第九話 音を届けるということ Ⅰ
いつの間にか梅雨に入ったらしい。そのわりには雨が少ないので、あまり実感は無い。
――いや、そんなことはどうでもいい。
「……まあ、そう気を落とすなよ」
がらんとした講堂で、パイプ椅子に座る俺の肩を叩いたのは京祐である。
例の演奏会を記事にするため、彼もあの日は客席にいたらしい。
「俺はああいう『メリー・ウィドウ』も、斬新でいいと思うぞ」
なんの慰めにもならない。
「斬新どころの話じゃないだろ。原作に出てくるのって、大富豪の未亡人と、公使館勤めのエリートと、男爵夫妻だよな? あの演奏のどこにそんなセレブで高貴な要素があったか教えてくれよ」
せいぜい、潰れかけのスナックのママと、飲んだくれの中年親父と、冷やかしの不倫カップルといった感じだろう。地獄か。
「……庶民的だな」
「レハールに祟られるわ!」
全くもって不憫なことだ。素晴らしい曲を作っても、奏者次第で駄作になるのだから。
奏者というより、指揮者次第か。俺は本当に罪深い男である。
「コンサートホールで演奏するのは、あの子達も久しぶりだったんだろ? むしろコンクールの前に経験できてよかったじゃないか」
京祐の正論は、俺の両耳を通過していく。
「……お前も、知っていたのか?」
自分でも驚くほど暗い声が出た。
「なんの話だ?」
「智枝のことに決まってんだろ!!」
もはや感情すらまともにコントロールできない。こんなのただの八つ当たりだ。
「そりゃ、知っていたよ」
まるでなんでもないことのように京祐が答える。
「じゃあどうして――」
「教えていたら、まともに練習できていなかったんじゃないか?」
「……」
体調を崩す前の絵理子が俺に伝えようとしていたことは、智枝の件だったのだろう。しかし京祐が言うように、もしも絵理子から聞いていたら俺はどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。
「まさか鉢合わせるなんて思わなかったんだよ。お前が智枝のことに気がつくのは、少なくとも翡翠館の出番が終わった後だと思っていたからな」
「……ごめん」
意図も聞かずに暴言を吐いたことを謝罪すると、京祐は苦笑した。
「まあ、俺も智枝とはいまだに気まずいしな。わざわざライバルの躑躅学園に行くくらいなんだから、やっぱり翡翠館のことは良く思っていないだろうし」
「顧問なんだよな?」
「ああ。もう三年経つよ」
着実に力をつけてきたからこそ、躑躅学園は昨年のコンクールで支部大会にまで出場したのだろう。
「――で、みんなの様子はどうなんだ?」
「今は大人しく授業を受けているんじゃないか」
「そんなことを聞いてる訳無いだろ。舐めてんのか」
「すいませんでした」
俺は反射的に謝罪する。温厚な京祐にまで無碍な扱いをされたら、いよいよ俺は孤立してしまう。
というのも、本番を終えて以降、日向が行方をくらませてしまったのだ。失望するに足る演奏をした自覚はある。もう愛想を尽かされたのかもしれない。
土曜日に行われたコンサートの翌日、吹奏楽部は完全にオフとなった。休日練習のオフはゴールデンウィークにもあったが、自主練習も無い完全な休暇は俺がこの部に携わってから初めてであった。
今日は休み明けの月曜日である。特別な指示は出していないので、放課後はいつも通り部員達も集合するだろう。
「みんなのことは、放課後に会ってみないとわからない」
「今日の朝は?」
「練習無しにした」
「そうか……」
深刻な顔で京祐が唸る。
「まあ、お前がまた引きこもらずにここへ来たことは安心したけど」
「引きこもったって仕方無いだろ。でも、いざここへ来たところで何をどうすればいいか全くわからねえよ。技術に関しては全幅の信頼を寄せていた三年生ですら、あの有様だったんだぞ」
「はっはっは! そんなこと、俺は知らん!」
突然豪快に笑い始めた京祐を見て、俺は目が点になる。
「あの、『指揮台の上では誰も寄せつけません』みたいな顔をしていた冷血人間が、何を女々しいこと言ってんだ? お前がするべきことなんて、あの演奏の反省と次の舞台の準備だけだろうが」
「反省なんて、そんなの……。指揮者の俺がこんな人間だから――」
「おい、お前。普段温厚な奴ほど、怒らせたら怖いぞ」
急に真顔に戻った京祐の脅迫めいた言葉に、俺は何も言い返せない。
「絵理子から聞いたよ。今回の演奏会に至るまでに、いろいろあったみたいだな。でも、いったいそれがなんだ? 社会に出たら、そんな細かいトラブルは山ほどあるんだよ。お前が相手しているのは子どもみたいな奴らなんだから、なおさら何も起こらない訳が無いだろ。お前はいつまで高校生気分でいるつもりなんだよ」
「で、でも俺のせいで――」
まだ反抗を続けようとする俺の態度に、いよいよ京祐はぶちギレた。
「お得意の『呪い』のことか? お前が復帰してから、誰かが消えたのか? 警察沙汰でも起きたか?」
俺の胸ぐらを掴みながら、京祐が怒鳴る。
「なんにも起きてねえだろうが! クソみたいなオカルトに怯えて、職務まで放棄してんじゃねえぞ!!」
俺はそのまま床に投げ捨てられた。
「十年前だって、お前の体質どうこうなんていう迷信じみたことに振り回されて、こっちは頭に来ていたんだよ」
突如として始まった彼の告白に、俺は目を見開く。
「だ、だから俺は自分から……」
「違う! 『そんなの誰も信じてねえ』って笑い飛ばす奴が全然いなかっただろ。俺はお前がいなくなってから、それがずっと情けなくて悔しくて仕方無かったんだ。だってそうだろ? あのバンドの基礎を作ったのは、恭洋、お前じゃねえか……」
こんな泣きそうな顔をした京祐を、俺は当時も見たことがない。そして、あの時彼がそんなことを考えていたという事実も、俺はずっと知らずにいた。
「絵理子はやたらお前を嫌ってるから、何か事情があるんだろうけどな。俺はお前が復帰するって聞いて、本当に嬉しかったんだぞ! あれくらいの失敗でシケた面してんじゃねえよ! 演奏そのものより、今のお前にがっかりだ」
とても受け止め切れない言葉の数々に呆然としていると、俺を見下ろしていた京祐が床に腰を下ろす。
「何か言いたいことは?」
「……ありません」
「よし」
目線を俺に合わせた京祐は、いつもの柔らかい表情に戻った。
「今日来たのはな。『次の舞台』の話をしたかったからだ」
「次の?」
「ああ。……そういやお前、入院してたんだって?」
「ん? いきなりなんだよ。たしかに入院はしたけど」
「もう問題無いのか?」
「点滴を打っただけだよ」
「そうか」
早いもので、あれから二ヶ月以上経つ。
「次の舞台は、お前が入院したあの総合病院だ」
「……は?」
「今月の最終週の水曜日。みんなにも連絡しておいてくれ」
「いや、ちょっと待てよ。いったいどういう――」
「コンクール前に抑えられそうなイベントは、もうそれしか無さそうなんだ」
京祐は寂しそうにそう呟いた。
「病院のロビーでのミニコンサート。時間は三十分だ。申し訳無いが、もう既に話はつけてある」
そこまで纏まっているなら、断りようが無い。
「……わかった。放課後の練習でみんなには伝えるよ。ありがとう」
「よろしくな」
俺の肩を掴んだ京祐は、そのまま立ち上がった。
「仕事があるから行くわ」
同級生が職場へ向かう光景というのは、無職の俺にとってかなり目に毒である。劣等感を掻き立てられるからだ。
「じゃあ働けよ」
耳も痛い。
「はっはっは。まあ、せいぜい頑張れ。また休日の練習には付き合うよ」
頼もしい背中を見せながら、京祐は出口へと向かう。
「まずは自信を取り戻すことだ。智枝のことは、しばらく忘れろ」
最後にそれだけ言って、彼は講堂を後にした。
次の目的を吹奏楽部に与えてくれた京祐には、感謝しかない。
俺は指揮台の上に置かれた一冊のスコアを手に取った。もちろん『メリー・ウィドウ』である。リベンジを果たすべく、俺はそれからの時間、譜読みに没頭したのだった。




