第四話 遠雷 Ⅱ
言うまでも無く、翌朝も大音量の音楽が俺の鼓膜を襲う。
「うるせえなあ……」
耳を塞ぎながら起き上がると、にやにやしながらコンポの横に立つ日向と目が合った。やっていることが悪霊でしかない。
本日の楽曲はヘンデルの『メサイア』だ。選曲は今までの中で最もまともである。しかしどんな曲だろうと、うるさければ気分を害されるという「そりゃそうだろ」みたいな結果を得られた。何故俺が被験者にならなければいけないのかという点を指摘しても無意味なのが歯がゆい。
「おはよう! 清々しい朝だね! 賛美歌の音色から始まる美しい一日!」
やたらテンションの高い悪霊を無視してカーテンを開けると、外はしとしとと雨が降り、靄がかかっていた。この景色のどこが清々しいのだろうか。
「お前、嫌がらせをし過ぎて頭が腐ったのか? ああ、もう実体が無いから腐るも何も関係無いか」
つい腹いせのつもりで軽口を叩くと、日向の目から光が消える。すっとコンポに手が伸びるのをぼうっと見ていると、そのままボタンが押される。
流れていたメサイアをぶった切って、ピアノのけたたましい連打が響いた。
「うるさいうるさい!」
悲鳴を上げる俺の心中を代弁するように、悲痛なテノールの独唱が始まる。シューベルトの『魔王』だ。
「せっかく親切に爽やかな朝を演出してあげたのに、なんなの?」
「寝起きを強襲する時点で爽やかじゃねえんだよ! 目覚まし時計をかけてるんだから、心配しなくてもちゃんと起きられるよ!」
「あっそ」
適当に返事をした日向はボリュームを下げる素振りすら見せない。こいつこそ魔王だろ。
俺は若干ふらつきながらコンポまで近寄り停止ボタンを押す。もはや恒例行事となってしまったこの茶番は、果たしていつまで続くのだろう。
「……行くか」
俺はいつもと同じルーティンで準備をこなし、玄関を出る。連休中にドアノブを修理したので、ようやく南京錠ともお別れである。
「廃墟感があって良かったのになあ」
魔王のセリフは無視した。
――学校に着くなりそのまま音楽室へ向かうと、既に部員達が何名か集まっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
音楽準備室に入る俺の後から続々と部員がやって来る。俺がそのまま奥へ進むと、玲香が顔を出した。
「今日はどうしますか」
いつものように事務的な物言いで尋ねられた。全ての管理が俺に丸投げされている感覚だが、それだけ信頼されているのだと素直に受け止める。
「ゴールデンウィーク中に各パートへ指示した基礎練習のメニューを毎日必ず行うよう改めて指示してくれ」
「はい」
「それから、京祐が言っていたイベントで演奏する曲を、役員とライブラリアンで選んでほしい。今度の週末に合奏練習するから、なるべく早く譜面を配布するように」
「楽譜を保管している曲の中から選ぶってことですか?」
「ああ。発注している時間も無いしな」
「数は?」
「四、五分程度の曲を三つだな。とにかく誰でも聞いたことがあるポップスで、なるべく難易度が低い奴だ」
「はあ」
俺の指示に、玲香はいつものように小首を傾げた。
「時間が無いのはわかりますが、そこまで難易度を落としたら観客に受けないのでは?」
こいつも淑乃みたいなことを言い始めた。
「いいんだ。ちゃんと演奏すれば観客は応えてくれる」
「わかりました」
「今日の合奏は課題曲だ。以上」
本当は『メリー・ウィドウ』の合奏も始めたいところだが、譜読みもできていないのに焦って合奏しても時間の無駄だ。本当にやることが山積みである。
あっという間に朝練が終わると、部員達はそれぞれの教室へ向かい、俺は講堂へと足を運ぶ。その途中で、京祐から商店街のイベントの参加が決まったと連絡を受けた。二週間後の土曜日とのことだ。
また、六月以降の行事についても便宜を図れるところがないか探ってくれると、朗報が続いた。
思っていたよりずいぶん早く届いた京祐からの報告にひとまず安堵した俺は、改めてこの後に取りかかるべき作業を頭の中で確認する。日中こそ無職の俺が輝く時間だ。自分で言っていて情けなくなることを除けば無敵である。
「弱点があまりにも致命的じゃない?」
作業の準備を始めた俺のやる気を削ぐように日向が言った。
「お前は何も弱点が無いというか、そもそも攻撃を受けないんだからいいよな」
目もくれずに返答すると、あろうことか日向はパーカッションパートのスペースに置いてあるシンバルを突然鳴らした。しかもフォルテシモで。
「……邪魔するなら出ていってくれないか?」
俺は自由曲の細かい指示をまとめたパート譜の作成、それと『メリー・ウィドウ』の譜読みをやるつもりで一日講堂にこもる予定だ。他にも思いつく限りのことをしてみようと考えている。講堂を使い始めたばかりの頃は、日中の時間をどう過ごそうなどという贅沢な悩みをぶちまけていたが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。俺がこのバンドに携わる最大のメリットは、言うまでもなく指揮者である俺に時間の制約が無いことなのだ。
「……あんた、あれっきりお姉ちゃんのお見舞いに行ってないなと思って」
日向が見るからに不機嫌そうな表情を浮かべて呟く。
「それは申し訳無いと思うけど、今が一秒でも惜しい状況だってのはお前もわかるだろう?」
諭すように言ったのが気に入らなかったのか、日向はもう一度シンバルを鳴らすと黙って外へ出ていってしまった。
「なんだあいつ……」
素人が力任せに叩いたシンバルの音色は、ただの不快な金属音であった。年頃の女の子が考えることはよくわからない。年頃じゃなくても、理解できない奴もいるが。
そんなことを考えていたら、スマホの振動がメールの受信を伝えた。嫌な予感を抱えながら確認すると、案の定差出人は絵理子である。計ったようなタイミングに、俺の思考を読まれたのかと寒気がする。
『支給第三職員室』
……恐らく「至急」と言いたいのだろうが、あいつは本当に国語教師なのだろうか。俺はため息を吐いて、おとなしく彼女のもとへ向かった。




