名前のナイ世界 「9」
白木の屋根が、雨を軽やかに弾いて音色を立てる。
ともすれば躍り出せそうなリズムだが、生憎とそんなセンスを持ち合わせない有理紗にとっては雨が降っているという事実を告げるだけの、ただの音でしかない。
《赤ずきん》の小屋の二階、ベッドの上。
やんわりと身体を起こした有理紗は、起き抜けと同じようにやんわりと首を横に動かしてベランダの方へと視線を向ける。
見ているだけでアンニュイに浸れそうな鈍い色合いの雲が麦畑の頭上で延々と広がり、弱くも無ければ強くもない雨が降り注いでいる。
しばらく、有理紗はぼんやりと雨模様を眺めていた。
ベッドから身体を剥がして、欠伸をひとつしながらベランダの方へと出る。
屋根に弾かれた雨粒が有理紗の髪を伝って、頬に流れる。
……冷たい。
秋の雨は、存外冷たいものだ。
肌寒さを覚えた頃合いで部屋に戻り、化粧台の前に座って寝ぐせで乱れた金髪をいつものように二つに結わえていく。
ポニーテールも好きなのだが、ツインテールは子供の時からずっと好き。そんな程度の理由で気に入っている。
適当なゴムで結わえた後、有理紗は階下にある洗面台で顔を洗い、タオルで水気と眠気とを一緒に擦り落とす。そうやって完全に覚めた視界に、奇妙なものが映り込んで有理紗は足を止めた。
「…………?」
つい昨日夕食を過ごしたテーブルの上に、見慣れたハチェットが突き刺さっている。
赤い柄で、先端の刃だけが異常に肥大化したそれを、見間違うはずもない。《赤ずきん》が愛用している武器だった。
普段なら彼女の外套の中に忍ばせてあるはずの、有理紗にとっても彼女を象徴する凶器。
しかし、今はそれがあまりにも無造作にテーブルに突き刺さっている。
奇妙だとは思ったが最初のうちは深く考えず、有理紗は台所に行って水を飲む。
戻って、椅子に腰かけて、そして改めてテーブルに突き刺さったハチェットを注視する。
何処からどう見ても、何度見ても、それは《赤ずきん》のハチェットだ。
何でこんな場所に刺したままなのか、理由を聞こうにも肝心要の持ち主の姿は見当たらない。
少し経てば小屋に戻ってくるだろうと思い、この時の有理紗はあまり深く考えることはせず、ぼんやりと朝食の用意を始めた。
※
三日が過ぎた。
《赤ずきん》は未だに小屋に帰ってきていない。
有理紗は備蓄された食料を、きっちり一人分だけ取り出して調理する。
保存食といえど調理出来る場があるのなら活用すべき。そのまま食べてしまうのは何とも味気ない。
淡々と食事を済ませると、彼女から教わった簡易的なトレーニングを行う。
それが終われば――他にすることが無くなる。
食事して、トレーニングして、寝て、それを繰り返す。
そんな無味な日々が、しばらく続いた。
※
二週間が過ぎた。
《赤ずきん》は未だ小屋に帰ってきていない。
トレーニングと食事と、たまに近隣を散歩すること以外にすることがなかった。
怠惰と言われれば返す言葉もなく、退屈と言えば素直に頷けるような日々。
窓の向こうをぼんやりと見つめる有理紗の姿は、見ようによっては両親の帰りを待つ子供かのように見えるのかもしれない。
でも、《赤ずきん》は親なんて存在ではない。
命の恩人で、師匠で――有理紗にとって、かけがえのない存在。
なら彼女は――有理紗のことを、どう思っていたのだろう?
旅の道連れ程度の認識だったのか。
娘とか孫とか、そんな家族のように思っていてくれたのだろうか?
そんな思考が、有理紗の無味な時間を埋め尽くす時もあった。
携帯食料の味に、そろそろ飽きていた。
※
「……」
――目が覚める。
気怠い身体を起こして、化粧台の前で髪を整える。
着替えを済ませて階段を下り、顔を洗う。雑巾みたいなタオルで拭う。
気付けば、朝食は取らなくなっていた。
散歩とトレーニング程度で生じる程度の空腹感では、食事を取りたいと思わなくなっていたからだ。
今の有理紗は、特に理由がなければ一日に一度の食事で事が足りる。だいたい、昼に少しか夕方に少しでいい。
起き抜けで血流の巡りが遅い、ぼんやりとした頭のまま、有理紗は椅子に腰かける。
虚ろ気味な有理紗の瞳に、突き刺さったままのハチェットが映り込む。
ロクに手入れもされていないハチェットの刃は曇っていて、有理紗の顔をまるでモザイク画のように反射している。
幽霊のような、辛うじて人間らしいシルエットを描くだけ。
椅子の上で膝を抱えながら、有理紗はハチェットを見つめる。
《赤ずきん》は帰ってこない。
何の音沙汰のない日々が、今日で一か月。
彼女が姿を消すこと自体は、あまり珍しくなかった。
でも、それは大抵二、三日もすれば仕事を終えて戻って来たし、それ以上長い期間居なくなることは一度もなかった。
だから――、
「…………」
置いて行かれた。
なんて、つまらない妄想は首を振ってかき消す。
陰りの差し込むハチェットの刃を見つめながら、有理紗は思考する。
彼女は、きっとで何かしらの仕事に出かけた。
出かけて、けれど愛用のハチェットを忘れてしまった。
武器が無くとも十二分に強い人だが、もしかしたら武器が無いせいで何処かで困り果てているのかもしれない。
これは――このハチェットは、つまり、そう、彼女の忘れ物だ。
「…………、」
馬鹿だな、と呟くつもりが声に出なかった。
他者との関りを迂遠と疎んで、この小屋で寝起きするだけの生活があまりにも長く浸透してしまって、声を出すということを疎かにしていた結果。かすれて出てきた言語以下の音に、情けなさと一抹の恥ずかしさが上乗せされる。
首を振る。
大事な仕事道具を忘れるなんて、らしくない。
有理紗は、椅子から立ち上がった。
忘れ物なら、届けなくてはならない。
有理紗は引き出しから近辺の地図を広げる。
この小屋を挟むようにして南北に広がる穀倉地帯、さらに北上した場所には小さな村がある。ここを、ひとまずの目的地とする。
有理紗は、決心した。
備蓄していた食料から長持ちするモノを選出し、テーブルの上に並べていく。
量は多過ぎず少な過ぎず。
携帯するのに邪魔にならない程度の量をコントロールし、以降は現地調達を基本とする。
それから二階へ上がって身支度を済ませる。
身支度といっても、用意できたものといえば替えの下着とタオルが数枚程度。他に着るモノなんて持ち合わせていなかった。嵩張らないことはいいが、女としてはどうなんだろう。四の五の言っていられないか。適当に畳んで一纏めにして、部屋を出ようとした時だった。
ふと、有理紗の視線がクローゼットに吸い寄せられる。
中身は空っぽ――ではない。
衣服の類は確かに一つたりとも入っていなかったが、そういえばと思い当たる節がひとつ。
クローゼットを開いて、視線は斜め下に。
そこには、古ぼけた旅行鞄が横倒しになっていた。
初めてこのクローゼットを開けた時と何ら変わりのない様子のまま佇む旅行鞄を、有理紗は遠慮なくぐいっと引っ張り出す。奥底で潜んでいたホコリも巻き込んで舞い上がって、思わず有理紗はむせる。大きさの割にはさして重たくない。
今の今まで、荷物を用意こそすれ持ち歩く術を考えていなかった。
そんな折に思い出した旅行鞄の存在。
僥倖と微笑むべきか、都合がいいと嗤うべきか。
旅行鞄と着替えとを抱えて有理紗は階下に降りる。
テーブルの上に鞄を乗せて支度をしようとした、その時だった。
『……あれ、何処かにお出掛けかな?』
不意に、子供の声が聞こえて有理紗の手がぴくりと止まる。
この小屋に有理紗以外の人間はいない。
近くに住んでいるのは老人ばかりで、子供の姿は見かけたことがないからそういった線も在り得ない。
右と左と視線を動かしても、空虚ばかりがわだかまる小屋の姿しか映らない。
『いやー、外の空気って新鮮だ。やっぱりオイラの本分は旅行鞄なんだから、クローゼットに引き籠ってるよりも何処か遠くに旅行するべきだよね。んで? オイラを引っ張り出したアンタは誰だい?』
「……か」
鞄が、喋っている。
有理紗のかすれた声にまで驚嘆の色が浮かぶ。
今この瞬間、手元にある旅行鞄が声を発していると認識してしまったからだ。
物言わぬはずのモノが人の言葉を話している。
そんな非現実的な現実に一瞬慄いて、右足が半歩分後ろにズレて、有理紗は思わず折り畳みナイフを素早く取り出した。
『ちょ、ちょちょ!? 落ち着けって!? 初めて長旅出来るかもしれないって喜びに打ちひしがれて、ちょっとご機嫌に喋っただけじゃないか! 理由なき暴力反対!』
「……鞄ってのは、普通、喋らない」
『えー? そうだっけ? でもまぁいいじゃん別に。鞄が喋ったって、世界は滅びやしないさ。お嬢さ……んって、顔してないなー。アンタ、名前は?』
「……」
名前を聞かれて、何故か言葉が一瞬喉で詰まる。
別に名前を忘れたわけじゃない。
ただ、何となく――この瞬間が、有理紗にとってのターニングポイントだと直感した。
「アタシは」
『あ、オイラが先に名乗った方がいい? のかな? えっとね、オイラの名前は……えっと、うーんと……?』
「……」
テーブルの上でことこと揺れる旅行鞄に、有理紗は顔を引きつらせながらもナイフを仕舞い、鞄のロックを外す。
中身は空っぽで、内側に大きなポケットが二つある。
シンプルながらも使い勝手は悪くなさそうだが、如何せんお喋りが過ぎる。
『うーん、うーん、オイラの名前って何だろ……? ジョニーとか? うーーーーん……?』
「……悪いんだけど、お喋りは間に合ってる」
『え? それって?』
鞄をパタリと閉じると、有理紗はロックを掛ける。
「……出来れば、普通の鞄がいいんだケド」
『お、おいおい! せっかく目覚めたのにちょっと喋っただけでお役御免は酷くない? 見てみなよオイラのこの身体をさ! アンティークで洒落てて、なおかつ頑丈! 百人乗っても……あ、百人は無理だな。普通に死ねる。あー、いやいやでもでも! 一人で旅する時の話し相手とかにもなっちゃうよ! 道案内も……あ、ムリだな。あとはー……ほら、荷物の管理とかもお手の物! 賞味期限とかそういうのもバッチリ! どうよ!?』
「……」
『あの、その、今すぐコレ捨てないとみたいな顔するの止めて欲しい。いや、ホントに。マジで』
間違いなく、開けちゃいけない箱を開けた気分だった。
自分より口が達者な旅行鞄を相手にするのはこんなにも辟易するものなのかと、口下手の有理紗の顔が溶けたアイスクリームみたいにげんなりしていく。
『四の五の言わず連れてけよー! 旅は道連れ、世は情けって言うんだろ? だったらさー!』
「…………はぁ」
ロックを外して、用意しておいた荷物を詰め込む。
贅沢は言っていられない。
喧しいことを除けば、至って普通のトランクケースなのだ。
「で、名前は?」
『うん、忘れた! だから名前付けてくれると嬉しいなー、なんて』
「…………………………パンドラ」
絞り出すように出てきた、そんな名前。
間違いなく、この旅行鞄は開けてはいけない鞄だった。
神話か何かに登場する開けてはいけない箱に、そんな名前がついていたことを脳裏の片隅に見つけて、絞った雑巾みたいに拙い四文字が零れ落ちる。
パンドラの箱。
開けると災いが訪れる箱。
少なくとも、有理紗にとっては現在進行形。
『お? パンドラ? おー、ほーん? なんか良いじゃん。パンドラって名前、ちょっと気に入ったかも。んじゃ、今日からオイラはパンドラってコトでひとつ』
「……頼むから、煩くしないで」
『って、まだそっちの名前聞いてないよ。持ち主の名前ぐらいは、聞いてもいいよね?』
「……」
ため息をひとつ。
会話というものは、相手が少し変わるだけでこうも疲れるものだったろうか。
「……アリサ。アタシの名前は、アリサでいい」
田之上有理紗、ではなくて。
ただの、アリサ。
声にすれども、そのニュアンスの違いは口にした当人にしか分からない。
それは、然したる意味のない区切り。
有理紗なりの――いや、アリサなりの、一種の決意表明のようなモノだった。
大きな意味はない。けれど、小さ過ぎるというほどでもない。
とっくに役に立たなくなった名字を捨てただけのこと。
ちょっとした、ジンクスとか、ゲン担ぎみたいなものだ。
『そかそか、アリサね。りょーかい。んじゃさ、楽しい楽しい旅の準備を再開しようじゃないの』
嬉々として喋り出すパンドラとは裏腹に、アリサは淡々と荷物を詰めていく。
「……悪いけど、パンドラが思ってるような楽しい旅にはならないよ」
荷物は、あっという間にパンドラに詰め込めた。元より大した量でないのだから、当然のこと。
アリサはパンドラの取っ手を掴み、それから――テーブルに突き刺さったままのハチェットを引き抜いた。
他人のモノなのに、まるで最初からアリサのモノだったかのように手の平にフィットする。
「アタシは、忘れ物を届けに行くだけ。……それだけだから」
鍵もかけずに、アリサは小屋を後にする。
この忘れ物を《赤ずきん》へ届けるために。
そうして、旅に出た。




