そして、赤いサヨナラを 「5」
路地を抜け、死にかけの街灯が火花を散らす大通りに出る。
既に夜の帳は下り、点滅する白い光だけが路地を漫然と照らす中央市街。
ゾッとするほどの静寂に包まれながら歩くこと十分程度。
夜の闇の中に、アリサは巨塔のように浮かび上がる建造物を発見した。
洋画の中でしかお目に掛かれないような回転ドアは、わずか一枚だけのガラス戸を残して辛うじての面影を残している。傍で倒れている看板には『HOTEL:Casablanca』と流麗な字体で描かれていた。所謂、高級ホテルだったのだろう。ちょっとした講堂クラスの広さを誇るロビーは、かつては栄華を極めていたのだと予想に難くない。
今は――見るも無残、その一言に尽きた。
壊れた回転ドアから続く絨毯は濁流かのようにぐちゃぐちゃに乱れ、踏み荒らされ、既に瀟洒さとは無縁の有様。照明の類も、既に今わの際とばかりに貧弱な明滅を繰り返している。
憩いのロングソファもひっくり返され、あちこちにライムグリーンの制服を着た死体が散らばっていた。どれも、死に際を的確に切り取られたかのような形相で事切れている。
無実の観葉植物ですら全て薙ぎ払われ、この場で形を残している存在はアリサとパンドラだけなのではないだろうか。
一方的な虐殺があった、なんてのはもはや察するに余りある。
「……」
それを、彼女がやっていたのかと思うとやるせない念に身体を縛られるような心地になる。
『……ホントに、マトモな部屋なんてあるの?』
今の今までほとんど無口だった相棒が唐突に口を出す。
二度三度とロビー内を見回して、アリサは上階へと伸びる階段に興味を示す。左右に緩やかなカーブを描いて広がっているが、西側だけ崩落していてとても上れそうにない。
「……ロビーは、ともかく。上の客室とかなら……って意味じゃない?」
『上ってサ……』
崩れていない東側の階段を上って正面に見えてきたのはエレベーターと思しき自動ドアが四つ。
ボタンを押してみても、無反応。
階下の照明を見るに電力自体は生きているらしいのだが、何かしらの影響で故障しているらしい。
まぁそんな気はしてた、と小さく息を吐く。
非常階段の方を見ればぴったりと防火シャッターが下りている。抉じ開けてまで上階を目指そうとは、ちょっと思えなかった。
「…………?」
『ん? どしたのアリサ?』
ふと、ブーツの爪先に小さな振動を感じて、アリサの意識が階下の方へと向けられる。
在るのは死体ばかりで、生存者の姿は見当たらない。
だが、何かが揺れたような感覚をハッキリと感じたアリサはそのまま一階に飛び降りてもう一度周囲を注視する。
「………………誰か、いる」
『まさか……《赤ずきん》?』
「……」
薄く、アリサは顔をしかめる。今のアリサにとって、その名前は重たい。
そんな重さを露ほどにも知らない相棒が無遠慮に口にした所為で、アリサの身体は勝手に、不必要に強張って、神経が鋭敏になっていく。
音の出処はこのフロアの奥側、円形のテーブルがいくつも並ぶレストラン。
食事、商談、デートでも、過去であれば相応にラグジュアリな雰囲気が在っただろうが、死と退廃とが蔓延する街となってしまっては、もはや見る影もない。
革表紙のメニュー表を踏み付けて、アリサは進んでいく。
微かに感じていた振動は、やがて確固たる音となってアリサの耳朶に触れる。厨房の方からだ。
極力気配を押し殺し、銀色の扉の前で息を潜める。
扉の隙間からは白い光が漏れている。
丸い小窓はあるにはあるのだが、くすんでしまって中の様子がうかがえない。が、何かを物色しているような音が聞こえてくる。
「…………」
僅かに安堵する自分がいる。
少なくとも《赤ずきん》じゃない。
今の彼女は街で生きている人間だけを求めて徘徊しているから、そんな火事場泥棒のように廃墟を物色する道理はない。生き残った住民だろうか。
安堵した気の緩みから指先が動いて、扉を押し開ける。
高級ホテルに相応しい、広々とした調理場が目の前に広がった。
外に比べればいくらか清潔で、各種調理器具や大型冷蔵庫を始めとした各種設備などもほとんど無傷の状態で残っている。
一歩中に踏み入った瞬間、鼻先に一本の包丁が飛び込んできていた。
「ッ!?」
『うォわ!?』
安堵から生じた僅かな気の緩みは、アリサの頭から警戒という二文字をぼやけさせてしまっていた。
真正面から突然飛んできた包丁を咄嗟にしゃがんで躱し、間髪入れずに襲い掛かってきた複数のナイフをパンドラで薙ぎ払って弾き落す。一瞬、何か心無い罵詈雑言が飛んできた気がしたがこの時だけは聞こえなかったことにする。
パンドラを盾に向こう側を確認して――見つけたのは、濃紺のパーカーに身を包んだ少女、フェイだった。
調理台を三台挟んだ向こう側に立つ彼女は、微小の驚きと強い怨嗟とが綯い交ぜになったような顔を浮かべながらナイフを投擲する。ダーツのように一直線に、しかし的確に命を狙ってくるソレを避けながら、アリサは声を荒げる。
「ち、ちょっと! 待て、アタシは」
戦う意思も、理由もないと示そうとするもフェイは聞く耳を持たず、やがて手元のナイフが尽きたのか調理台を蹴って猛禽類かのように高速でアリサへと肉薄する。戸惑いの所為で身体がままならない状態のアリサに、先の戦闘で見せたシャープな拳打の雨アラレが降り注いできて、パンドラを盾に防戦一方を強いられる。
『おああだだだだだだだだだ!?』
「ひ!? 鞄、喋った!?」
鞄越しに伝わるくぐもった打撃音の向こう側でフェイが驚く声が聞こえる。
例えば、喋るサンドバックを想像してみればいい。殴ったら声が返ってきた、なんて不気味なことこの上ない。
どうにか戦闘態勢を整えようとするも素早い拳打のラッシュに息をするヒマもなく、叩かれるたびにパンドラは呻き、こんな忙しない状況下では自分の身を守るので精一杯だった。
「気持ち、悪いナ!」
『いたぅ、ちょっ、あらまー!?』
鋭いストレートを放つ右拳を引き、かと思えば神速の回し蹴りがパンドラを彼方へ吹き飛ばしアリサの手から盾が消え失せる。
不味い、と思うよりも先に痛みが奔った。
「、あがッ!」
鋭利過ぎて軌跡すら追えないほどの左拳がアリサの顔面にクリーンヒット。
衝撃が身体を浮かし、そのままの勢いで冷蔵庫に全身を打ち付ける。
痛みに全身の神経が雷に打たれたかのように痺れ、アリサの視界が一瞬だけホワイトアウトする。
白んだ視界の中で、トドメとばかりにフェイが跳躍。
日曜の朝を守り続けるヒーローみたいな、美しいまでのフォームの飛び蹴り。ほとんど反射神経で逃げ出して、しかし足がもつれて調理場の床にひっくり返ってしまう。
獲物を追う猫のような素早さで、フェイは冷蔵庫を三角蹴りするとアリサの身体を容赦なく馬乗りにして拘束する。
「お前! 何で邪魔した!」
カッと見開いたフェイの瞳に宿る、強い怨念の火。
それは確固たる意志の炎で、少し羨ましいとさえ思ってしまうほどの活力に漲っていた。
……おかしい。
窮地に陥っているというのに、アリサの思考は寝起きのようにぼやけてしまって、うまく機能していない。
戦え、という意思は泥のように眠ってしまっていて。
生きる、という意志は明後日の方向を向いてしまっていて。
心身ともに、感情の袋小路に追い詰められたアリサの思考はマトモじゃなくなっていた。
だから、だろうか。
「……!?」
殴りかかろうとしていたフェイの手がぴくりと止まる。
怨嗟に染まる少女の瞳が見たのは――アリサの、何も映さなくなった瞳から零れる涙だった。
「…………」
「な、何なんだ……お前、何なんだ!?」
「……」
知らないよ、そう声を発するのもめんどくさくなっていた。
今この瞬間、アリサは何もかもを放棄してしまっていた。
戦うことも、生きることも、考えることも。
長い旅を経て、辿り着いた結末に嫌気が差してしまって、それ以上の何かしらを諦めてしまっていた。
「あ……う……」
泣いている人間を、馬乗りにマウント取って殴りかかろうとしている。
フェイの中に辛うじて残っていた小さな正義感が、自分の望む行動とで天秤に圧し掛かって揺らいでいる。
居心地の悪い沈黙が調理場に漂って、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
伸るか、反るか。
ぐ、ぐぐぅ……
一人分の、腹の虫が空気を読まずして鳴く。
恥の上乗せ以外の何物でもないのだが、虫の居所は泣きべそをかくアリサの方だった。
「……う、うー…………う、うぅ、うがああああ!? もう! 何なんだ、お前! ホントに!!」
やり場のない憤りは怒号となって溢れ出し。
拳に宿ったフラストレーションは、しかし泣いている相手にぶつけるなんてと正義感が後ろ髪を引き。
結局、怒号を乗せたフェイの拳は、アリサの頬をかすめてコンクリートの床をぶち抜いた。




