第十話 生徒指揮者の役目 Ⅱ
俺は一度目を閉じ、頭の中からとある旋律の譜面を引っ張り出す。
「立たせたままで悪かったな。まあ、とりあえずここに座れ」
自分が座っていた椅子から立ち上がって淑乃に促すと、彼女は戸惑いながらも腰を掛けた。
俺はそのままアップライトピアノの椅子に座り、少し埃を被った蓋を上げる。
「お前にとっては悪夢みたいな曲かもしれないが」
整然と並ぶ鍵盤に手を添え、困惑している淑乃に声を掛けた俺は、そのまま指を滑らせた。
可愛らしく跳ねるような序奏から、柔らかく叙情的なメロディーがしっとりと紡がれる。
――『メリー・ウィドウ』のヒロイン、未亡人のハンナが歌唱する『ヴィリアの歌』である。
俺がピアノを弾く姿を見るのは初めてだからか、淑乃は呆けた顔で俺の指先を見つめていた。
この曲が登場するのは、第二幕の冒頭。自らが開いたパーティーで、ハンナが客をもてなすために歌う曲だ。森の妖精であるヴィリアに一目惚れした狩人の恋心を歌ったものだが、劇の内容とは一見関係無いように見えて、かつての恋人であるダニロに振り向いて欲しいというハンナの気持ちが見え隠れする名曲である。
吹奏楽編曲版では、中間部に演奏される。鍵盤打楽器が奏でる旋律の独特な響きが印象的で、聴衆に子守歌のような安心感をもたらしてくれる。
「……俺は、この曲が大好きなんだ」
悪戯を告白するように、ワンフレーズを弾き終えた俺は淑乃に向かって呟いた。
「指揮者をやっていた父の公演を収めた録画の中で、一番のお気に入りが『メリー・ウィドウ』だった。今回この曲を選んだ俺にも、たっぷり私情が挟まっていた訳だ」
砕けた調子で言ったものの、淑乃の表情は依然として硬い。
「名曲と言われる楽曲にはそう呼ばれるだけの理由があるけれど、結局は奏者次第でどうにでもなってしまうんだよ。どんな事情があっても、楽曲そのものには罪なんて無いんだ」
「……私が子どもで分からず屋だから、全部楽曲のせいにしてるって言いたいの?」
「違う。せっかく巡り会えた楽曲を、クソみたいな奴らにぶち壊されたせいでトラウマにして欲しくないんだ」
俺の言葉に、淑乃は大きく目を見開いた。
「だってそうだろ? 観客がお前一人でも、俺は今の演奏が楽しかったし、やっぱり良い曲だなって感じたよ。今までお前らと演奏してきた曲も、全部そうだ。そういう素晴らしい楽曲に出会えるのが、音楽をやる者の醍醐味じゃないか?」
俺は淑乃のもとに近づき、膝を曲げて目線を合わせる。
ぎゅっと握られた彼女の拳の上に、俺は自らの手を乗せた。
「お前も、今まで本当に頑張ってきたんだな」
「え……」
「さっきの話。『誰よりも上手くなるまで練習した』って言っただろ? そんなの、並みの中学生にできることじゃないよ」
その執念は、高校でも崩壊しかけた吹奏楽部にこだわり続けたことへと繋がるのだろう。
「私の楽器……。お母さんが使ってた物なんだ」
ぽつりと、淑乃が呟く。
「お母さんもずっと吹奏楽をやってたんだって。死んじゃったお父さんは、高校の吹奏楽部の先輩だったの。だから、小さい頃から私の周りには音楽が溢れてた」
「そうか。良い話じゃないか」
「……ううん。小学生の時にお父さんが死んじゃってからは、無音だった」
躁鬱の落差に、俺は胸が締めつけられる。
「五年生になった時、押し入れに眠っていたお母さんのトランペットを見つけたの。私がいた小学校は金管バンドがあったから、すぐに入った。私がお母さんを元気づけなきゃと思って」
ようやく、彼女が音楽にこだわる理由がわかった。
淑乃も、自分が奏でる音楽で他者を幸せにしたいという気持ちが原点なのだ。
その事実に俺は心の底から安堵した。
「あのさ。私、生徒指揮者を降りるべきだと思う」
「――なんだって?」
油断した俺の背後を刺すように、淑乃はいきなり突拍子も無いことを言い始めた。
「だって、私が基礎合奏を見るようになってから、雰囲気悪くない? それに楽曲を変えて欲しいなんてわがままを言う人が、務めるべき役割じゃないでしょ……」
明らかに淑乃は弱っている。出会った時から物騒な奴だったが、自信には満ちていた。良くも悪くも、信念を貫いていた。その真っ直ぐさが、今の彼女には無い。
「降りたら、余計に居場所が無くなるぞ。それでもいいのか?」
「そりゃ、良くはないけど……」
「今のあいつらは、お前を虐めることなんてしないだろう。でも、つらい思いをするのはお前だ。音楽ができなくなるかもしれないんだぞ?」
「……」
どうすればいいかわからないとでも言うように、淑乃は黙りこくった。
――俺はそんな彼女の姿に、過去の自分を重ねていた。
「淑乃」
名前を呼ぶと、彼女の目が俺を捉える。
「吹奏楽部が新体制になった時、俺がみんなに言ったことを覚えているか?」
「……どれのこと?」
淑乃は困惑しながら聞き返した。その素直さが微笑ましい。
「ステージには、全員で乗る。個人差があろうがムラが大きかろうが、メンバーから外すことは絶対にしないって、言ったじゃないか」
「あ……」
「今でもその気持ちは変わらない。全員でやるんだ。全員でやらなきゃ、ダメなんだよ」
つい語気を強めてしまった俺は、我に返って彼女から目線を逸らす。
「俺が言っても説得力が無いことは、自分自身が一番よくわかってる。でも、この吹奏楽部で俺みたいな思いをする奴がまた現れるなんて、切ないとしか言いようが無いじゃないか」
「……」
「俺は、誰一人として見放すつもりは無い。お前を生徒指揮者から降ろすこともしない。俺はお前と対等だから。そして、俺はお前が適任だと思っているからだ」
「……うん」
淑乃は、掠れた声で返事をした。
「俺はな。お前達のことは本当に尊敬している。俺が現役の頃より、よっぽど頑張って練習しているよ。とくに三年生は、最後くらい真っ当に評価されるべきなんだ。お前らには、どんなにしんどいことがあっても、最後には舞台の上で笑って欲しいんだよ」
――淑乃の瞳から、一筋の涙が零れた。




