第十四話 審判 Ⅱ
西日の差す音楽準備室。湿気の少ない心地良い微風がカーテンを揺らす。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようだが、そもそも寝不足の俺はなかなか覚醒できないでいた。なんとなく目を閉じたまま机に突っ伏していると、不意に人の気配を感じる。日向だろうか。
「ん、今何時だ――」
うわごとのような俺の呟きを掻き消すように、耳元で突然トランペットのフォルテシモが鳴った。
「わああ!」
五歳児みたいな叫び声を上げながら飛び起きると、反動で膝が机の角に激突する。
「痛え!」
「ふん。いい気味ね」
悶絶している俺に向かって無慈悲な言葉を吐き捨てたのは淑乃である。
「お前らはまともな起こし方を知らないのか!?」
「……お前ら?」
寝ぼけたままの俺は、いつも意味不明な起こし方をする日向が亡者だということを失念していた。
「……なんでもない。気にするな」
少し不思議そうな顔をした淑乃だが、すぐにいつもの機嫌の悪そうな表情へ戻る。
「優雅にお昼寝をしていた、OBの秋村さん」
「なんだよ」
輝子のアナウンスを彷彿とさせる淑乃の口調が、俺の神経を逆撫でする。こいつらって生徒会と仲が悪いんじゃなかったのか。
「あれ見て」
すっと右手を挙げた淑乃の指先を辿ると、壁に掛かった時計へ行きつく。
「ああ、もう四時半か」
「……」
「四時半!?」
「あんたバカなの?」
なんということだ。呼び出しの時間がすぐそこまで迫っているというのに、惰眠を貪り過ぎた。こんなに緊張感の無い奴がいたら、淑乃じゃなくても非人道的な叩き起こし方をするだろう。
「みんなもう集まってるのか!?」
「まだ寝ぼけてるの? 放課後の練習が四時半からなんだから、当たり前でしょ」
そうだった。
「――なんの騒ぎですか?」
いつものようにノックもせず現れたのは部長の玲香である。
「ああ、この人が部の存亡を懸けた話し合いの直前なのに、呑気に寝ていただけだよ」
「軽蔑しました」
「お前ら本当に容赦ねえな!」
存亡を危惧した結果、徹夜をした俺の気持ちを少しは慮ってほしい。
「……何か動きはあったか?」
「いえ、とくには」
「そうか……」
「この後ですが、私も校長室に来るよう言われていますのでご一緒します」
秘書のように淡々と話す玲香だが、握りしめた拳はほんの少し震えている。
「わかった」
完全に目が覚めた俺は、両腕を真上に挙げて上半身を伸ばす。
「ねえ、大丈夫なの?」
珍しく弱気な淑乃が、見かねたように尋ねてきた。
「正確なタイムリミットは言われてないんだ。今日も六時頃までは今まで通り勧誘してくれ。もし入部届を受理したら、俺の携帯に連絡して欲しい」
「……わかった」
淑乃は素直に頷いた。
「ちょうどいい。部長と生徒指揮者のお前らには言っておくよ」
俺は昨晩(正確には本日未明だが)考え抜いた末に思い至った提案を二人へ伝えることにした。
「今回の件が始まる前は、誰一人として一年生が入部するなんて思ってなかっただろう。でも、実際は十人以上も集まってくれた。お前らが部活紹介で素晴らしい演奏をしてくれたおかげだ。もちろん、講堂で開催したコンサートもな」
玲香と淑乃は、俺が何を言い出すのか緊張した面持ちで聞いている。
「それに、吹奏楽部を離れていた二年生だって戻ってきてくれた。普通の学校なら、その状況で無理矢理廃部になんてしないさ。何より、新入生があまりにも不憫だからな」
実際、理事長の渋川が今回のミッションを持ち出したのは、まさに新入生を案じたことがきっかけである。
「だから、条件を達成しなくても廃部にならない可能性があると思ってる」
俺がずっと祈っていたのは、下級生達を尊重することと吹奏楽部そのものを断罪することの、どちらに天秤が傾くかという一点である。後者なら、最初から議論の余地も無い。
「それでも約束は約束だ。条件が達成できなければ、俺が二度とこの学校と関わらないことと引き換えに、部の存続をお願いしてみようと思う」
あまり張り詰めた雰囲気にならないように言ったつもりであったが、俺の策を聞いた二人の顔から血の気が引いていく。
「今のお前らなら俺がいなくてもなんとかなるさ。本当、よく成長し――」
「本気で言ってるんですか」
俺の言葉を遮ったのは、目を合わせたら氷漬けになりそうなくらい冷たいオーラを纏った玲香である。
「いや、なんのお咎めも無しって訳にはいかないだろ。俺一人の犠牲で組織が救われるなら安いものじゃないか」
「あんた本当にバカじゃないの!?」
今度は火傷しそうなほどの怒気を放つ淑乃がヒステリックに叫ぶ。
短い間でしたがお世話になりました、といつものように淡白な挨拶が返って来るとばかり思っていた俺は、目の前にいる二人がなぜ激怒しているのか見当がつかない。どう考えても、俺が身を引くのが折衷案であるのに。
「絵理子がいるじゃないか。あいつも当時の副部長だし、さすがに目が覚めたと思うが」
「絵理子先生が指揮を振るくらいなら、指揮台の上にメトロノームを置いておく方が何倍もマシだよ!!」
「お前、それ本人に聞かれたら絞め殺されるぞ」
「事実だもん!」
淑乃は悪びれもせずに言い切った。つまり、それほどまでに絵理子の指揮は問題ということか……。
「秋村さん、ここまで関わったならちゃんと見届けてください。どうせ他にやることもないでしょうから」
「お前はお願いをしたいのか悪口を言いたいのかはっきりしろ」
いまいち二人が何を訴えているのかわからないが、俺の提案が却下されたことだけは間違い無いようだ。
「わかった。じゃあ、本当にどうしようもなくなった時の最終手段にしよう」
「それだと結局は――」
「お前らには、俺みたいになって欲しくないんだ」
反論しかけた淑乃を制し、率直な思いを静かに語り掛ける。そして、机の上に置いてあったルーズリーフを手に取り淑乃へ差し出す。
「俺がまとめたコンクール自由曲の候補だ。もし俺が戻らなくても、参考にしてくれ」
「……わかりました」
おずおずと用紙を受け取った淑乃は、素直に返事をした。こいつも敬語を使うんだな、と場違いな感想が浮かんだ俺は、無意識に微笑を零していた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
無情にも時計の針は進んでいく。約束の時間まで、十分を切った。
音楽準備室を出ると、部員達が集まっていた。今さらながら、練習の開始時間が過ぎているのに全く楽器の音がしていないことに気がつく。俺の姿を見た彼らは何か言いたそうな顔をしているが、声を掛けるでもなくただただ突っ立っている。そういえばこいつらは俺と同じくコミュニケーション能力が低いのだった。コンサートを立派に彩った璃奈や萌波ですらそんな様子なので、少し不安になってしまう。
「お前ら、なんで堂々とサボってんだ? コンクールまで三ヶ月しかないのに余裕みたいだな!」
無理矢理明るい声を張り上げても、反応が無い。
「あ、俺が音楽準備室にいたから楽器庫に入れなかったのか! 悪かっ――」
「秋村さん」
たまたま近くにいた紅葉が、すっと俺の前に出る。
「今日の合奏も講堂でいいですか?」
指揮台の上でよく目が合う彼女は、演奏中と同じくらい真剣な瞳をしていた。
「……そうだな」
短く答えると、緊張が解けたように紅葉の口元が緩む。
「わかりました。みんなで待ってます」
そう言って紅葉は俺とすれ違う。反射的に振り返ると、廊下に並ぶ部員達が全員俺を見ていた。
十年前、音楽室を飛び出した俺に目を向ける者は誰一人いなかったというのに。
「ああ」
俺はすぐに部員達へ背を向けて、校長室へ向かう。たった数秒で大人の感情をぐちゃぐちゃにするなんて、一ヶ月やそこらでずいぶん成長したものだな、と保護者みたいな感想が浮かんだ。
もちろん嫌味ではない。
ただの負け惜しみだ。




