第四話 遠雷 Ⅲ
「――なんでございましょうか」
肩で息をしながら目の前の能面女に話し掛けると、当の本人はパソコンの画面に向かいながら「ああ、来たの」と呟いた。
「そりゃ来るよ!」
走ってここまで来た俺のカロリーを返して欲しい。
「京祐から聞いた?」
「イベントのことか? 聞いたよ」
「そう」
絵理子が返事をしたきり、室内には静寂が立ちこめる。
「……えっ、それだけ?」
「ああ、まだいたの? それだけよ」
これにはさすがの俺も怒りが爆発した。
「お前マジでいい加減にしろよ! 嫌がらせの方法が陰湿なんだよ! 俺を邪魔するっていうことは、吹奏楽部そのものを邪魔することだってわからないのか!?」
「……うるさいわね。冗談に決まっているでしょう」
「今のやり取りが冗談に思えるほどの信頼関係があると思っているのか?」
仮に冗談だとしても許せないので喧嘩腰に言ったら、絵理子は大きく舌打ちして席を立った。
「これ確認して」
言われるがままパソコンの画面を覗く。どうやら書類を作成している最中のようだった。
「なんだこれ?」
「コンクールのエントリーシート」
「ああ、そうか。――は!?」
給食の献立表みたいなテンションで、重要なことを言わないで欲しい。
「指揮者のところ。一応あなたの意思を確認しておこうと思って」
「確認も何も、もちろん俺の名前でいいけど……」
「そう」
絵理子は無感情に返事をすると、もう一度椅子に座ってキーボードを叩いた。空欄だった部分に俺の名が入力される。
「本当にいいのね? これを出したらもう逃げられないわよ」
「……そういうことか」
彼女は今になっても十年前の件を根に持っているのだ。全国大会直前で俺が退部したあの事件を。
再会してからの俺の行動では、彼女の懸念を払拭するには至らなかったようだ。
「責任は取るって言ったからな。投げ出すようなことはしないよ」
「……じゃあ、あとはこちらで送っておくわ。わざわざ呼び出して悪かったわね」
嫌味としか聞き取れない口調で絵理子が言った。
「なあ、吹奏楽連盟の規程は一通り読んだけど、俺が出るのは大丈夫なんだよな?」
「今さら何? 指揮者はプロじゃなければ誰でもいいってなってるんだから問題無いでしょう? あなたはプロどころか無職だし」
「いつも一言多いんだよてめえは」
「とにかく、私の用件は以上だから」
あくまで事務的な絵理子に嫌気が差す。
「日向って、ここへ来てないか?」
何となく気になったので尋ねると、絵理子は不思議そうな顔をこちらに向けた。
「日向? 今日は見てないわね。何かあったの?」
「いや、さっき急に怒ってどこかへ行っちまったから」
「どうせまた無神経なことを言ったんでしょ」
「楓花の見舞いにしばらく行ってないのが、お気に召さなかったらしい」
「そう」
絵理子の淡白な返事を聞いて、俺は一つ気がかりがあったことを思い出した。
「そう言えば、お前もこの前楓花のことを言ってなかったか?」
この女は、俺のことを「楓花の敵だ」と断罪したのだ。
「……さあね」
絵理子はあからさまに動揺している。
「もちろん楓花に対しても罪悪感はあるけど、それは他の同級生達と一緒だよ。楓花にだけ、特別に何か害を与えた覚えはないんだが」
俺がなんの気無しにそう言った途端、背筋が凍った。絵理子から怨念のこもった目で睨まれたのだ。これまでで最も殺意が高いように感じる。
「あなたは本当にいい身分よね。何も知らず、責任も取らず、苦労もしてこなかったんだから」
呪詛のように絵理子が呟く。
「それに関しては本当に申し訳無かったよ」
今まで散々に無職を擦られたのだから、彼女が俺をまともな人間と見做していないことはわかっている。反論しようと思えばできるけれど、そんな泥沼を繰り広げている場合でもない。
「何が『申し訳無い』よ。中身が空っぽの謝罪になんの意味があるの?」
「お前、いい加減にしろよ。あの時どんな行動が正解だったかなんて、誰にもわからないだろ」
「その話はもういい」
「は? もういいってなんだよ。それ以外に何が――」
「楓花があんな状態になったのは、あなたのせいでしょ」
――突然の告発に、俺は頭の中が真っ白になった。
「……な、何を言ってるんだ?」
「無知って本当に罪よね」
「だから! 俺が何をしたって言うんだよ!」
そもそも俺は、音楽室を飛び出した一件以来、今の状態になる前の楓花とは会っていない。
「楓花はね。この学校の教師になることが決まっていたのよ」
「え」
初耳だった。
だが、その言葉があまりにも悲しい事実を内包していることにすぐ気づく。
「ちょっと待てよ。楓花が事故に遭ったのって……」
「そう。六年前の冬よ。次の年の春から、楓花は翡翠館に赴任する予定だったの」
俺が楓花の事故を知ったのは、自宅に届いた差出人不明の葉書によるものだった。どこかで見たような筆跡だったのと、具体的に書かれた内容を見て病院へ見舞いに訪れた記憶がある。ただ、楓花の進路までは記されておらず、教師を目指していたことすら知らなかった。
「じゃあ、お前と楓花が一緒に働いていたかもしれないのか……」
「……」
自然に口から零れた言葉を、絵理子は複雑そうな表情を浮かべながら聞き流した。
「いや、それにしたって俺は関係無いよな?」
「大ありなのよ!」
物凄い剣幕で絵理子が怒鳴る。
「あの子は、自分が吹奏楽部に携わるって確信していたんでしょうね。当時はまだ芳川先生もいたし、今度は先生として全国大会に行くんだって息巻いていたわ」
その光景は容易にイメージできる。
「そんな楓花が目をつけたのが、あろうことかあなただったのよ!」
「……は?」
寝耳に水というか、青天の霹靂である。
「あの子は、あなたが去った例の事件のことをずっと気にしていた。そして、あなたがそれきり引きこもりをしていることも知っていた。そんな暇人のあなたを、吹奏楽部のアドバイザーにしようと考えていたの」
「アドバイザー?」
「トレーナーってことよ。あなたはどの楽器もそれなりにできるから、講師として呼ぼうとしていたのよ」
「そんなことが……」
ただ、肝心の俺は今の今まで知らなかった。ずっと引きこもっていたのに、知り合いが訪ねて来たことすら無いのだ。
俺の疑問を読み取ったのか、絵理子はため息を吐く。
「あの事故はね。楓花があなたの家に向かう途中で起きたのよ」
――後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が俺を襲う。
「このことを知っているのはほんの数名だけど、日向はもちろん知ってる」
もう何も言葉が浮かばない。
「私は今でも怖いわ。私はどうなってもいいけど、あの子達に何かあったらって思うとね」
絵理子は恨めしそうな目で俺を見ながらそう呟いた。
――なんということだ。
日向が最初から言っていた通りじゃないか。結局、俺が逃げようと引きこもりになろうと、関係無かったのだ。俺に接触しようと行動しただけで寝たきりなんて、悪い冗談にも程がある。楓花の病室で日向が一瞬見せた俺への憎悪は、紛れもなく本物だったのだ。
俺はそんなこともつゆ知らず、「今が上手く行き過ぎている」だの、「責任は取る」だの宣っている訳だ。緊張感が無さ過ぎてもはや滑稽である。絵理子が俺を目の敵にする理由もようやくわかった。そんな事実が背景にあるなら、仲良くしようというのが無理な話である。
絵理子のパソコンの画面上に表示されたままのエントリーシートが、なんだかひどくぼやけて見える。
だが、もう引き返すことはできない。憎しみを殺してまで俺を頼った日向に、楓花の件で自信を失ったと言おうものなら本気で軽蔑されるだろう。とはいえ、俺とてそんな衝撃的な事実を聞いて気持ちが整理できるはずもない。冷ややかな視線を送り続ける絵理子の姿は「早く出て行け」と言っているようにしか見えず、俺は逃げるようにその場を退散する。
俺は改めて自身が抱える潜在的リスクの大きさを思い知った。だからこそ、日向へ吐露したように、現状が順調に進んでいる反動を恐れずにはいられない。
楓花の見舞いになど、行けるはずも無かった。




