第二話 エメラルドを取り戻すために Ⅰ
それなりに歴史のある翡翠館高校吹奏楽部は多くの楽譜を保有している。だが、当然ながら演奏経験の無い曲やリリースの新しい曲に取り組む場合は、楽譜の取り寄せから始めなければならない。とくに原曲がオーケストラの場合は、まず編曲版がこの世に存在するか確認が必要で、存在した場合も海外の楽譜であれば手元に来るまで時間を要する。編曲版がいくつか見つかれば、どのバージョンが適当か判断しなければならない。
そういう意味では、ただ印刷をするだけで全ての部員に楽譜が行き渡るという点で、『幻想交響曲』には時間的なメリットがあった。楽曲が決まったばかりだというのに、既に各パートへの楽譜の配布が始まっている。楽章は違うが、全国大会へ出場した時に使用した編曲なので、文句を言う者もいない。
しかし、一方で難易度は相当高い。そもそも弦楽器のパートを管楽器が補うという時点でハードルは跳ね上がるのだ。
「それを言ったら元も子もねえだろ」
ライブラリアンを務めるパーカッションの誠一郎が、俺にスコアを手渡しながら言った。相変わらず口は悪いが、いざ合奏となるとティンパニを叩くマレット捌きは繊細かつ丁寧なのが印象的な生徒である。
「ありがとう」
印刷されたばかりで僅かに温かいスコアを受け取ると、誠一郎はすぐに別のパートのところへ向かっていった。
たしかに彼が言う通り、編曲を全て否定するようなことを言っても仕方が無い。中には邪道と言う者もいるが、コンクールの定番の中には何曲もオーケストラの名曲があるのもまた事実である。とにかく奏者と指揮者の技術次第なのだ。
ちなみにもう一曲の「喜歌劇もの」については、ぐっと難易度を落とした選曲にした。レハール作曲の『メリー・ウィドウ』である。中学校の自由曲の鉄板なので淑乃や芽衣は露骨に嫌そうな顔をしたが、相方が『幻想交響曲』なので全く余裕は無い。それに『メリー・ウィドウ』だって素晴らしい楽曲であることには変わらない。
楽曲が決まったことはさすがに絵理子にも報告すべきだろうと考え、俺は第三職員室へ向かうことにした。道中、パートごとにわかれて普通教室で各自が練習をしている様子が目に入る。早速楽譜を読み始めているようだ。
思い返すと四階まで上がるのも久々である。少し息切れしているのは運動不足の証拠だろうが、毎日こんなところまで来ている絵理子には同情してしまう。
到着すると、扉に嵌まったガラスの先にはいつも通り能面を貼りつけたような顔の絵理子がパソコンに向かっていた。入室しづらいのでいい加減やめて欲しい。
「失礼します」
「失礼だと思うなら帰って」
扉を開けた瞬間に絵理子の口元が動く。
「このやり取り、ノルマなのか?」
うんざりして尋ねたが無視される。
「報告したいことがあって来たんだけど」
「何? 内線でいいじゃない」
「てめえ一度も出たことねえだろ!」
ナンバーディスプレイで判断しているのだろうが、これまで絵理子と繋がった試しが無い。
「そんなことより」
俺の文句はまるで聞こえなかったように、絵理子はようやくこちらを向いた。
「さっきから聞き覚えのあるフレーズが流れているのは、どういうことなの?」
階下で練習する楽器の音は、この部屋まで聞こえてきている。演奏した楽章こそ違えど、当然絵理子も『幻想交響曲』についてはよく知っているので、不快そうな視線をぶつけてくる。
「報告っていうのは、それについてだよ」
「は?」
「自由曲は『ワルプルギス』をやることになった」
短く説明すると、途端に絵理子の機嫌が悪くなる(いつも悪いが)。
「どうしてそうなるのよ。私への当てつけ?」
「そんな訳ねえだろ。インスピレーションというか、プラシーボというか、デジャブみたいな?」
「私が国語教師なのに、そんな意味不明な横文字で誤魔化せると思っているのね。もう勝手にすれば?」
「感覚でわかれよ! この曲を思いついた瞬間、それ以外に無いような気がしたんだ」
もちろん、十年前に第四楽章を演奏した縁も大きい。だが、日向が現れたことや、あまりに変人集団である三年生のことを考えると、まさに「幻想」というモチーフがぴったりだと思ったのだ。
「そう言えば、去年は『くるみ割り人形』だったらしいな。どういう意図で選んだんだ?」
少し気になったので聞いてみると、絵理子は露骨に目を泳がせる。
「……なんとなく」
「は?」
「そんなこと今は関係ないでしょ!?」
いきなり逆上された。それ以上の追求は、炎上中の車両にガソリンタンクを投げ込むような暴挙だと判断し、俺は話題を変えることにした。
「最近は忙しいのか?」
「無職のあなたが、忙しいという概念の度量を図れるの?」
「……」
世間話すらまともにできないのだから、ほとほと困る。
「なあ、俺が当時やらかしたことは本当にすまないと思ってるよ。でも、こうして俺なりに頑張ろうとはしているんだから、もうちょっと歩み寄ってくれてもいいんじゃないか?」
「……よくそんなこと言えるわね」
取りつく島も無い。
「あのな。俺だって当時は相当悩んだんだぞ? もし俺が残ったとしても、バラバラの状態はどうしようもなかっただろ」
「そんなこと知らないわよ」
もう何を言っても、一度ぶっ壊れてしまった関係を修復することは難しいらしい。覆水盆に返らずという奴だ。
「じゃあ、ビジネスの話なんだが」
「無職なのに?」
「お前本当いい加減にしろよ」
俺は大きくため息を吐いた。
「おかげさまで部は存続することになった。でも、俺は顧問でも教師でもない。事務的な仕事って言ったら語弊があるけど、引き続きお前に色々お願いしたいんだ」
既に一年以上顧問を務めている絵理子は、裏方の仕事も把握している。コンクールやイベントのエントリーだけでなく、この地区の吹奏楽連盟の会合などは、絵理子に担当してもらいたいのだ。
「それに、今の部員はあまりにステージ経験が無さ過ぎる。なんでもいいから、演奏機会を見つけて欲しい」
以前日向に聞いたことがあるのだが、祭事や式典といった各種イベントは、案外この近辺でもかなりの頻度で開かれているらしい。おそらく、こちらから出演交渉をすれば歓迎される場合が多いと思う。実際、俺らが学生の頃もそうやってしょっちゅう出演していた。
「……わかった」
また毒舌が飛んでくるかと思われたが、意外にも絵理子は素直に返事をした。
「忙しいところ悪いな」
皮肉でもなんでもなく心からそう思って言葉を掛けたのに、絵理子は相変わらず鋭い目つきで睨んでくる。
「親の敵じゃねえんだから……」
「親じゃなくて、楓花の敵よ」
「……楓花?」
何か、とんでもない発言が聞こえた。
「おい、それっていったい――」
「もう用は済んだでしょ? あなたが言った通り私は忙しいの。早く出て行って」
俺は容赦無く部屋から叩き出される。
なぜこのタイミングで楓花の名前が上がったのか。もう一度絵理子を問い詰めようと扉に手を掛けたものの、内側から施錠されている。これでは俺がストーカーみたいだ。
「それ以上つきまとったら通報されちゃうよ」
神出鬼没の日向が、廊下の真ん中で声を上げた。
「……お前、突然登場するのやめてくれないか?」
単純にびっくりするので心臓に悪い。
「お化けってそういうものでしょ?」
「知らねえよ……」
絵理子のことは諦めて、俺は音楽室準備室へ戻ることにする。
「なんの話をしていたの?」
背後をついてくる日向から無邪気に質問された。
「自由曲のことと、今後に関するお願いだよ」
「ふうん」
「……なあ、お前はもともと絵理子と仲が良かったのか?」
「急に何?」
「お前の家と絵理子の実家って近所だったと思って。お前はけっこう絵理子に対して馴れ馴れしいしさ」
「まあ、お姉ちゃんと絵理子先生って小学校からの幼馴染みだからね。小さい頃から知り合いだよ」
「なるほど。あいつ、全国大会が終わってからずっとあんな感じなのか?」
以前、楓花は二週間ほど寝込んだのだと聞いた。では絵理子もあの一件で心を閉ざしてしまったのだろうか。
「さあ? 歳が離れてるから、当時はあたしも小さいしあんまり記憶にない。絵理子先生とは、あたしが高校に入学してから久しぶりに会ったくらいだし」
「そうか……」
たいして有益な情報は得られなかった。絵理子に関してはしばらく様子を見る他あるまい。




