第十三話 すれ違いの終着点 Ⅱ
美月がこれまで退部届を出さなかったのは、音楽への嫉妬と対抗心だった。そして、彼女と吹奏楽部を繋ぎ止めていたのが、日向の言った「演奏会が成功すればもっと楽しくなる」という言葉であった。
「私達が新しい吹奏楽部で成功すれば日向先輩の言葉の意味もわかると思ったし、萌波ちゃんもパパも、もう一度私を見てくれるかなって……」
掠れた声で告白した美月をさらに強く抱き締めながら、萌波は「ごめんなさい」と繰り返した。
「――お前さっき、トロンボーンは地味って言ったよな?」
久しぶりに俺が声を上げると、萌波が慌てて美月から離れた。どうやら存在が消えていたらしい。
「……実際、地味じゃないですか。だいたいトランペットの陰にいるし、旋律があってもゴツいし、ホルンみたいに吠えることも無いし。そもそも位置が最後列の端だし……」
美月が理由を羅列した。申し訳無さそうな顔をしているのは、普段嬉々としてトロンボーンを吹いている萌波が目の前にいるからだろうが、その割にはボロクソである。こいつは萌波に興味があるのであって、楽器は二の次のようだ。
「トロンボーンがかつてどんなふうに呼ばれていたかも知らないくせに、よくそんなことが言えるな」
肩を竦めながら俺が非難すると、美月から反抗的な視線を向けられる。
「『かつて』って……。トロンボーンは最近の楽器でしょ?」
「何言ってんだ。めちゃくちゃ昔からあるよ」
「へえ。じゃあ、なんて呼ばれてたんですか?」
「神の楽器」
即答すると、美月だけでなく萌波の目も点になった。
「トロンボーンって、どう考えても唯一無二の楽器だろ。あんなに音程を操作できるのが容易な楽器は他に無い」
スライドの伸縮で音程を決めるトロンボーンは、正確な音程のポジションの把握などは難しいが、調整は他の楽器に比べてしやすい。また、音域が男性の声域に近く合唱の伴奏などに適したトロンボーンは、発明されてしばらくは主にカトリックのミサにおける聖歌などで使用された歴史がある。ちなみに初めて交響曲にトロンボーンが採用されたのは、ベートーヴェンの第五番――『運命』である。
「……逆に言うと、宗教音楽以外で使うのは憚られたんだよ。だから『神の楽器』と呼ばれた。そんな素晴らしい楽器に対して、お前は地味だのゴツいだの世俗的な文句ばかり……」
俺がねちねち文句を言うと、美月はきまりが悪そうに自らの楽器のケースへ目を向けた。
「もしお前がトロンボーンの本当の魅力を知りたいなら、目の前の先輩と音楽を続けなさい。ここで辞めたら、その子も寂しがるだろ」
美月のことを待っていたのは萌波だけじゃない。数ヶ月も放置されていた彼女のトロンボーンも、再びステージに上がることを待ちわびていることだろう。
「その楽器、たしかお父さん――校長先生が買ってくれたんだよね?」
萌波が問い掛けると、美月は頷きながらケースに触れる。
「やりたいって言った時はびっくりしてたけど、嬉しそうだったな、パパ。そか、私は本当に……」
一つ息を吐いて立ち上がった美月が、そのまま俺の目の前にやって来る。
「いろいろと失礼を働きました。すいません」
「俺は失礼をされても文句が言えない人種だから、謝らなくてもいいよ」
プライドの欠片も無い返答をすると、一瞬驚いた顔をした彼女から笑みが零れた。
「――あんた達、何してんの?」
ほんの少し和やかな空気が流れたと思ったのに、そんな雰囲気をぶち壊すような機嫌の悪い声が入口から聞こえた。
「……淑乃先輩」
「萌波が帰って来ないから何かと思えば……。あんた、またうちらを引っ掻き回しに来たの?」
「淑乃ちゃん、やめて」
敵意剥き出しの淑乃の前に立ちはだかったのは萌波だった。
「美月ちゃんは今日からまた復帰するから。淑乃ちゃんも先輩らしくして」
「……あっそ」
素っ気ない態度の淑乃はおおよそ先輩とは呼べないほど大人げなく、不機嫌なまま踵を返してしまった。
「萌波がさらっと『復帰する』って言ったけど、良いのか?」
張本人の美月は、一度萌波の顔を見てから頷く。
「そうか。だが、いきなり試練だな」
美月のことを快く思わないのは淑乃だけではないだろう。
「みんな、私が体調不良で休むのをよく思ってないので……」
そういえばこいつは体が強くないのだった。
「ちなみに、持病でもあるのか?」
「美月ちゃんは喘息なんです」
その病名を聞いた瞬間、俺の頭にとある人物が浮かぶ。
「――それなら、なおさら練習を頑張れ」
「は?」
美月はきょとんとしている。
「秋村さん、パワハラですよ」
萌波が感情の無い声で俺を糾弾した。
「発作が起きたら楽器を吹くどころじゃないんです。小さい頃は私がよく介抱してました。本当につらそうで、かわいそうで……。そんな子に向かって『なおさら頑張れ』なんて、失望しました」
「待て待て。違うんだよ」
「何が違うんですか? やっぱり全国大会に行くほどだから、昔は病人でもキツくしばかれていたんですか?」
話がどんどんおかしな方向へ向かっている。
「萌波ちゃん、ちょっと落ち着いて」
「でも……」
まだ何か言いたそうな萌波だが、美月に手を握られて渋々黙った。今日の演奏会もそうだが、萌波は美月が絡むと性格が豹変するのかもしれない。もう言うまでも無いが、この二人は親友とかそういう次元の付き合いじゃない気がする。
「肺の機能を鍛えれば、症状が軽くなるかもしれないから頑張れって言ったんだよ。アレルギー性の喘息じゃなければ、だがな」
ようやく本旨を説明したが、二人は頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「音楽をやる時は基本的に腹式呼吸だから、気管への負担が減るんだ。むしろ何もしないで呼吸が浅いままの方が、発作のリスクは高い」
「……なんでそんなに詳しいんですか?」
「高校時代の部長も、喘息だったからだ」
「部長って、もしかして……」
「ああ。日向のお姉さんだよ」
太陽のように明るい楓花の、唯一と言ってもいい弱点が喘息だった。
「トランペット吹きだったんだが、発作が起きた時のことを踏まえて教えられたんだよ。まあ、実際に発作が起きたことは無かったけどな。だからお前も頑張れ。しっかり楽器を鳴らせば、自然に呼吸を司る筋肉は鍛えられるから」
「そう、だったんですか……」
美月はトロンボーンのケースを抱き締めた。
「逃げちゃって、ごめんね……」
俺と萌波は、目を合わせて微笑む。
「――岩戸に閉じ籠もった天照の興味を引いたのは、天鈿女命。芸能の女神だよ」
俺が萌波に語りかけると、少しだけ目を見開いた彼女は「そうですか」と短く答えた。ダイナマイトを仕掛けると言った人物と同一には見えない穏やかな表情である。
「まあ、吹奏楽部に光が戻るかどうかは、お前ら次第だがな」
「……はい」
この二人が『神の楽器』を担当しているのは、数奇な縁だと思った。しかし冷静に考えてみると、結局のところ後輩達がストライキを起こした原因の大半が、この二人の痴話喧嘩だったと言っても過言ではない。
そんな事実を前に笑っている場合ではないのだが、丸く収まるのならそれでいいとも思えた。たとえその丸が、不格好で歪だったとしても。
――こうして、一ヶ月近くにわたる勧誘活動が幕を閉じた。桜の花も完全に散り、アスファルトの上には薄汚れたピンク色の絨毯が広がっている。たった一週間程度しか花をつけられない桜の儚さが、最後に一瞬の煌めきを見せた吹奏楽部のイメージと重なった。だが、教師でないどころか手に職も無い俺に出来ることは、もはや祈ることだけだ。
俺がしたことは、そうたいした指導ではない。昔話をして、昔の演奏を聞かせて、指揮を振っただけである。それに、もともと三年生達は血の滲むような努力を重ねてきたのだ。たった一人で音楽室を去った俺のようにはなってもらいたくない。
これまで病的なまでに退屈な日々を過ごしていたのに、不安や焦りを抱えた瞬間、どんどん時間が過ぎていく。少しでも長く音楽に触れていたいと思う俺を嘲笑うかのように、約束の日はあまりにも早く近づいて来るのだった。




