第五話 受け入れられぬ真実 Ⅰ
まともに働いたことも無い俺が「公私混同はしない」などと偉そうに言ったところで皆に鼻で笑われるのだろうが、少なくとも練習に励む部員を前にして集中力が切れた姿を見せる訳にはいかない。しかし、絵理子から楓花の件を告げられて数日経つものの、その事実は依然として俺の脳内を支配している。日向から聞いている話を思い返すことで、なんとか自我を保っているような状態だ。
日向が現世に顕現する直前、楓花が彼女に俺を頼れと言ったこと。そして、音楽に触れている間は俺の周囲で不幸が起こらないだろうという日向の希望的観測。そんな脆く儚い虚像のような事象に縋る他ない俺は、かつての吹奏楽部のサウンドだけでなく吹奏楽部そのものを復活させる大役を担う者とは思えぬほど、脆弱な男であった。
「あんた、リアルでトロッコ問題にぶち当たった人みたいな雰囲気を出すの、やめてくれない?」
日向は失踪した訳でもなく、あの日絵理子の話を聞いた数刻後には何事も無かったかのように再び姿を現した。そして今も、講堂にこもって譜読みをする俺に向かって理解不能な難癖をつけている。
「それは思い詰めているっていう意味合いの喩えか?」
「うん」
それなら最初からそう言って欲しい。
俺は楓花の件を絵理子から聞いたことについて、まだ日向には話せていない。
「まあ、いろいろあるんだよ」
「はあ?」
自分でもいい加減過ぎると思いながら返事をしたので、日向が納得するはずもない。
「あんた、練習とは関係無いことで頭がいっぱいなんでしょ」
……なぜわかるのか。
「そんな状態で良いサウンドが作れるの? 火加減を確認せずに調理するシェフと同じだよ」
時折ピンポイントな比喩を用いられるので、俺としてはぐうの音も出ない。
「もう今週末にはイベントでしょ? 何を考えているか知らないけど、早く正気に戻ってよ」
お前のことを考えているんだよ、とは言いづらい。セリフが気持ち悪過ぎる。
「――あたしのこと考えているんでしょ?」
いとも簡単に気持ち悪い思考を暴かれた。
「お前それ、捉えようによっては犯罪だぞ」
「絵理子先生から聞いた」
「なっ……」
誤魔化した俺に向かって、日向は真剣な口調で呟いた。
「お姉ちゃんのこと教えてもらったんでしょ? あんたって本当にわかりやすいよね」
何もかもお見通しだ。どう切り出すべきか悩んでいた俺は、ただの典型的なコミュニケーション障害だった。
「……楓花が俺に関わろうとしてあんなことになったんだって聞いたら、やっぱり俺が全部原因なんじゃないかって思って」
「ふうん。で?」
「いや、そう考えたら俺の存在は災厄以外の何物でもないだろ。俺なんか放っておけば、楓花は今頃お前の先生だったかもしれないんだぞ」
「そうだね」
「それに吹奏楽部だって。もしあいつが顧問で絵理子が副顧問なら、黄金期の復活だって夢じゃなかっただろうし」
「そうだね」
「お前だって死ななかったかもしれない」
「うん」
「そんなことを知ったら俺が死にたくなるだろ!」
俺はいよいよ絶叫した。罪の重さに押し潰されそうだ。
「なんで最終的に被害者面なの?」
「いや、そういうつもりはねえけど……」
じっとりとした日向の視線を受け止めることすらできない俺は、惨めさに体を震わせる。
「あんたに協力をお願いした日のこと、覚えてる?」
日向は静かに問い掛けた。
「絵理子と会った日のことだよな? 覚えてるよ」
プレストで絵理子が俺達をほったらかして帰った後の話だろう。
「あの時は、あんたを焚きつけるためにいろいろ言ったけどさ。吹奏楽部に起こるいろんな出来事が全部あんたのせいだって、証拠なんか何も無いんだよ」
日向は俺が諸悪の根源だという説を提唱し、俺もその負い目を感じて協力を決意した経緯がある。だが、日向が言うようにその説は推論でしかない。
「だからお姉ちゃんのことも、一方的にあんたへ罪を擦りつけようなんて思ってない。まあ、絵理子先生は思いっきりあんたに責任を負わせてるけど」
日向が何を言いたいのかわからず困惑していると、彼女はふっと一息吐いてから再び口を開いた。
「見舞いへ行けって言ったことに、とくに深い意味は無いよ。ここまで順調に進んでるんだから、報告くらいして欲しいって思っただけ。まさかそんな些細なことからあんたが闇堕ちするなんて考えてなかったし」
闇堕ちまでした覚えは無いが、集中して音楽と向き合えていないのは事実である。
「結局、あんたが言った通り『かもしれない』の域を出ないんだよ。本当にあんたが原因なのか突き止める方法は無いの。だからそんなに思い詰めないでよ」
「いや、そもそもお前が言い始めたことだし……」
俺の女々しい反論に、日向の瞳から光が消える。
「あんたのせいであたしが死んだって本気で思ってるなら、とっくにあんたを呪い殺してるよ。たしかにあんたは変な体質を持ってる。でもお姉ちゃんはそんなあんたを頼ろうとした。事故の前だけじゃなく、あたしがこの姿になる直前も。これがどういうことかわかる?」
唐突な質問に俺は狼狽した。何か言葉を捻り出そうとしても、意味を成す解答になるとは到底思えなかった。
「……お姉ちゃんは、あんたのせいだなんてこれっぽっちも思ってないってことだよ」
日向が寂しそうに答えを告げる。
「絵理子先生は極端だけど、あたしだって少なからずあんたが悪いんじゃないかって思っちゃう時もあるよ。だけど、いちばんつらいはずのお姉ちゃんが全然そんなふうに考えてないんだから、あたしがあんたを恨んでも仕方無いじゃん」
俺は二の句が継げない。
「だから、とにかく今はやるべきことにちゃんと向き合ってくれない? もう地区大会まで二ヶ月半くらいしかないんだよ? あたしは黙って見ていることしかできないんだから、あんたがしっかりしないと」
日向の言うことはもっともだ。一番悔しい思いをしているのは楓花だろうし、同じくらい日向も歯がゆい気持ちなのだ。
「……わかった」
力無く頷いた俺を、日向は心配そうに見つめている。
「とにかく今は、譜読みをしないとな……」
作り笑いを浮かべながら、俺は手元のスコアに視線を落とした。
六月の合同演奏会で披露する予定の『メリー・ウィドウ』である。コンクールの前哨戦に、本番で演奏する『幻想交響曲』を持ち込みたくないという理由で選んだ楽曲だが、純粋にバンドの練習曲としても相応しいと思い選曲した。とくに三年生は、今や暗澹とした雰囲気で楽曲を演奏することは無くなったものの、依然として表現力が乏しい。淑乃や芽衣などは、なんでもかんでも難しい曲を演奏したがるが、グレードの低い曲で練習することにも意味がある。下級生が加わったばかりの現状ではなおさらだ。技術的な難度が低い分、音程やリズム、メロディーの歌い方に意識を割ける。
この「意識を割く」という行為は、他者の音を聞くということを意味する。それこそがアンサンブルの根底になくてはならないものだと、俺は思っている。奏者同士の意識の共有により、バンドの一体感が生まれるのだ。メトロノームに合わせて楽譜通りに発音するだけなら、わざわざ人間がしなくたって機械でもできる。
――そう真面目に考えて選曲をしたにも関わらず、指揮者の俺が心ここにあらずでは全くの無意味だ。
そんなことはわかっているのだが、俺の目はただただ楽譜に書かれた音符をなぞっていくだけであった。
ふとした拍子に「あの子達にも何かあったらと思うと」という絵理子の言葉が脳内を巡る。俺が吹奏楽部に関わることを決めた時、「犠牲者が出ても仕方無い」くらいに考えていたことを同時に思い出して、自らの無責任さに反吐が出そうになる。
楓花は死にかけて、日向は死んでしまった。何か事が起きてからでは取り返しがつかない。日向が一生懸命俺に発破をかけてくれることは感謝してもしきれないが、その言葉で割り切れるほど簡単な問題ではないのだ。
結局、集中しようと思えば思うほど雑念に囚われた俺は、その後の合奏練習でも明らかに挙動不審であった。ただでさえ『メリー・ウィドウ』の初合奏だったというのに、指揮者がゴミクズではまともな演奏になるはずも無い。キューの出し忘れどころではなく、単純に拍子を振り間違えることもあったのだから、文化祭のクラス合唱を指揮する素人の生徒の方がよっぽど纏まりそうである。
部員達の中には、普段であればギリギリの時間まで居残り練習をする者がいるのだが、俺のただ事では無い様子に萎縮したのか、今日は早々に撤収してしまった。俺も肩を落としながら音楽準備室へ向かう。もともとネガティブで日陰が似合う俺のような男が、どうしてこの一ヶ月間は気丈に振る舞えたのか、自問自答する始末であった。
「ん?」
真っ暗な廊下に、一箇所だけ光が差している。確認するまでもなくそれは音楽準備室から漏れるもので、俺はどこかデジャヴに感じながら入口の扉を開く。魂が抜けたような状態なので、きっと俺が消し忘れてしまったのだろうが――。
「あの!」
「ぎゃああああ!!」
室内の景色が視界に入るよりも先に、俺と同じくらいの身長の男が突然立ち塞がった。情けないことに、俺は腰を抜かして尻餅をつく。
「……そんなに驚きます?」
呆れた目で俺を見下ろす男子生徒――村崎董弥が困ったように呟いた。




