を上げた。反射的に時計を確認すると、たしかにもう午後の練習が始まっている時間である。
「はあ」
董弥はため息を吐きながら大袈裟に肩を竦めた。芝居がかったその態度が、どうにも胡散臭い。
「姉さん、俺のこと嫌いだろ」
「は? いきなり何?」
「他の人にはストレートになんでも言うくせに、俺はほぼ無視だもんな」
「……そんなことない」
「お、お前ら、もうちょっと穏便に――」
「秋村さんは黙ってください」
「あ、はい」
この情けない大人はなんだ。カカシか。
「父さんと俺のことが、そんなに憎いのか?」
「どうしてそうなるのよ」
「そんな露骨に態度で示しているのに、よく白を切れるな」
「別に、他のみんなにも態度は同じでしょ」
「姉さんはわかりやす過ぎるんだよ。そのくせ一人でなんでも抱えるから、本当に困る」
「……じゃあ、どうしろって言うの? あんたもお父さんも、優秀でエリートなんだから何も困らないでしょう!? どうせ私なんかお母さんの付属品でしか――」
「それ以上言ったら、今すぐ俺は吹奏楽部を辞める」
「なっ……」
セリフに急ブレーキを掛けられた淑乃は、思わず咳き込んだ。
「――へ!?」
一拍遅れて、俺の場違いな奇声が響く。当然、二人にキツく睨まれた。もはや俺の立場がわからない。
「……どうして俺が中学の部活を立て直したか、わかる? この高校の吹奏楽部も、俺がどういう気持ちで入部したのか、姉さんは考えたことある?」
「私が目障りなんでしょう? 全部自分の功績で塗り替えるつもりなんじゃ――」
「あんたを追って来たんだよ!!」
被害妄想百パーセントの淑乃の言葉を、董弥は自らの声で掻き消した。
「父さんの再婚が決まって、この町に引っ越してくるのが決まったのは、俺が中学一年の夏だった。ちょうどその時、転校先の学校が出場するコンクールを聞きに行ったんだよ。あの『メリー・ウィドウ』を、ね」
考えればわかることだったが、この姉弟は同じ中学校を卒業している。つまり「董弥が立て直した」吹奏楽部は、「淑乃の代でめちゃくちゃになった」吹奏楽部と同一ということである。そして、めちゃくちゃ具合を象徴する演奏を、彼は生で聞いていたのだ。
「何それ。じゃあ、私のこともそこで失望したんでしょ?」
「違う! あのバンドでまともな演奏をしていたのは、姉さんだけだったじゃないか!」
董弥が声を荒げると、淑乃は明らかに動揺し始めた。
「俺が転校した時には、もう姉さんは引退していた。それでもあの演奏には違和感しかなかったから、いろいろ聞いて回ったよ。姉さんが虐められていて、孤立したことも知った。ふざけんなって思ったよ。俺は、姉さんのことを見て見ぬふりしていた同級生達ごと、吹奏楽部を更生させることにした」
「更生……」
言葉選びが不穏であるが、彼なりに本気だったことが窺える。よほど許せなかったのだろう。
「翡翠館に入った後も、姉さんは相変わらず評価されてないみたいだったし、どういう訳かまた部活そのものがぐちゃぐちゃになってるって噂で聞いたんだ」
それだけ聞くと、まるで淑乃が疫病神である。俺じゃないんだから、と口を挟みかけてやめた。
「優秀なあんたにはわからないでしょ。私はあんたみたいに器用じゃない」
「母さんに喜んでもらいたかったって、さっき言わなかった?」
董弥が指摘すると、痛いところを突かれた淑乃は何も言い返せない。俺との会話を盗み聞きされていたことを指摘する余裕も無いようだ。
「俺だってそう思っているに決まってるだろ。なあ、姉さん。そろそろ壁を作るのはやめようよ」
淑乃は、董弥のことをとうの昔に認めているのだろう。
彼女は自分自身が認められないのだ。いや、認めてもらう方法がわからないと言った方が正確か。
しかし、もしそうであるならば彼女は大切なことを忘れている。
「一ついいか? 淑乃、お前は選ばれて生徒指揮者になったんだろ?」
翡翠館高校吹奏楽部の役員は、立候補制ではない。部員間での投票で決まる。つまり、淑乃は少なくとも半年以上前から、仲間達に認められていたのである。排除されていた中学時代とは違うのだ。
「そ、それは、日向が死んじゃったから……」
「日向は、選ばれるとしても部長だろ」
「でも――」
「姉さん。秋村さんの言う通りだよ。みんな姉さんを受け入れているんだ。だから、姉さんも自分自身を認めてあげて」
淑乃はきつく唇を噛んだままである。
「……秋村さん」
「ん?」
董弥は、徐に俺の方へ向き直った。
「この間は『失敗する』なんて言ってすいませんでした」
「ああ。本当にな。不吉過ぎて眠れなかった」
「ははは」
「笑い事じゃねえんだよ」
「あの時、生徒指揮者を代わって欲しいって言いましたよね?」
「……言ったな」
俺達の会話を聞く淑乃は、取り残されてしまったように呆然としている。
「その件も、すいませんでした。俺、秋村さんを試してました」
「は?」
「もし簡単に姉さんを見限るような人が指揮者だったら、そんな人には吹奏楽部を任せたくないと思って」
「……なるほど?」
「演奏会で失敗したのは、もちろん俺達が未熟だったからです。秋村さんが全部悪いなんて、そんなことを思っている部員はおそらく一人もいません。だから――」
董弥は、隣で固まっている姉を一瞥してから、再び俺を見つめる。
「姉さんに基礎合奏を託す決断をしたあなたを、俺は信じることにしました」
「それは……光栄なことだな」
嫌味ではない。誰かに信頼されることなど、吹奏楽部に再び関わるまでの俺には無縁だったのだから。
「姉さん。俺達も秋村さんの気持ちに応えなきゃいけないんじゃない?」
淑乃は、黙ったまま小さく頷いた。
「それとさ。母さんに今度の演奏会のこと、伝えてなかったの?」
「……うん」
董弥は右手を額に添えて、深々とため息を吐いた。
「なんの話だ?」
突然置いてけぼりになった俺が尋ねると、董弥がやれやれと言った感じで肩を竦める。
「俺達の母さん、あの総合病院にいるんですよ」
「えっ」
想定外のセンシティブ情報に、俺の顔が強張った。
「ああ、心配しないでください。患者ではありません。看護師の方です」
「そ、そうか……」
そういえば先ほど淑乃が「今の時間も働いている」と言っていたことを、俺は思い出した。
「『メリー・ウィドウ』をやるって聞いて、母さんも喜んでたよ。『また淑乃があの曲を演奏してくれるんだ』って、笑ってた」
董弥の言葉を聞いた淑乃が驚いた表情を浮かべたのは、ほんの刹那であった。
一度目を閉じた彼女は、そのままゆっくりと深呼吸をする。
「……それなら、絶対成功させなきゃいけないじゃん」
どんなことに思いを巡らせたのか、俺には知る由もない。
ただ、淑乃が微かに笑みを浮かべているのを見て、俺と董弥はようやく緊張感から解き放たれたように脱力した。
「――それなら、こんなところで油を売ってる場合じゃないな?」
俺が意地悪くそう声を掛けると、二人はお互いの顔を見合わせた。淑乃が慌てて椅子から立ち上がる。
「失礼しました!」
先に董弥が部屋を出て行った。
後に続いた淑乃の背中に向かって、俺はもう一言だけ伝えることにする。
「淑乃。いいことを教えてやろう」
「……何?」
振り返った淑乃が怪訝な顔をした。
「生徒指揮者っていう役職は、性格が良い奴には務まらないんだ」
皮肉めいた俺のセリフに、淑乃は呆れた目をしながら口を開く。
「ひねくれた女で悪かったね」
予想通りの返答に、俺はつい噴き出した。
「そういうところだよ」
俺が返した言葉に目を丸くした彼女も、声を出して笑い始めた。
そして、そのまま廊下へと足を運ぶ。
「――ありがと」
ほとんど聞き取れないような言葉だけを最後に残して、彼女は練習へ向かっていった。




