第十四話 審判 Ⅰ
呆気なく運命の日の朝がやってきた。「明けない夜はない」などという、希望を表現するには安っぽくありきたりなセリフが、段々白んでいく窓の外を眺める俺にとっては呪いの言葉に感じられた。
週末の練習は瞬く間に終わってしまった。最後の別れ際に俺が部員へ向かってなんと声を掛けたのかよく覚えていないが、まるで今後もこれまで通りの日々が続いていくような、自然な振る舞いであったことはなんとなく記憶している。
そんな現実逃避のプロである俺は、布団に入ってから全く眠る気になれなかった。寝てしまえばすぐに朝になる。しかし、当たり前のことだが時間が経てば自然に朝は来るのであって、改めて「時」という概念は人類皆に平等なのだと思った。
つまり俺は、全く寝ていない。
「あんた、初めて会った時より土人形みたいな顔色だけど大丈夫?」
日向の声は俺の耳を素通りしていく。
「ねえ。また点滴を打ちに行きたいの?」
「……」
無反応の俺を見て、日向は舌打ちをしながらコンポのもとへ向かう。それすら視界に入っていない俺を睨みながら、まるで最初から用意されていたようにスムーズな手つきで再生ボタンを押した。
次の瞬間、弦楽五部が奏でる悲劇的なハ短調のテーマが俺の鼓膜を襲撃する。
「うるさいうるさいうるさい!」
サラサーテ作曲の『ツィゴイネルワイゼン』だ。強烈なのは冒頭の数小節のため、曲はすぐに独奏ヴァイオリンのメロディーへと移り変わっていく。
「もう静かだよ?」
「……なんでいつも嫌がらせみたいな選曲なんだよ」
「今はあんたが無視したんでしょ」
「もともとセットされてたとしか思えないんだけど」
「ちっ」
滑らかに奏でられるヴァイオリンの旋律は美しいが、短調は短調である。とくに冒頭は絶望の代名詞みたいなテーマなので、救いの無い一日が始まったことを宣告されたような気分だ。
「超名曲なのに、そんなボロクソに言っていいの? サラサーテに謝って」
「否定はしてないだろ。時と場合なんだよ。熟成されたフルボディの赤ワインを朝から一気飲みする奴がいるか?」
「いや、未成年にお酒の話をされても……」
「俺もそんなワイン飲んだことねえよ!」
「はあ!? 意味わかんないんだけど!」
いよいよ正常な思考を保てなくなってきた。
「ちなみに次のトラックは?」
俺が尋ねると、日向は素直にボタンを押す。流れ始めたのは同じくヴァイオリンソロだが、可愛らしく軽快なト長調の旋律――クライスラー作曲の『美しきロスマリン』である。
「どう考えてもこっちだろうが!」
「こんな穏やかな曲を流したってつまらないでしょ」
「お前もクライスラーに土下座しろよ、マジで」
「まあ、少しはマシな顔つきになったから良かったじゃん」
悪びれもせず、日向はシニカルな微笑みを浮かべた。そう言えば先ほど土人形と言われた気がする。比喩に人間の情が全く無いが、亡者だからだろうと勝手に納得する。
「で、どうしてそんな処刑前みたいな雰囲気なの?」
「どんな雰囲気だよ」
「だって、目は血走ってるし呼吸は浅いしクマも酷いし頭はおかしいし。あ、頭はいつもか」
「寝てねえんだよ!!」
「なんで?」
「今日で全部終わっちまうかもしれないと思ったら、寝ていられる訳無いだろ……」
どうでもいいが、そんなに俺の頭はイカれているのだろうか。正直、絵理子や部員達もそう大差無いと思う。
「あんたの睡眠時間を捧げると事態が好転するの? 新手のおまじない?」
「お前みたいな能天気な奴には、俺の気持ちなんてわからないだろうな!」
吐き捨てるように言うと、日向はやれやれと肩を竦めた。
「結局、一年生は今のところ何人集まったんだっけ」
「……十三人だ」
「最初に復帰した二年生五人と美月を足して、十九人」
「……」
「足りないじゃん」
「……」
「そもそも二年生をカウントしても良いっていうのは、こっちが勝手に言ってるだけだし」
「あああああああ!!」
布団の中で何度も数え直したので、そんなことはわかりきっている。だから眠れなかったのだ。
「……まあ、あたしとしてはここまでやってくれただけでも感謝はしてるんだけど。あんなコンサートを見せられて、不満なんて言えないよ」
日向らしくない言葉に、俺は驚いて彼女を見つめる。だが、寂しそうな顔が見えたのは一瞬だった。
「一人くらいなんとかなるでしょ。締め切りは今日の夕方だし。先週のコンサートの出来映えなら、絶対に誰か来てくれるって」
「……結局、それを信じるしかないな」
日向の言葉が全てであることに間違いは無い。もはや祈るのみ、と思っていたのは俺自身だ。後はなるようにしかならない。月並みな言葉を用いるなら、人事を尽くして天命を待つという奴だ。
「それにしても、出会った時は死にそうだったあんたが、ここまで他人のことを気にかけるなんて意外だよ」
「俺だってそう思ってる」
心の奥底で眠っていた「もう一度純粋に音楽をしたい」という欲が、ここまで熱いものだと想像していなかった。焚きつけたのは日向や絵理子だけではない。エメラルドのサウンドを目指すと志した部員達の音が、俺を突き動かしているのだ。
「じゃあ、行こうか」
コンポの電源を落とした日向が静かに声を掛ける。準備をして外へ出ると、朝露に濡れた歩道を太陽が穏やかに照らしていた。夜明けを恐れていた臆病な俺を包み込むようなその光に触れて、ようやく俺は少しの希望を感じることができたのだった。
努めて平静を装いながら、俺は淡々と時間を過ごした。入試の合格発表前の受験生のような気持ちだ。俺の場合、翡翠館の入試は落ちることがないと思っていたし、大学受験もしていないので実際の緊張感は想像するしかない。ただ、何をするにも集中力は欠けるし、鼓動も早いままである。月曜日は音楽の授業が無いことだけが幸いであった。音楽準備室に引きこもっていても、誰からも責められない。
気がつくと昼時になっていた。
『――皆さん、お待たせしました! ランチタイムブレイクのお時間です!』
相変わらずキンキンとした輝子の声がスピーカーから流れ始める。俺の中ではブレイクという単語の翻訳が「休息」ではなく「破壊」になっているので、吹奏楽部がやっていたこととたいして変わらないんじゃないかと最近は思い始めたくらいなのだが、CMの件を含め世話になった生徒会には頭が上がらない。賄賂ではなく、しっかりと謝礼を上納するべきだろう。
『――ではここでお知らせです。今日も時間を持て余して校内をうろついていると思われる、OBの秋村恭洋さん』
感謝の気持ちで放送を聞いていたら、そんな俺の感情をブルドーザーで薙ぎ倒すようなアナウンスがかかる。
「その説明って必要か?」
俺が呟くと、一緒に聞いていた日向が噴き出した。
『本日午後五時に校長室へお越しください。繰り返します。OBという肩書きだけで特権階級のように校内を徘徊している秋村さん』
「おい、どんどんひどくなってるぞ」
堪えきれなくなったのか、ひいひい言いながら日向が笑い転げている。最近の女子高生はみんなサイコパスなんだな、と思った。謝礼の上納については再検討である。
『午後五時に校長室へお越し下さい』
アイドルらしさの片鱗も無い極めて事務的な口調で連絡を告げた輝子は、その後いつもの調子に戻って放送を続けた。
どう考えても呼び出された用件は吹奏楽部の処遇についてだ。五時ということは、本日分の入部受付は僅かな時間しか設けられないだろう。
俺は腹を括った。高校時代は自分から勝手に逃げ出したが、今回は結果がどうなろうと最後まで見届ける責務がある。開き直るようにスコアを読んでいると、徹夜明けが祟ったのか、いつの間にか俺は微睡みに落ちていた。




