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名前のナイ世界 「5」

 車窓の向こう側に広がる夜を見ながら、アリサはふと《赤ずきん》との過去を思い出していた。

 突然死んで、こんな世界へやってきて、助けられて、教えられて。

 そして――急に、いなくなって。


「……」


 ふうと軽い息を吐いて、首を振る。

 夜気で冷えた風は心地よかったが、長く当たり過ぎた所為か少し肌寒く感じ始めてきた。

 半分ほど開いていた窓を閉めると、アリサは車内に視線を巡らせる。

 全体的に暖色でモダンな内装の客車だが、乗客はアリサ達以外に誰一人とていない。

 自動列車が駅に到着したときもアリサ以外の利用客の姿は結局見えなかったし、その後何駅か停車しても乗客は増えなかった。手持無沙汰な時間、最後部から先頭までの客車を確認してみても乗客はアリサ以外に誰もいなかった。少し、腑に落ちない。


「中央市街は、大きな街だって聞いてたけど……」

『物の見事に貸し切り状態じゃん。何しようが喚こうが自由自在ってワケだね』

「……別に何もしないし、喚いたりもしない」


 とはいえ自動列車と言えど中央市街まで辿り着くのには――地図と路線図を広げて、確認――ざっと見てまだ四時間程度は掛かるのだろうか。乗車した駅から見て半日ぐらい掛かる計算だ。

 窓辺に頬杖をついて、アリサは意味がないと知りながらも夜の闇にばかり視線を注ぐ。

 無味乾燥、そう顔に書いてあるかのような仏頂面が窓ガラスに反射している。


『ヒマだなー、ヒマだなー』

「…………」


 ルウシェから貰ったお菓子はとうに食べ尽くしてしまっていて、手元には簡単な携帯食料と水が少々。

 足元でヒマだヒマだとやかましい旅行鞄に蹴りを入れてから、アリサは目元を指でほぐす。


『眠いの?』

「んー……別に、眠くはないんだけど」


 こういった所作に意味を求めるものではない、と旅行鞄如きに窘めても意味は無さそう。


「……こーやって夜を見てると、あの人のことを思い出す」

『お? 思い出話? 自分語り? そういえば、《赤ずきん》って結局どんな人なの? オイラ、アリサの恩人ってぐらいしか聞いてないんだけど』

「そうだっけ……?」


 少し考える風に指先で顎を撫でながら、アリサは思い出の引き出しを開くように語り出す。


「アタシが死んで、ここに来て、助けてもらって、その後に色々あったんだよ。……こういうの話すの、苦手だな……」


 ※


 素質がある。

 そんな風に《赤ずきん》に言われたのは、彼女と出会って、成り行きで旅を始めてから一カ月程度した頃だっただろうか。


「……何の?」


 薪を集めて戻って来た有理紗に《赤ずきん》は唐突にそう告げた。

 本日の宿は、小さな町のパン屋跡。

 食パンを模した大きな看板は既に圧し折れていて見る影もなかったが、お店の奥にあった竈は埃塗れなことを除けば良好な状態で残っていた。

 旅の間、掃除ぐらいは出来るからと、有理紗は大抵の雑用を自ら買って出ていた。

 《赤ずきん》は気にしなくてもいいと言ってくれたが、命を助けてもらったというのは大き過ぎる借りだ。こんな雑用をこなした程度で到底返せるものではないが、何もしないよりかは全然いいし、何もしないなんて有理紗の精神が許さなかった。


「……少し悩んだんだが、私も何時までもお前さんを守りながら旅が出来るとは限らないからね。最低限、教えておいた方がいいと思ってね」

「だから、何のハナシ?」

「生きるための話さ」


 ついておいでと《赤ずきん》は豆鉄砲でも食らったような顔をした有理紗を店外へと招く。

 もう黄昏時で、夜は目と鼻の先といった頃合い。

 悪夢から生まれたあのバケモノがうろつき始める時間帯に何を考えているのだろうと、不承不承ながらも有理紗は薪を隅へと置いてからテーブルの上のレザージャケットを羽織る。以前、ブティックで失敬したモノだ。

 路地に出て《赤ずきん》の姿を探す。

 彼女はどうも郊外に向かって歩いているようで、気が付けばもうほとんど町の入り口まで進んでいた。

 老人とは思えないような脚力に辟易しながら、有理紗は走って追いかける。


「ねぇ、ちょっと。先に、説明してからにしてよ」

「生きている人間って言うのは、無意識に自分の身体機能や能力に制限を設けている。火事場の馬鹿力、なんて言葉を知っているかい? 追い詰められたり土壇場だったりに、当人が自覚してないような、或いは、当人が出し得ないような未知の力が発揮するというソレさ」

「……まぁ、聞いたことぐらいは」


 そんな些末な言葉を適当に交わしながら、気づけば二人は郊外の森へと踏み込んでいた。

 ギャーギャーと喚くカラスの声が頭上を飛んで回っていて、四方八方はもう明かり無しでは見通せないほどの闇が押し寄せている。

 不意に、さわ、と有理紗の肌が粟立つ。

 何かに見られているような、漠然とした視線を感じる。

 《赤ずきん》は仕事道具のハチェットを取り出すと、徐に地面へと突き立てた。


「何、してるの?」


 その行為の意味も意図もサッパリわからない有理紗は怪訝な感情をストレートに口に出す。

 すると、何も答えない彼女の姿が、有理紗の目の前で突然霞のように消え失せた。


「……え……? ッわ!?」


 彼女の姿が消えると同時、有理紗が感じていた気配が突然肥大化して背後から弾丸のように襲い掛かってくる。

 寸でのところで回避した有理紗が見たのは、彼女と初めて出会った時にも見たような黒い獣だった。

 似てこそいるが、その全身には有象無象の刃物をデタラメに張り付けたかのような大小様々な刃が突き出ていて、まるで鎧かのように覆っている。

 よく見ると無数に突き出た刃にはぎらついた油のようなものが滴っていて、地面に落ちると、じゅ、と嫌な音を立てて土を焼き焦がす。迂闊に触れれば碌なことにならないのが想像に難くない。


「…………ど、どうしろって……!」


 助けを求める声よりも速く、刃の獣が土を蹴飛ばして有理紗に迫る。

 獲物を狩って喰らうという、ある種動物として全うな本能が歪な四肢を突き動かし牙を剥く。

 地面を横っ飛びに、有理紗はそのままの勢いを殺さぬように森の中へと逃げ込む。

 しかし、大して土地勘のない人間が今日初めて足を踏み入れる森に逃げ込んだところで何もかもが裏目に出るのは自明の理。

 未だ夜に慣れていない目では、地面に生え出た樹木の根を見落として足を取られる。茂みに突っ込む。標も無い道をいくら走り続けても迷う一方。

 そして、刃の獣にとってはこの森が住処であり、つまりは遊び慣れた庭も同義。

 どう転んでも有理紗にとってはアウェイな環境であり、獣との彼我の距離は詰められていく一方。

 当てにならない方向感覚が先導する中、有理紗は《赤ずきん》の姿を求める。

 旅の最中の荒事は、全て彼女に任せきりだった。

 何せ有理紗は一度死んだだけの一介の女子高生に過ぎない。いや、元女子高生。

 今日日を生きるティーンエイジャーが見たことも聞いたことも無いようなバケモノ相手に立ち回ることなど不可能だ。立ち向かったところで、無謀以外の何物でもない。


「ッ、はぁ、はぁ…………あの人は、何処、行って……!」


 息も絶え絶えの有理紗の目に留まったのは――《赤ずきん》が愛用するあの小さなハチェットだった。

 ハチェットとは、本来は樹木の枝葉を切り払うための小さな手斧のこと。

 小振りな赤い柄に、先端部の刃だけ妙に肥大化したそれは、彼女がバケモノ退治に用いている得物だ。

 何故か彼女は今日に限って愛用の得物を地面に突き立てて、その後忽然と姿を眩ましてしまった。

 その行為の意図は全く汲み取れる気がしないが、その小さな『赤』が目に留まった瞬間、有理紗は進むべき道標を見つけたような気がして、疲弊する体に鞭を打って急加速を掛ける。無我夢中で飛び出た電光石火の速度は、刃の獣さえ凌ぐほどの速さだったが、有理紗は気付いていない。

 ゲームか何かに出てくる伝説の剣かのように突き立てられたハチェットの下まで辿り着き、有理紗はすぐさま右手に握りしめる。

 今まで幾度と見てこそすれ、実際に手にしたのは今日が初めてだ。

 有理紗のような女が握りしめても違和感のない程よい質感と重量。

 初めて手にしたのにも関わらず、難なくフィットしてくれたそれは他人の物とは思えないほど手に馴染んでくれた。

 不格好に構えて、見据えて、威嚇の意を込めて切っ先を突きつける。

 そんな有理紗の姿勢を、しかし獣は虚勢と嘲笑うかのように猛進。


「……ひッ、ぁ!」


 剣山のような体躯を活かした凶暴な体当たりを、真正面から愚直に迫り来るその迫力は凄まじい。

 怖気づいて完全に及び腰になった有理紗が振るハチェットの刃は、安い音を立てて獣の刃をやんわり弾くだけで何の威力も無かった。

 刃の軌跡だけ外れてどうにか回避できたことだけが不幸中の幸いだが、その不幸は大きくターンして再び襲い掛かってくる。

 子供が有段者相手にチャンバラしているよりも酷い。

 防戦一方。

 いや、これではもはや『戦』と呼べるのかどうかすら怪しい。

 獣は有理紗の周囲を高速で駆け抜け、隙を見つければすぐさま鋭敏な一撃を見舞い、有理紗の頬を、身体を幾度となく掠めていく。斬られる痛みと酸で焼かれる熱とが全身を這って回るように襲ってきて、立っているのがやっとという状態にまで追い込まれる。


「はぁ……ッ、ぁ……っつ……うぅ……」


 理不尽な仕打ちは涙となって溢れ出て。

 拙い抵抗の結果はどうしようもない虚しさを与え。

 ついに有理紗の身体は限界を訴えて膝を折ってしまう。

 逃げたくても身体はちっとも動いてくれないし、叫びたくても、今更叫んだところで間に合うわけもない。

 絶好のご馳走を目の前にしてだらだらと涎を垂れ流す獣の動きが加速する。

 今からきっと、あの牙と刃とでズタズタにされて食い殺される。

 人生で二度も死を経験するなんて、実はけっこう稀有な経験なんじゃなかろうか。

 シニカルな笑みが口元で勝手にこぼれて、涙で溢れて、鏡を見たら間違いなく爆笑してしまいそうな顔を浮かべて有理紗は――悔しい、と思った。

 訳も分からずに死んで、あの人に助けてもらって、些末な命が大した恩も返せずに消えようとしている。

 もう死んでしまってもいいやと諦める自分の後ろ髪を引っ張る、自分がいた。

 まだ死んじゃいけない。

 まだ死ねない。

 死んだら、あの人に失礼が過ぎるから。

 そんな反骨精神が、限界を迎えた有理紗の身体をゆっくりと奮い立たせる。

 その瞬間、奇妙なことが起こった。

 獲物を相手に嬉々として飛び掛かろうとしていた獣の爪先が、突然地面を深く抉って無理矢理な急制動を促した。

 刃の突き出た醜悪な前身を低く落とし、壊れた原付のエンジン音みたいな唸り声をあげて有理紗を威嚇している。

 威嚇とは、先の有理紗のように武器や脅威をひけらかして、強敵に対し自らを()()()()()()行為である。

 今、刃の獣は有理紗に対し乱杭歯をむき出しに威嚇行為をしている。

 それはつまりは、獣にとって有理紗が脅威であると、有理紗を相手に身を守る必要があると判断されたためである。

 何を以てして、獣は有理紗を脅威と認定したのか。


「…………」


 ゆら、と不安定に立ち上がった有理紗の姿に、一つの変化が生じていた。

 切傷と小さな火傷で満身創痍の有理紗の『眼』に、薄っすらと蒼い光が帯びている。

 それは、秋の日の空のような。

 それは、凪で止まった海の水面のような。

 弱くて、儚げで、透き通るような色合いの光。

 それを目の当たりにした獣は低い姿勢を維持したまま、その後ろ脚を、じり、と後退る。

 唐突に有理紗の身に降りかかった異変。

 その蒼い光を宿した瞳がぼんやりと獣を見下ろす。

 そのままじっと動かない。

 だからこそ不気味で、出処の分からない恐怖心を余計に駆り立てる。

 先に動いたのは、有理紗だった。

 動いたといってもたったの一歩。右足を徐に前へと動かしただけに過ぎない。

 獣はそれを、間合いに踏み込んできたのだと判断した。

 抉るように地面を蹴って、獣は刃の切っ先を全て前へと突き立てて駆け出す。

 凶暴な突進を前にしても、有理紗の身体はゆらゆらと揺れるばかりで覚束ない。

 射程距離に達した獣が跳ぶのと同時。

 すぅ、と有理紗は息を吸い込んだ。

 蒼い光を帯びた『眼』が映した世界の中で、醜悪な獣の姿だけがくっきりと見える。

 ハチェットを手にした腕がゆっくりと上がって、幽鬼のような覚束ない気配が刹那に霧散する。


「――ぅあ、が……ッ、ぁああああああああああ!!」


 女らしからぬ裂帛の気迫。

 声帯がぶっ壊れそうなほどの絶叫とを綯い交ぜに有理紗はハチェットを振り下ろした。

 縦一文字に振り下ろされた刃は真正面から飛び掛かってくる獣の脳天を精確に捉えた。

 切っ先が触れる瞬間、ハチェットの刃は獣の皮膚を斬り裂くのではなく、かと言えば貫通して骨身を諸共を砕くでもなく、ただただ目の前一帯を破壊し尽くす余りにも強力過ぎる、尋常ならざる剣閃を生み出した。

 それは、言ってみれば斬撃の暴風雨。

 逃げ場のない斬撃の嵐は、獣をバラバラに切り刻み、全身を覆っていた刃の鎧も、黒く硬質化した皮膚も、筋肉も内臓も何もかもを――果ては、獣が住処としていたこの森でさえも無差別に破壊の限りを尽くす。

 大木も、枝葉も、全ては塵と化して東の空へと吹き飛んでいく。

 何もかもを破壊して、何もかもが無くなって。

 有理紗の意識は限界を迎え、夜の闇の中へと沈んでいった。

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