第八話 最低のコンサート Ⅱ
耳に届いたのは、滑舌が良く女性にしては低いしっとりとした声だった。
俺はすぐに違和感を抱いた。その声に聞き覚えがあったからである。ただでさえ知人が少ないにも関わらず、だ。
そして、アルトパートに入れておけば絶対に安定しそうなこの声の主を、俺は確実に知っている。
「十年ぶりですね、秋村先輩」
忘れるはずがない。
無視することもできず、俺は意を決して振り返る。
「……久しぶり」
「まさか本当に来ているとは思いませんでした。ふふふ」
俺よりも少し身長の低い彼女は、歪んだ口元とは裏腹に全く笑っていない瞳を俺に向けていた。
――どうしてこいつがここにいるんだ。
「これを見て驚きましたよ。だって先輩の名前が書いてあるんですから。しかも指揮者のところに!」
動悸と息切れを起こしている俺を余所に、一つ下の後輩――野田智枝は演奏会のパンフレットを掲げながら俺との距離を詰めた。
「絵理子先輩はどうしたんですか? これ、冗談ですよね?」
一歩後ずさった俺に、智枝は容赦無く質問をぶつけてくる。
「お前こそ、な、なんで……」
完全にパニック状態の俺も、やっとの思いで口を開いた。喉が渇いて仕方が無い。
「あれ? 知らないんですか? ほら、ここ」
手に持ったパンフレットの一箇所を示した智枝の指先には、「躑躅学園」の文字。そして――。
「指揮者、野田智枝……」
「そういうことです!」
自信満々な彼女を前に、俺は先ほどのトランペットパートのトラブルが起きた時よりも血の気が引いていた。
動揺するのは当然だ。
彼女こそ、十年前に俺のせいで楽器を壊され、階段から転落して大怪我を負った張本人なのだから。
「積もる話もありますけど、まずは本番頑張ってください!」
智枝の言葉を聞いて、俺は瞬時に現実へ引き戻される。
もうとっくにチューニングを始める時間になっていた。
「あ、ああ。悪い。また今度――」
逃げるように彼女へ背を向けた、その刹那。
「まあ、一つのバンドをぶっ壊した人に、指揮なんか振れる訳が無いと思いますが」
楽屋へ向けて走り出す俺の心臓に、冷たく鋭利な智枝の言葉が突き刺さった。
――どうやって楽屋まで辿り着いたのか、道中の記憶が無い。
転がり込むように入室した俺を、部員達は焦燥した表情で迎えた。ただでさえ現在進行形でトラブルの真っ只中なのに、指揮者が現れないのだから焦って当然だ。
「……あ、あれ。おかしいな」
泣きそうな声で呟くのは、チューニングを担当する璃奈である。彼女が出す基準音を測定するチューナーの針は、左右に揺れ続けている。
「璃奈、落ち着け。ぴったりじゃなくてもいい」
「は、はい」
当然、ぴったりの方がいいに決まっている。だが、この状況でそんな針の穴に糸を通すようなことを求めても余計に焦るだけだ。
ようやくブレが小さくなった璃奈の音に合わせて各楽器もチューニングを始めるが、学校でリハーサルを行っていた時よりも濁って聞こえる。
璃奈を励ましておきながら、俺自身も全く落ち着いていない。どう考えてもこのままステージへ上がるべきでない奏者達を前にして、何か手を打たなければと思えば思うほど頭は真っ白になった。
「――さん。……秋村さん!!」
チューニングを終えた最前列の玲香が、呆けていた俺を大声で呼んだ。
「あ、ああ。ごめん。じゃあ曲の冒頭だけ軽く合わせて――」
「翡翠館高校の皆さん、舞台袖にお願いします」
絶望的な内容の案内が、俺の悠長なセリフを切断した。
白けた雰囲気が漂う。
何か言いたげな顔をしながら舞台袖に向かう部員を見て、俺は過去の記憶がフラッシュバックした。
俺が生徒指揮者を辞する直前の基礎合奏練習で、メンバーが俺に向けた表情。
敵意。失望。同情。
諦念と憐憫の浮かんだ、あの表情が。
指揮棒を持つ俺の手は、舞台袖に到着してもなお、震え続けていた。
「――ギリギリ間に合ったわね」
絵理子がミュートを持って駆けつけたのは、午後の部の開演アナウンスの直前だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁と、ほんの少しひんやりした空気。目と鼻の先には光に満ちたステージがあるのに、まるで別世界のように舞台袖は薄暗い。もうここに来てしまえば、付け焼き刃の指示さえ与えることはできない。
『――お待たせしました。中部地区吹奏楽合同演奏会、ただ今より高校の部を開演致します』
流暢なアナウンスが響くと、場内はすぐに静まった。
「お願いします」
会場の係員に促され、部員達がステージに向かう。
舞台上の照明は、まだ客席と同じ明度を保っている。
「では、指揮者の方もどうぞ」
ある程度奏者の準備が整ったのか、俺も誘導された。
『プログラム一番、私立翡翠館高校吹奏楽部。演目はレハール作曲「メリー・ウィドウセレクション」他。指揮は、秋村恭洋です』
アナウンスが終わると、客席の照明が絞られると同時に、ステージ上は眩しいほどのスポットライトに晒された。
客席はほぼ埋まっている。だが、四月の部活紹介の時のような、好奇の目ばかりではない。同じ地区で活動する吹奏楽部員達の見定めるような視線が、舞台上に集中した。
一礼して指揮台に上がり、まだ僅かに震える右手で指揮棒を掴む。
……あ、ダメだ。
奏者達を見渡した俺は、心の中で呟いた。自信の無さそうな、不安を抱えた彼らの目を見て、俺は悟ってしまった。
これから始まる演奏は、聴衆の心に届かないのだ、と。
――『メリー・ウィドウ』の冒頭は、いきなり超快速のフォルテシモである。スタートの段階で、俺はこの楽曲を選んだ自分自身を恨んだ。極度の緊張と不完全なブレスにより、指揮棒よりも先に奏者達が前に行ってしまう。ゲートが開いた瞬間に暴れ出した競走馬を相手する騎手と同じく、指揮者の俺に出来ることなどほとんど無かった。
しかし、すぐに急ブレーキを掛けて場面を転換させねばならない。当然、息が揃うはずも無い。原作では貴族達のパーティーの場面だが、エレガント感は皆無である。もはや場末の酒場みたいだ。
奏者だけでなく、俺も全く余裕が無い。いつも出しているはずのキューをことごとく見過ごす。
ようやく中間部に漕ぎつけた頃には、木管楽器の様子がおかしくなっていた。
もともと音程が不安定なところに、コンサートホールという慣れない環境。スポットライトの熱は、簡単に奏者達の音程を歪ませる。温度変化に敏感な木管楽器の音程は、コントロールできないほど乱れていた。三年生はそれに気づいてどうにかしようと試みるが、楽曲が進む中で修正するなど無理に決まっている。せっかくの見せ場――劇中にヒロインが歌い上げる甘美な旋律も台無しであった。
散々な状態で終曲部へ突入したが、ハッピーエンドが待っているとは思えぬ緊迫感を醸し出しながら、各パートは必死に楽譜を追う。俺のことなど全く見ていない。
音が、指揮を振る俺の手から零れ落ちていく。……いや、そんな幻想的な表現では済まない。自分勝手な雑音という濁流に呑まれた俺は、指揮棒を振るという行為で精一杯であった。
冒頭よりもテンポの速いクライマックスを迎えるといよいよ演奏は空中分解しかけたが、最後はもうヤケクソみたいになりながら、なんとか完奏した。とはいえ、こんな出来で「完奏」などと偉そうに言えるはずも無い。崩壊するより前に楽譜の最後の音がやって来ただけである。障害物に衝突する寸前で燃料が切れた暴走列車と同じだ。
その後のポップスも散々な演奏だった。
それでも聴衆というのは優しいもので、本番を終えた俺達に拍手を送ってくれた。
もちろん、それを素直に受け取るほど俺もおめでたくはない。これは「今年も翡翠館は地区大会で終わりだね。お疲れ様でした」という拍手だ。ライバルが減って嬉しいと喜ぶ意味も含まれているだろう。
そんな屈辱的な拍手を、俺も部員達も虚ろな目をしながら聞いていた。
――その日、学校に帰ってから予定されていた合奏練習は中止となった。
後に聞いたところ、俺達の次に演奏した躑躅学園は喝采を受けるほどの名演だったという。




