第五話 受け入れられぬ真実 Ⅱ
「――暗殺されるかと思ったんだが」
「後ろめたいことがあるからそんな考えになるんでしょう」
悪びれもせず、彼は俺に右手を差し出した。素直にその手を掴んで立ち上がる。
「用は済んだか? もう帰りなさい」
どう取り繕っても醜態を晒した事実は変わらないが、俺はあしらうように言い放ちデスクへと向かう。
「あなたを驚かすのが用事だったら、大成功なんですけどね」
苦笑しながら平然と俺の後に続く彼を見て嫌気が差した。
「どうしても聞きたいことがあって、待っていたんです」
アップライトピアノの椅子に腰掛けながら、董弥はそう切り出した。先月入部した新入生である彼は「村崎」という名字からもわかるように、生徒指揮者の淑乃の弟である。この弟は比較的穏健派というか、姉のように物騒な物言いをしているところを聞いたことが無い。
そもそも淑乃が異常だと言われればそれまでだし、入部したての彼のことをよく知らないだけで、実は彼も血気盛んな男なのかもしれないが。
ただ、思い返してみれば不思議なことに、この姉弟が一緒にいるところを見た記憶が無い。彼のパートがユーフォニウムということもあるだろうが、お互いどこか他人行儀な様子であった印象だ。
「聞きたいこと?」
「はい」
真剣な眼差しを向ける董弥を無碍にもできず、俺は仕方無く彼に向き直った。
「そんなに改まって、なんだ?」
「秋村さんは、どうして『メリー・ウィドウ』を選んだんですか?」
てっきり音楽的な指導を請われるのかと思っていた俺は面食らう。
「どうしてって……。まあ、いろいろ考えた結果だよ」
「楽曲に思い入れがある訳ではないんですか?」
「個人的に好きな楽曲だけど、それ以上に何かがある訳じゃないかな」
「じゃあ、やめましょう!」
「……は?」
「あの曲、やめときましょう」
意味がわからない。
「お前な、パート譜を配って練習を始めているのに、今さら簡単に変えられる訳無いだろ」
「それなら、あんな嫌そうに指揮を振らないでくださいよ」
いきなり核心を突かれた俺は狼狽した。まさか合奏練習直後に、それも一年生から糾弾されるとは思いもしていなかった。
「……それは、本当にごめん」
私情を持ち込んだ俺に弁解の余地など無い。謝罪をすると、意外にも董弥は関心が薄そうな顔で俺を見つめた。
「まあ、秋村さんはどうでもいいんですけど」
「え」
「問題は姉さんです」
淑乃?
「あなた以上に、露骨に嫌そうな顔をして吹いているのを秋村さんは見過ごすんですか?」
「……」
正直、見過ごすというより見逃している。自分がどれだけ集中力を欠いていたのか思い知らされる。
「はあ……」
しどろもどろの俺を見て、董弥は落胆した様子でため息を吐いた。
「秋村さんから見て、姉さんってどんな生徒ですか?」
掴み所の無い質問が飛んできた。
「情熱のある子だと思うよ」
「身内だからって遠慮しなくていいです。いつも不機嫌だし口は悪いし乱暴じゃないですか」
「否定はしないが……。お前らって仲が悪いのか?」
「悪いどころじゃありませんね。そもそも他人だし」
「他人?」
「戸籍上は姉弟ですけど、血は繋がってません」
――とんでもなくヘビーな事実を、董弥はさらりと告白した。
「具体的には、姉は父の実の娘ではなく、俺は母の実の息子ではありません」
いきなりなぞなぞみたいなことを言い出した董弥だが、その瞳があまりに真剣なので茶化す雰囲気にもならない。
「……つまり、お前らの両親はお互いが再婚ってことか?」
ややこしい関係性を頭の中で整理し、最初に浮かんだ可能性を口にすると、董弥は黙って頷いた。
「俺達の家族の方は、母親が勝手に男を作って出て行ったってだけなんですけど、姉さんの方は父親に先立たれてしまったみたいで」
董弥側の事情も「だけ」と言って流すような軽い話とは思えないが、たしかに淑乃と比べればマシかもしれない。とはいえ、そもそも比べるようなことではないというか、「大病を患うか大怪我を負うか」みたいな話なのでどのみち救いは無い。
「でも、新たな家族として再出発したなら、少なからず前向きなことなんじゃないか?」
「今の姉さんを見て、本気でそう思うんですか?」
「……思いません」
少しでも雰囲気を明るくしようとした俺のセリフは、あまりにあっさりと切って捨てられた。深く考えるまでもなく理解できることだ。董弥が語ったことを踏まえれば、淑乃がいつも不機嫌そうにしていることも、姉弟同士が他人行儀な様子であることも納得できる。
「ちなみに、『メリー・ウィドウ』をやるって決まったとき、姉さんはどんな様子でしたか?」
董弥は先ほどから、どうもこの楽曲にこだわっているようである。
「もともと『喜歌劇もの』が嫌だって言ってたから、ふて腐れていたな。でも、とくに文句を言う訳でも、暴れることも無かったけど」
「そうですか……」
董弥は右手を顎に添えて、少し思案する。
「……いったいどういうことなんだ? 話が見えないんだが」
「秋村さんは、『メリー・ウィドウ』って見たことあります?」
「オペレッタのことを言っているのか?」
「はい」
「父親が指揮した舞台の録画を見たことならあるけど」
董弥は少し驚いたように目を見開いた。
「羨ましいですね。でも、それならこのオペレッタがどういう話か知っているでしょう?」
もちろんだ。老富豪である夫に先立たれた女性と、その女性が相続した莫大な遺産を巡る喜劇である。
「『陽気な未亡人』……。このタイトルの時点で、姉が不機嫌になるのも無理はないと思いませんか」
「まあ、たしかに……」
このオペレッタが初演されたのは二十世紀初めのパリだ。時代や場所だけでなく、倫理観や社会通念さえ違うのだから、現代の目線であれこれ評価するのは無粋極まりない。ただ実際淑乃の母は「未亡人」な訳で、当事者である母娘からすれば、「陽気な」などという緊張感の欠片も無い連体詞がついたこの舞台を快く受け入れづらいことは想像できる。
「なんとなく言いたいことはわかったが、だからと言って楽曲を変える訳にはいかない。パート譜を配ってから、もう一週間以上経つんだぞ?」
俺自身が練習に私情を持ち込んでいる時点で、淑乃のことを責める資格などありはしない。しかし、彼女一人の事情を考慮して楽曲を変更するだけの余裕も無い。合奏練習の翌日に「やっぱりやめます」などと指示すれば、混乱は避けられない。
「……まあ、そうですよね」
案外すんなりと、董弥は俺の言葉を呑んだ。やはり似ていない姉弟だ。もし淑乃なら絶対に食い下がっていた場面である。
「秋村さんの方がヘビーな生い立ちなのに、甘えたことを言ってすいません」
「その謝罪は、まるで意味がわからないからやめろ」
「だってそもそも秋村さんはご両親がいないんでしょう? 片親でも、いるだけマシかなと思って」
思想は自由だが、こんなタイミングで吐露しないで欲しい。
「俺のことは気にするな。お前の倍近く生きてるんだ。もう慣れてる」
俺のセリフを聞いて、董弥は寂しげに笑みを浮かべる。「倍近く生きていても密度はたいして変わりませんよ」みたいなことを言わないだけ、この男は他の連中に比べて心が綺麗だと思った。
「わかりました。姉さんが文句を言わなかったというのが事実なら、俺からはもう『やめましょう』とは言いません。ただ……」
視線を逸らした董弥が気まずそうに口ごもる。
「ただ?」
「来月の合同演奏会……。このままだと失敗しますよ? 姉さんだけでなく、秋村さんも不調の様子なので……」
つい先ほど「秋村さんはどうでもいい」と言っていた気がするのだが、突っ込むのも野暮なので受け流す。そんなことよりも、失敗するという予言の方が物騒だ。予言をしたのが一年生であることも不穏である。
つまり端から見た俺という男は、自分自身が認識する以上に病んでいるということなのだろう。
「忠告ありがとう。それから、言いづらいことだろうにいろいろと教えてくれて感謝するよ」
「いえ、お礼なんていりません」
虫も殺せないような穏やかな表情に戻った董弥が、さっぱりと返答する。
「俺から淑乃に、何かフォローをした方が良いのか?」
「……どうでしょう? 逆効果だと思うので、あまりおすすめはしませんね」
「そうか……」
正直、淑乃へ気を回す余裕があるのかと問われれば微妙なのだが、この姉弟を放置しておくと後々大きな災いとなって降りかかりそうな予感がする。
「まあ、曲目変更については期待していなかったのでいいです」
「ん?」
突如として、董弥の纏う雰囲気が明らかに変わった。これまでの会話が茶番だとでも言うように、彼の目つきが怪しく光る。
「実はもう一つお願いがあって」
不敵に笑う彼を前に、今しがた感じた災いの気配が増幅していく。
「ダメだ。もうとっくに撤収時間は過ぎてるんだ。早く帰りなさい」
慌てて董弥を叱ったが、彼は全く動じない。
「姉さんは、生徒指揮者なんですよね?」
「そんなこと、聞くまでもないだろ」
「基礎合奏も見ないし、楽曲も指揮しないのに?」
「……」
「そもそも練習中まともに会話もしないし、雰囲気も悪くするのに?」
それに関しては大多数の三年生が該当すると思うのだが。
「何が言いたいんだ?」
痺れを切らして俺が問うと、彼の口元がにやりと歪む。
「俺に生徒指揮者をやらせてもらえませんか」
自信満々な様子で、彼はそう提案した。
ひどい目眩がして、俺はついデスクの上へ肘をついて頭を抱える。
「お願いします。少なくとも姉さんよりは――」
「帰れ」
「秋村さん――」
「いい加減にしろっ!」
俺が怒鳴ると、さすがに董弥も口を噤む。
「廃部を免れて、ようやくまともに活動できるようになったんだ。頼むからもう厄介なことを起こさないでくれ」
絞り出すように諭すと、彼はまだ何か言いたげな顔をしながらため息を吐いた。
「そう言う割には、ここ数日のあなたや姉さんは全然楽しそうに見えませんけど」
嫌味にしか聞こえないセリフだけ残し、彼は扉へと向かう。
「もう一度言っておきます。このままだと、来月の演奏会は失敗しますよ」
追い討ちをかけるように忠告すると、彼は静かに退室した。
行き場のないストレスに襲われた俺は、右手の拳で思いきり机を叩いた。そんなことをしても、なんの意味も無いというのに。
無茶苦茶なことを言った董弥に対する怒りはそれほど無い。
俺は自分自身が許せないのだ。
本番で失敗する、と言った彼を否定するどころか、図星を突かれて情けなく動揺している自分が、たまらなく許せなかった。




