名前のナイ世界 「7」
『ほー、ソレでソレで? 続きはよ』
「続き……ってもな」
膝の上でゴトゴトはしゃぐ旅行鞄に、アリサは話し始めたことを若干後悔している。
続き――続きというと、アリサがこの七ツ目ノ感覚に目覚めてから後の話。
※
自分の身体の中に、デタラメな異能力が存在する。
その日から、有理紗は自分の中に在る感覚の存在を確かに認知できるようになっていた。
今までに経験したことがないような、何とも言い難い違和感。
例えるなら、自分の胸の中に得体の知れないカタマリがあって、それが身体のあちこちに出っ張ろうとつっかえているような感じ……で、伝わってくれるだろうか。正直、初めのうちは全然慣れなくて眠れないほどだった。
有理紗の七ツ目ノ感覚が発現してから二、三日が経った辺り。
旅の途中、人口たった六人の寂れ過ぎた農村で宿を取っていた有理紗は唐突に《赤ずきん》に起こされた。時計は真夜中の一時。所謂、丑三つ時。
胸の中のよく分からないカタマリがゴロゴロしているのを堪えながら、有理紗はジャケットを羽織って後ろ姿を追いかける。
空は汚れた羽毛布団みたいに分厚い雲に覆われて僅かな光すら通さず、深夜と呼ぶに相応しい重苦しいまでの暗黒で閉ざされていた。
そんな闇の中を、彼女は真昼の道を闊歩するかのように進んでいく。相変わらず、用件は伝えられていないまま。
村から歩き続けて辿り着いたのは、閑散とした空き地だった。
弱々しい木々が点々と在って、その他は平らな野原が続いている。子供が遊び回るには十分な広さだろう。……もう少し明るければのハナシだけど。
「で、今度は何を?」
「自分の中に在る感覚の存在には慣れてきたかい?」
「んー……ん、あんまり」
有理紗は正直に所感を述べる。
以前ほど不快とまではいかないが、決して心地良いというワケでもない。
「そうか……ま、慣らし運転だと思えば問題ないさ。そもそも、今日は別に感覚を使う特訓は考えていない。まずは基礎中の基礎からやろうと思っている」
「って言うと?」
「人が夢を見るのは夜。自然、あのバケモノと出くわすのも大抵は夜だ。夜の闇の中で戦うには、それ相応に求められるモノが二つある。一つは『眼』。そしてもう一つは『足』さ」
背中でそう語る《赤ずきん》の姿ですら、今宵の帳が覆い被さって黒く霞んでいる。
夜闇の中で戦うとなれば、相手を見失わないための『眼』が重要となる。
「戦う……」
「今すぐに戦うことを考える必要はないさ。言っただろう? 今日教えるのは基礎だと。もちろん、それは戦いに置いても重要だが、単純に生き残るためにも必要なモノだ。万が一の時、逃げ足だって鍛えておけば馬鹿にならないものさ」
「……まぁ」
勝ち負けではなく、生きるか死ぬか。
彼女が教えるのは相手を倒すための力ではなく、自分が――有理紗がこの世界で生き延びるためのライフハック。
「小難しい理論やセオリーを語るのは私は苦手だ。だから、早速やっていこうと思う」
「何するの?」
「簡単さ。私と鬼ごっこをする。それだけさ」
「……鬼ごっこ?」
有理紗とて幼少の頃に何度か経験のある児戯のひとつ。
数名のグループを組んで中から鬼を一人決め、それ以外の人は決められた鬼から逃げ回るというシンプルな追いかけっこ。
単純な足の速さはもちろんのこと、遊ぶ場所によっては逃げるルートや立ち回りなども重要になってくる遊び。
「ルールは至って単純。有理紗が鬼になって、私の身体に触れられればそれで特訓はお終い」
「…………えーっと」
《赤ずきん》を相手に鬼ごっこをする。
単純に、たったそれだけのこと。
確かに彼女は少し嗄れ声で、少し猫背で、パッと見ればもうほとんど老婆といって差し支えの無い人だ。
だけど、それはあくまでパッと見の印象であって、本来の彼女の強さは老婆の枠に収まるような代物ではない。
本気を出して地面を駆ければその身が霞んで消えるような速さ。
異形を前にしても何ら怯まない精神力に、ほぼ一方的に相手を屠る常人離れした膂力。
そんな彼女を相手に鬼ごっこである。
元女子高生、しかも帰宅部だった有理紗では特訓としてまず成立しないのでは。
「有理紗、私がお前さんに素質があると言ったのを覚えているかい? アレは何も七ツ目ノ感覚に限った話じゃあないんだ。死を越えた人間は、自身の肉体的な枷も外れていることがほとんどだ。有理紗には、今の私に追随できるだけの素質がある。鍛えれば鍛えた分だけ、その身体が応えてくれるはずさ」
「……つまり、やる気次第で《赤ずきん》みたいになれる? ってこと?」
「そうだよ」
「……」
信じらんないな。
みたいな顔をした有理紗を見て《赤ずきん》は薄く笑う。
「ま、無理もないさね。筋力トレーニングを勧められて、次の日に力こぶが出来上がる……みたいな風のハナシをしてるわけだからね。騙されたと思ってやれば分かるよ。少なくとも、生きてた頃よりかはずっと速く走れるようになる」
「……ってもなぁ」
「さ、時間がもったいない。移動範囲としては、この森の中に限定しよう。私は木の上に逃げたりもしないし、陰に隠れたりとかもしない。純粋に、足で追い掛けておいで」
「え、あ、ちょ……!」
そんな朗らかな導入からよーいドンの掛け声も無しに《赤ずきん》の姿は忽然と消え失せる。
ぽつん、と夜の森の中に取り残される有理紗の手の平は空しい虚空を撫でていた。
「……この前といい、今回といい、唐突が過ぎるんだよ……」
そんな恨み言ですら泥濘のような暗闇の向こう側に飲み込まれてしまう。
こんな場所で立ったまま何を言っても、意味を為さない。
だから。
「……あー、もー」
やけっぱちに、有理紗は闇の中へと走り出した。
※
「結果から言うと……まぁ、ホントに足は速くなった。最初は実感するほどでもなかったけど、次の日、次の日って繰り返してるだけで、自分でも信じられないような速度で走れるようになった。今ならボルトよりも速く走れる」
『ボルトって誰?』
「え、ほら陸上のウサイン・ボルト」
『……』
「……」
『……誰?』
「…………まぁ、とにかく。速く走れるようになったってコト」
『はー……そりゃ凄い。オイラじゃ、速く走れるなんて感覚わっかんないけど』
「……キャスターを付ければ、いいんじゃ?」
『それ、オイラが走ってるんじゃないからね? 後付けの車輪で転がされてるだけよ?』
「付けた後、アタシが思い切り蹴飛ばそうか」
『それ、オイラがぶっ飛んでるだけだからね? 真顔で妙案思いついたよみたいな顔しないでくんない?』
※
夜の鬼ごっこを繰り返して――二週間。
「……つかまえた」
《赤ずきん》の背後に、有理紗が立っていた。
吐息は規則正しく、ピンと背筋を伸ばしたまま、その右手が《赤ずきん》の肩をぽんと叩く。
「あぁ、捕まっちまったね」
そんな、孫でも褒めるかのような柔らかい声で彼女は初めて降参の意を示した。
《赤ずきん》との特訓の甲斐あって、有理紗の脚力は目覚ましい成長を遂げた。
単純な速度はもちろん、走る上で重要なスタミナも在学中とは比べ物にならないほどに逞しくなってくれたし、夜の闇を走り続けた結果、暗い闇の中で標的を見つけ、追い掛けるため、選ぶべき道筋を見極める『眼』も培うことが出来た。
無尽蔵の『脚』と、夜を見通す『眼』。
《赤ずきん》が提示した二つの基礎を、有理紗は二週間という日数で身体に染み込ませることに成功した。
「上出来じゃないか。それだけ動けるようにさえなれば、並大抵の相手に後れを取ることも無いだろうし、迂闊に死ぬようなことも無いだろう」
「……今なら、本気のアンタと一緒に並んで走っていけそうだ」
「ふむ……そいつはァ」
肩に置いていたはずの手が不意に支えを失って、有理紗の身体は不格好に前のめりに崩れる。
鬼ごっこの再開か――とも思ったが、彼女が消えた瞬間を有理紗は鍛え上げたはずの『眼』で以てしても全く追い掛けることが出来なかった。
一瞬。
本当に、瞬き一つの間に生じた出来事。
《赤ずきん》の身体は、あの時と似たような形で霞のように有理紗の目の前から消えてしまっていた。
耳を澄ませて、息遣いを探して、音を、気配を、影を、ニオイも風も、これまで使ってきた技能をフルに発揮しても、ついぞ彼女の姿を捉えることは叶わない。
「ちと、自惚れってモンだね」
気づけば、《赤ずきん》は有理紗の背後にピタリと背中合わせで立っていた。
追えもしなければ見ることも出来ないとなると、今度は有理紗がお手上げだった。
「……まだ本気出してないって?」
「これは私の感覚さ。頃合いだ、こっちの特訓に移ってもいいだろう」
第六感の、その先。
死を越えた境地に辿り着いたものだけが目覚め、見出し、使いこなせるようになるという、己の『過ち』に帰結する異能力――七ツ目ノ感覚。
有理紗も、自分の中に在ると認識出来るようにこそなったが、使いこなす以前にまだちゃんとした使い方を知らない。
自分でもあやふやな異能力を、自分のモノにする。
有理紗は無意識に生唾を飲み込んで、彼女の言葉を緊張の面持ちで待つ。
「なに、小難しく考える必要はないさ。感覚は、基本的にある条件下でしか発現することが出来ない」
「条件……?」
「それは……っと、その前にこれを渡すのを忘れていた」
そう言って、《赤ずきん》は外套の中をごそごそと探ると金色の懐中時計を取り出して見せた。
細工の類のない、飾り気が極限まで失せているカバーに閉ざされた時計は、僅かに差し込んだ月の光を妖艶に反射して有理紗の瞳に妖艶な光彩を映し込む。
懐中時計だなんて洒落たアイテム、東急ハンズの時計コーナーでしか見たことがない有理紗からしてみれば、自分にとって縁遠いモノな気がしてならない。
「これ……は?」
「開けてごらん」
言われるがまま、有理紗は懐中時計のカバーを開く。
外側と同じように極端なほどに装飾がオミットされた文字盤の上で、細くシンプルな長針と短針が時刻を指し示している。
時刻は――7時19分。
「…………アタシが、死んだ時間?」
「それは、お前さんと初めて会った日に私が拾ったモノだ。どういうワケか、あっちで死んだ人間の側に必ず転がっている代物さ。……して、重要なのは時計の、秒針だ」
「……」
改めて視線を落として、有理紗は首を傾ぐ。
秒針は、確かに動いている。
動いてはいるのだが、奇妙なことに、前に、後ろに、前に、後ろにと一定のリズムで前後するばかりで埒が明かない。これでは、どうあっても時計の長身と短針はその先の時刻を刻みようがない。
「……壊れてる?」
「時計としてはとっくに。だが、その秒針の震えは、私たちの近くに夢から生まれたバケモノがいると知らせてくれるんだ」
「……ッ」
ハッと身構え、有理紗は全方位に神経を張り巡らせる。
今日まで培ってきた技能を総動員して、秒針が示すバケモノの居場所を探る。
「落ち着きな、そこまで殺気立つほどの相手じゃない。こういう森の中のは、野生の獣の飢えや怯えから生まれたヤツだ。正味、放っておいても私らには害はない」
「害って……あの村の、人は?」
「……?」
それがどうしたんだい?
みたいな間の取り方をされて、次に出てきた言葉は実に冷たいものだった。
「そうさね……あんな貧弱な連中じゃ追い払うのだって無理だろう。バケモノの飢えの足しになるだけさ」
「……一応、一宿一飯の」
言いかけて、小屋をひとつ借りてはいるが飯は自分たちでどうにかしろとあしらわれていたのを思い出した。
訂正しようとした有理紗の口先を、《赤ずきん》の言葉が遮る。
「恩があるから助けたいって?」
「……ダメなの?」
「…………ふむ」
ぼうっと考えるように彼女は小首を傾げる。
近隣に脅威があるというのであれば、排除しておくに越したことはないだろう。少なからず、今の有理紗にはそれが出来るだけの感覚があるのだ。まだ使い方を知らないが。
「……まぁ、お前さんは優しいからね。そうなるだろうとは思ってたさ。……いや、しかし……これは、ちと難儀だね……」
珍しく歯切れの悪い彼女の反応に、有理紗は苛立ちを覚える。
やり方さえわかれば、今すぐにでも走り出してバケモノを探しに行くというのに。
「使い方さえわかれば、アタシ一人でも出来るんじゃないの?」
「そりゃ、そうなんだがねぇ……」
「…………」
トン、と爪先で地面を軽快に蹴飛ばす。
募る苛立ちがとうとう限界を超えて、有理紗は自分の意志に、正直に足を突き動かした。
全身の感覚を研ぎ澄ませて、木々が枝葉を伸ばすように森の中へ意識を落とし込んでいく。
自然の中で生じる音や匂いは、良くも悪くも嘘をつかない。
生きた獣や大地の営みに、本来なら在り得ないであろう異物が混じれば、それだけで歪みを帯びて違和感を発する。
真っ白い紙の、その真ん中にインクの染みをひとつ零した時のような。
インクの染みは、否応なしにその存在感を強く放つ。
「見つけ、た……ッ!」
視界に小さな影を捉えて、有理紗は樹木の表皮を直角に駆け上がって獲物の姿を凝視する。
小太り気味の中年男性とほぼ同等の黒い塊が、夜の森の中を緩慢な速度で彷徨っている。
殺気立つほどの相手じゃない――《赤ずきん》のその言葉を、有理紗は『弱い』と勝手に判断した。
その判断は、きっとで間違っていない。
のそのそと林をかき分けて進んでいく様は何処からどう見ても隙だらけで、今の有理紗の速度を以てすれば翻弄し、単純な手数で優位を取れる。
有理紗はデニムのポケットから折り畳みナイフを取り出した。
何かあった時に――と《赤ずきん》に持たされているもので、缶詰の蓋を開けるのには不自由しないが、それ以外となると少し心許ないような気はする。が、今の有理紗が使える最大限の得物はコレしかない。
樹上から黒い塊の様子を窺うも、これといった変化は見受けられない。
「有理紗」
「……ぅ!?」
不意に名前を呼ばれてビクリと肩が跳び跳ねる。
何時の間に追いついたのか、有理紗の隣に《赤ずきん》が立っていた。
見上げても、フードの奥の表情はやはり見て取れない。
「お、脅かさないでよ」
「有理紗、何を急いでいるんだい?」
「……急いでなんか」
断言できないまま、有理紗の視線は少し虚ろに前へ向き直る。
傍から見て、ロクな説明も聞かないまま唐突に駆け出した有理紗の威勢に違和感を感じるのも無理はない。
実際、有理紗は少し――ほんの少しだけ、焦っていた。
アタシが感覚の使い方を覚えて、戦えるようになれば、少しは《赤ずきん》の役に立てるんじゃないか。
恩を返すことに繋がるんじゃないのか。
ずっと世話になりっぱなしの自分が嫌で、特訓を介してそれを変えることが出来たら――なんて、身勝手で矮小な有理紗の願望。
「いいかい有理紗、落ち着くんだ。まずは自分の精神をフラットにする。凪を迎えた水面のようなね」
「……」
自分の心を水面とするのであれば、今の有理紗の心は緊張と焦燥とで震えて波紋が立っている。
瞳を閉じて、深呼吸して、己の心の水面を落ち着かせる。整えていく。
「……有理紗」
「……何」
閉ざした瞼の上から《赤ずきん》の声が聞こえる。
水面を揺らす波紋が、ほとんど消えてなくなっていく。
「何を焦っているのかは、この際もう聞かない。ただ、ひとつだけ約束してほしいことがある」
「約束?」
「関わると決めたのなら、最後まで付き合うこと。途中で投げ出さないこと」
「それは、修行のこと? そりゃもちろん」
「……いや」
水面を震わす波紋が、完全に消える。
鏡のような水面を思い浮かべた瞬間、有理紗の瞳に淡い蒼の輝きを帯びる。
有理紗の中の感覚が、深層心理から目覚めた証。
「……凄い。なんか、漲ってきてる。……は、は……!」
全身が火照ってきて、指先にふわふわとした熱が宿っていく感覚。
それでいながら、思考は清々しい朝の目覚めのようにクリアで、冴え冴えと、身体の中の緊張が一切失せていく。
身体中を奇妙な昂揚感に包まれ、今すぐにでも駆け出してしまいたい衝動に有理紗は駆られていく。
それはまるで、欲しかった玩具を手にして早く遊びたいと逸る子供のよう。
浮足立つ有理紗を見――《赤ずきん》は、傍からは見えないような小さな溜息を吐く。
彼女が感じた嫌な予感は、すぐさまに的中した。
黒い塊が緩慢に動き出すのと同時に、有理紗の身体がするりと枝から滑り落ちる。
音もなく着地したかと思えば、勢いはそのままに駆け出して黒い塊へと肉薄していく。
獲物に一切気取られていない完璧な不意打ち。
蒼い眼光を帯びる有理紗のナイフの一撃が、黒い塊を一刀両断――、
「……ッえ」
することは、無かった。
有理紗が放った一閃は、あくまでただのナイフの一閃に過ぎず、分厚い肉の皮を多少なりと傷付けるだけで軽傷を負わせるので精々な威力しかなかった。
黒い塊が、斬られた痛みに気づいて振り返る。
それと同時に有理紗の顔面に重たい衝撃が襲い掛かって、その身体があっさりと弾き飛ばされた。
枝葉を道連れにしながら、二、三メートルほど吹っ飛んで暗い地面の上に転がされる始末。
「…………ッ、あ……だ……」
常人なら顔面の骨が砕けて喋る暇もないような威力だが、既に常人の域からはみ出ているような有理紗でも意識が朦朧とするぐらいのダメージ。
消え失せそうになった意識を意地でどうにか繋ぎ留めながら立ち上がった有理紗が見たのは、黒く淀んだ毛色をした子熊だった。
単純な身の丈で言えば有理紗とそう大差はない。
だが、その両腕だけは筋肉が異常に発達して――いや、発達なんて生易しいレベルではない。
あまりにもデタラメに、アンバランスに膨れ上がった両腕はまるで巨木で仕立て上げた棍棒のような無体な有様。
動くためには、その膨れ上がった両腕を引きずるしかない。子熊が緩慢な動きをしていたのも道理だった。
切っ先を正面に突きつけ、不格好ながらに有理紗は構える。
構えて、しかし、動かない。
「……なに……コイツ……」
泣いている。
既に生物としての範疇を越えた見てくれの子熊の瞳からは、赤い血の涙が流れていた。
敵意を剥き出しにする野性と、生まれて間もないような幼さとが入り混じった瞳から流れる雫。
それを見た有理紗は完全に混乱してしまっていた。
バケモノなら倒せばいい。
そんなにべもない思考が、バケモノの流す涙を見た瞬間に躊躇し、突きつけたナイフが震えだす。
倒せば、いい?
倒して、いいのか?
涙を流すような相手を?
逡巡は戦意を削ぎ、無防備へと誘い、揺れる動く感情の処理に凝り固まる有理紗を見て子熊が猛スピードで走り出す。
人間のように後ろ脚でふらりと立ち上がり、両腕を引っ張っての不器用な突進。
見た目どうこうはともかくとして、そのスピードは凄まじい。
数秒と経つまでに彼我の距離を縮め、子熊は身体全体で大きく薙ぎ払うようにして両腕を振りかぶる。
ハッと我に返った有理紗の反射神経が弾くように身体を跳躍させる。
辛うじて難は逃れたが、子熊が叩きつけた両腕は辺り一帯の地面を易々と砕き、巻き添えをくらった木々が轟音と地響きの中に飲み込まれるかのように引き裂けていく。直撃すれば――なんて、考えたくもないような威力。
「……はッ、はぁ……ッ、は……ッ」
容赦のない一撃が森を壊し、有理紗はただただ逃げる一方。
完全に怖気づいてしまった身体は驚くほどに正直で、呼吸はあっという間に乱れて、ふらつく足元ではマトモに走れもしない。
「有理紗」
逃げ回る有理紗の頭上から助けとばかりに《赤ずきん》の声が降ってくる。
見上げても、その姿カタチは見当たらない。
夜の森が有理紗へと語り掛けているかのように、彼女の声だけが聞こえてくる。
「少し、私の見込み違いだったのかもしれない。今のお前さんには少し荷が重そうな相手だ。あとは私が引き継ぐよ」
「……」
その声を、言葉を耳にした瞬間。
逃げ一辺倒だった有理紗の足が身体がピクリと電気に痺れたみたいに小さく跳ねて、その足にゆっくりと制動が掛かる。
それは《赤ずきん》なりの優しさや気遣いから出てきた言葉なのかもしれない。
その気遣いは、事実ありがたい。
けれど、その言葉に少なからずの失望があることを有理紗は感じ取っていた。
「……ちょっと、待って……待って」
喉の奥から這って出てきたような有理紗の声が、果たして彼女へと届いたかどうかは定かではない。
ただ、有理紗は自分の口でハッキリと言葉にしなくてはならないという強い意志があった。
「……最後まで付き合えって言ったの、アンタだ。だから、だから……さ」
背後に迫る脅威に、向き直る。
元はといえば、何もかも有理紗の傲慢から始まったこと。
黒い塊を見ただけで楽勝だと侮って、対峙して涙を流す異様さに呑まれて、怖気づいて、逃げ出して。
でも、倒すと決めたのは間違いなく有理紗で。
《赤ずきん》は途中で投げ出すなと言った。
「アタシが、やるから……! もうちょっとだけ、待って……!」
淡い蒼が、もう一度有理紗の瞳に宿る。
今ここで彼女の言葉に甘えるのは、生きる上で恥ではないかもしれないが、それは有理紗にとって紛れもなく嫌な思い出となってしまう。
真正面に向けて、駆け出す。
愚直に猛進する子熊の、その目前で有理紗は大きく横に飛び込んだ。
身体全体を使わないと振り回せないような両腕は、つまりは移動する上で邪魔になって小回りが利かないはず。
その予測は的中して、標的を見失った子熊は有理紗の姿を追うべく身体を捩るも、直進するよりも遥かに劣る鈍足。
まだ恐怖が残っている有理紗の覚束ない駆け足でも難なく背後を取れる。もう、無我夢中だった。
一足で跳んで、掌よりほんの少し大きい程度の折り畳みナイフを、まるで竹刀でも握るかのように両手で固く握り込む。
こうしないと保たない。
そう確信めいた予感が無意識に拳を強く握らせ、手にした得物に対して大袈裟なまでの大上段に振りかぶる。
「――、ッ!」
致命的なまでに愚鈍な速度で子熊がようやっと有理紗へと振り返る。
獣の目尻に滴る赤い雫を見た瞬間、再び有理紗の精神を逡巡の渦へと誘う。
どんな理由があって、獣が人間のように涙を流すというのか。
「ッぅ、やぁぁああああああああああああ!!」
有理紗は、吼える。
しかし、それは獣が吼えるソレと比べるとあまりにも――あまりにも悲痛なものだった。
ほとんど悲鳴と大差ない叫びを発しながら、自分の迷いも、躊躇いも、憐憫も、今立っているこのロクでもない世界も、何もかも、全てまとめて一刀両断するかのように渾身の一振りを放つ。
ちっぽけな切っ先が子熊の脳天に触れる。
淡い光を帯びた有理紗の瞳に、それはハッキリと映り込んだ。
刃が表皮を斬り裂いて、血飛沫が上がる瞬間。
握りしめた柄から伝わる、ナイフの先端が筋肉の奥底の骨身に触れ、そして砕ける感触。
命を奪うという、光景。
それを認識した瞬間、得体の知れないチカラの奔流が有理紗の全身から濁流のように沸き起こり、折り畳みナイフの斬撃は嵐と変わり果てた。
止め処なく溢れる力が暴走して、有理紗ですらコントロールできない怒濤の剣閃が巻き起こり、子熊はおろか目の前一帯を滅多矢鱈に切り刻んでいく。木々は枝葉も何もかも細切れに、地べたはまるで竜が悪戯に爪痕を残すかのように、もう生き物だろうが無機物だろうがお構いなしに破壊の限りを尽くしていく。
後に残ったのは――凄惨な一撃で荒野と化した森と。
それを目の当たりに、ぺたりと崩れて放心する有理紗だけだった。
「………………ぇ、あ……」
言葉が出ない。
自らが行使した感覚による身体的負担と、目前の悲惨な有様を見て絶句しているという二重苦。
コンクリートで固められたかのように硬直する全身にほとんど感覚はなく、辛うじて自分が何かを握りしめている程度のことしかわからない。刃はひしゃげて、柄は空き缶を潰したかのような塊と化していたが、今の有理紗の瞳には映らなかった。
「まぁ……初めてにしちゃあ、及第点じゃないかね」
そんな言葉が、有理紗の側から響いてくる。
気が付けば、傍らには《赤ずきん》が立っていた。
「この先、お前さんがこの世界を生きていれば少なからず夢から生まれたバケモノと出くわすはずさ。その時、お前さんがどうするかは自由さ。興味がない、倒せそうにないと思うのなら素知らぬ顔をして無関係を装ってもいい。私みたいに、狩人と名乗って狩るのもいい。お前さんの性格なら、困っている人を助けるために……なんてのも同義さ。……ただし、一度関わると決めたら、最後まで付き合うことだ」
「…………」
何かを言いたいのに、何も言えない。
身体すら満足に動かせなくて、辛うじて動いてくれた目だけを動かして、語り掛ける《赤ずきん》の姿を視野に入れる。
「でないと、バケモノと大差ない存在になっちまう。もしそうなったら……救いがない。それだけは、覚えておくんだよ。有理紗」
「ぁ……うん……」
絞り出るようにした声がキッカケになって、張りつめていた有理紗の身体から緊張が抜けてぱたりと仰向けに倒れる。
ひたすらに黒い夜の闇が、有理紗の瞳を覆っていく。
「しかしまぁ……こりゃ本当にやり過ぎだ。もうちょっと加減できないもんかねぇ……」
「……次からは、努力する、よ……」
呆れたような《赤ずきん》の声が酷く遠くに聞こえる。
身体、精神、ダブルで限界に達した有理紗の意識は、数秒と経たぬ間に深淵の中に放り込まれてしまった。




