第二話 エメラルドを取り戻すために Ⅱ
音楽準備室に戻ろうと思ったが、空き教室の時計を確認すると練習終了の時刻が近づいていた。今日は合奏練習が無いもののミーティングを予定している。先ほどから楽器の音が聞こえなくなったので、部員達は既に集合しているのだろう。俺はそのまま講堂へ向かうことにすると、日向も黙って後をついてきた。
予測通り、既に部員達は全員揃っていた。三年生のみで練習していた時と比べると、倍以上の人数が集結しているので圧巻である。さすがに第二音楽室では手狭であり、この場所が手に入って良かったと改めて実感した。
俺は指揮台の上に丸椅子を乗せて腰掛けてから、一同を見渡す。
「みんな、楽にしてくれ。今日集まってもらったのは、今後活動するにあたって、全員の方向性を一致させておきたいと思ったからだ」
楽曲が決まったのだからとにかく練習すればいい、という問題でもない。今が二月の初旬であればそれでも良いけれど、言わずもがな時間は有限なので、無駄なことをしている余裕など全く無い。
「部長が部活紹介の時に言った通り、俺達が目指す目標ははっきりしている。奏者と聴衆が調和すること、そして聞く者全てに幸福感と希望を与える音楽を届けること。そのために目指すべき、かつて『エメラルド・サウンズ』と評された黄金期の演奏を再び復活させることだ」
俺がまさにその世代であることは周知の事実なので、皆は静かに俺の言葉を聞いている。
「頭の中が音楽で埋め尽くされている三年生はともかく、下級生にとってはこの先厳しい毎日が待っていると思う。びびらせるつもりはないけれど、相応の覚悟はして欲しい」
いきなりこんなことを言いたくはないが、生半可な気持ちで無為に時間を過ごすことほどもったいないことは無い。下級生達も、練習時間の長さや休日の少なさに関しては既に理解をした上で残ってくれていると思うので、それについてはあまり心配していないが、だからこそ中身が重要なのだ。
「もちろん、俺もとことん付き合うつもりでいる。毎日、たいていここか音楽準備室にいるから、困ったことがあればいつ来てくれても構わない。俺に言いづらいことがあれば、顧問の絵理子に通報してくれてもいい」
本当に通報されたら絵理子から問答無用で実刑判決(自宅へ強制送還)を受けそうだが、こういうことはあらかじめ伝えておいた方が信頼されやすいだろう。
「それから、みんな電子メトロノームは持っているか? 持っていない奴は手を挙げろ」
誰も反応しない。優秀だ。
「よし。それなら、今日から毎日メトロノームを持って帰って、三十分以上鳴らすこと。風呂でも勉強中でも、寝る前でもいい。テンポは課題曲の指示の百二十だ。来週までに在庫の電池を仕入れておくから、気にせず鳴らせ。個人練習のロングトーンも、テンポ百二十で十六拍のカウントにしてくれ」
マーチはとにかく正確性が全てだ。音程を合わせるためには楽器が必要だが、テンポを体に刻み込ませるだけならメトロノームで足りる。
「次に今日配られた楽譜についてだが、三ヶ月後のコンクールの自由曲にするつもりだ。一年生の中には、今頃決めるのかと思う者もいると思う。本当にその通りだ。申し訳無い」
俺が唐突に謝罪すると、大元の原因である上級生達が気まずそうに顔を伏せた。
「早速譜読みをしている者もいたようだが、まずはとにかく楽曲を聞き込んで欲しい。オーケストラ版と吹奏楽版を録音したCDを早急に用意するから、これも毎日必ず聞くこと。一応全曲収録するが、毎日聞くのは第五楽章だけで構わない。それとは別に、動画サイトで自分の楽器を検索して、気に入った演奏があればどんな曲でも毎日聞いて欲しい」
スマホを手に入れてから知ったのだが、今のご時世、知りたいことは簡単に検索できてしまうので凄いと思う。そんな前時代的な思考の時点でおじさんであることが丸出しなのだが、使える物は全て使うべきだ。イメージというのは非常に重要な要素である。実際、昔の演奏を聞いた三年生達は、それだけで音が変わった。
良い喩えかどうかはわからないが、もしも聞いたことのない名前の料理をいきなり作れと言われても、料理名だけを聞いて調理をすることはできなし、レシピがあっても完成形をイメージできなければ、得体の知れないものを作るのと同じだ。それこそ動画サイトで料理名を検索して、実際の調理の様子を確認するだろう。
「最後に、練習中の指示にはしっかり返事をしてくれ。肯定じゃなくてもいい。俺は先生じゃないからな。対等な立場だと思ってなんでも言って欲しい。その代わり、俺もなんでも言わせてもらう。それと、常に聞いてくれる人がどう感じるか考えて演奏すること」
三年生とは既に交わした約束事を、全員の前でもう一度確認する。
「ここまでで、何か意見がある者はいるか?」
質問したがとくに反応は無いので、俺は先へ進むことにする。
「じゃあ、練習について細かい話をしていこう」
俺はここ数日考えていた練習メニューや毎日のスケジュールを淡々と説明していった。とくに基礎練習は、個人任せにすると如実に音色の差が出る。ロングトーンだけでなく、音階練習や分散和音の練習を必ず行うように伝えた。
「基礎練習に関しては、パートリーダーが責任を持つこと」
俺の指示に、該当する三年生が返事をする。
「ゴールデンウィークは俺も各パートを巡回するから、もし何かあればその時に言ってくれ」
無法地帯であった環境を改善せずに、合奏練習や譜読みばかりしても全くの無意味だ。気分的には、発展途上国のインフラを整備する感覚である。
「全体の基礎合奏については引き続き俺が見ようと思うが……いいか、淑乃?」
最後列の真ん中に座る彼女は、突然声を掛けられて少し驚いた素振りを見せたものの、いつも通りの機嫌悪そうな表情に戻って「はい」と短く返事をした。本来は生徒指揮者が指導するべきだが、彼女には奏者として下級生の見本になってもらいたいという意図もある。
「五月が終わるまでに、この講堂を振動させるくらい楽器を鳴らせるようになることを第一目標とする。まずはハードな練習に耐えられる体力をつけてくれ」
おそらく、スタミナに関して三年生は全く問題無い。だが、下級生はすぐにバテてしまうだろう。とくに管楽器は、いくらお腹から息を吸って楽器全体を鳴らせと言っても、マウスピースに直接触れる口先から疲労してしまう。そうなると音色や音程がめちゃくちゃになるので演奏どころではなくなる。三年生が一日中練習しても涼しい顔をしているのは、そうなるまで毎日演奏し続けたからだ。下級生には少しでも先輩達に近づいてもらわなければならない。両者の実力差が埋まらなければ、昨年のコンクールの二の舞になるだろう。




